A 雪、煙、雨
雨が降っている。五百円玉で購入した透明の傘は、もう壊れかけていた。何年も使っているのだから当然なのだが、新しいものを買う余裕もないので多少の不便は仕方がない。錆びていて開閉が難しい程度で、穴が空いているわけではないのだから不満を持つべきではないのだ。
家に近付くにつれ、民間や商店の代わりに工場が増えてゆく。目に見えるわけではないが、だんだん空気が淀んでいくのがわかる。
同じアパートの住人は揃って窓を開けないほどだから、きっとかなり立地が悪いのだろう。
雨の音がうるさい。車が横を通り過ぎ、雨水がズボンの裾を汚した。ため息をつくと、白く濁ったものが、現れては消える。十二月の冷たい空気で耳が痛い。
「よう!」
背後から聞こえる声に振り向くと、見知った顔が見えた。息を切らし、冬だというのに頬は高揚している。雨の中走ってきたのだろうか。
「鈴元? なんでここに?」
高橋は首を傾け、眉間に皺を寄せた。鈴元の家は、ほぼ反対方向のはずだ。
「いやー、修学旅行の振り込みがお前だけできてないから確認しろってさっき山本に言われたんだよ。お前、部活なくなってからいつも急いで帰るから追いかけるの大変だったぞ」
「そんなの明日聞いたらいいだろ、アホか!」
屈託のない笑顔で責められても全く恐ろしくない。もっとも鈴元も叱責しているわけではないのだろうが。
「だってよく考えたら俺、二年も同じクラスなのに、高橋の家知らないんだよ!」
唇を尖らせてみせる。しかし少しも可愛くない。高橋は眉をひそめた。
「だから何だ」
「だから……友達なんだし、高橋の家が知りたいなぁと思って」
あぁ、なるほどそういうことか。俺と花札で戦って負けて悔しがりたいと。いいやつじゃないか。
「あー。悪いけど、俺今日バイトだから、また今度な」
笑顔で返事をする。花札で遊びたいのは山々だが、アルバイトを休むわけにはいかない。
「そっか。じゃーな」
手を振って別れる。高橋はビニール傘を持ち直し、家路を進んだ。
修学旅行か……幾ら必要だっけ? また万里に頼るってわけにもいかないし。
吐いたため息は白く現れることはなかった。
住み慣れたアパートの階段を登ると、金属の軋む音が雨音に混じった。ため息をつき、傘を畳む。階段から一番近い扉をゆっくりと開くと傘を置き、いつものように部屋へ進んだ。台所の隣のリビングを過ぎ、奥にある自室を目指す。
雨の所為もあるが、部屋は全体的に薄暗い。近くにある工場のせいで窓は開けることができないし、カーテンを開けると怒られるので部屋の中はいつも湿気のおかげでカビだらけだった。
着替えようとネクタイを少し緩めたときだった。かすかに香るアルコールの匂いに眉に皺を寄せる。
「……親父?」
家に居るなんて珍しいこともあるもんだ。リビングに戻り、部屋の暗闇に目を凝らす。
しばらくして暗闇に慣れた目は、嫌悪の眼差しで人影を捉えた――父親の政男だ。
「金ならないから」
吐き捨てるようにそう言うと、部屋に戻ろうと襖に手をかける。
「待て待て落ち着け、いつ俺が金寄越せって言ったよ?」
政男の返答に、高橋は振り向き、彼を睨んだ。
「年中言ってるだろ、さっさとこの前貸した三十万返せよ」
本当は貸した金額は十万円だったが、利子ということで多めに吹っかけることにした。もしかしたら修学旅行の資金を調達できるかもしれない。
「あれってくれたんじゃなかったっけ?」
しれっと答えやがって、どこで幾ら借りてるか忘れてんじゃないのか? 歳だし、あり得ない話じゃない。
「あのさぁ。マジ死んでくれない?」
自然とため息が出た。がっくりと肩を落とし、意気消沈する。
貧乏は不幸だ。せめて働いて欲しい、パチプロは職業にならないと思う。
「じゃあ、一緒に死ぬ?」 は? 今なんて言った? どうして俺が死なないといけないんだ。
「馬鹿言うな、寝言は寝て言え、あと金返せ」
イライラしながら答える。もう一度振り向いたときには、政男の姿はリビングになかった。
どこ行ったんだ。あぁ、そんなことよりなんだか眠い。これからバイトだってのに。




