A 足りてない
「それだけ格好良かったら、かなりモテるだろ?」
前方から聞こえる声は、聞き慣れた友人のものだった。
高校生になって既に三ヶ月が経過し、やっと人間関係のイロハが分かってきた時期。前の席に座る高橋は誰とでも話の調子を合わせることの出来る人物だった。今もニコニコと笑みを浮かべ、上手にバランスを取りながら椅子を揺らしている。
「そんなことないよ。でも、ちょっと目立つのかもしれないな」
田島の答えは、決して自慢や謙遜として出てきたものではない。実際田島は目立つ容姿をしていたし、本人にモテているといった自覚はまるでなかった。
田島丈治は両親の離婚が原因で最近この町に引っ越して来た。県立高校にギリギリの成績で合格出来たのも、彼の持つ運の強さなのかもしれない。
しかし彼が目立つのは、そんな理由からではない。人目を引く容姿――それが原因だった。
というのも、彼の父親がイギリス人であるというだけのことなのだが……田舎の県立高校では物珍しい存在なのだ。
「『ちょっと目立つ』どころの話じゃないと思うんだけどなぁ、俺は。だってハーフだぞ、ハーフ。炒飯と拉麺じゃなくて人間の、だぞ。格好良いよ」
田島の机に頬杖をつきながら述べた言葉は、彼を称賛するものばかりだった。
それは、決して嘘などではないのだが、かなり誇張した物言いであることは帰国子女の田島でも容易に理解することが出来た。もっとも、外国に住んでいたのは、ほんの五年間のことだったのだが。
「そんなに誉めても、演劇部には入らないよ」
田島は毎日のように繰り返している台詞を口にした。もうこれで何度目になるだろう?
もうすぐ新入生の仮入部期間が終わる。それまでにあと一人、入部する人間がいないと演劇部は廃部になってしまうらしい。この学校では、五人の部員が揃わないと即廃部になるのが常識なのだが、演劇部は長年続く歴史ある部なので部員が三人でも存続させる、と特別に許可が出たらしい。
喋っている高橋は、暑そうに制服の袖で額の汗を拭った。あぁ、汚い。せめてハンカチとかで拭けよ。
そんなに暑いなら、どうして半袖を着てこないのだろう? 昼休みになると教室が熱気に包まれるのは分かりきっていることなのに……。まさか半袖の制服を購入していないというわけではあるまい。
もう衣替えの時期も過ぎ、田島を含むクラスメイトの大半が半袖の制服を着ていた。まだ六月の中頃ではあったが、冷房の効かない教室は灼熱地獄のような暑さだったからだ。それにも関わらず、高橋は頑として短い袖のシャツで登校して来なかった。
なんて変わった奴なんだろう? コイツが演劇部に所属しているというのもなんだか可笑しな話だ。見た目はたしかに悪くはないが、あそこの部長は志摩先輩だ。あの人と上手くやって行くのは、きっと簡単には出来ないに違いない。
田島はそう思いながらゆっくりとため息をついた。時計の針は、まだ午後の授業まで時間があることを示している。田島も高橋も、昼御飯を食べない主義だったので、他の生徒より昼休みを長く感じていた。
しかしどうしてコイツは昼飯を食わないんだ? 俺は食費の節約のために昼はジュースで済ませているから良いが、俺はコイツが飲み物すら飲んでいるところを見たことがない。サイボーグか何かなんだ、きっと……。
「でもよく帰国子女なのに試験通ったよな。この学校、帰国子女枠ないじゃん。まぁ俺なんて、魔術の回答ほぼ間違えてただろうけど受かったし、そんなもんかもな」
高橋は相変わらず頬杖をついたまま、言葉を発した。いくら薄手とはいえ、長袖は暑そうだ。腕を捲ることすらしていない。見ているこっちが暑くなってくる。
倍率の高い県立高校に入学出来たことは、田島自身が一番驚いていた。日本語が分からない訳ではないが、元々田島は頭の良い方ではなかった。現に、この間の中間試験も散々な結果に終わり、先日担任に呼び出しを食らったばかりだった。しかし、英語の成績だけはずば抜けて良く、学年でも一位二位を競うほどだった。
「俺もさぁ、魔法量さえあればもうちょっとマシなんだけどな。今度の土曜も補習だよ」
魔術の授業はほとんどが実技だ。高橋はお湯を沸騰させたり、小さな灯りと点すという簡単なことすら出来なかった。染色体の異常により、生まれ持っての魔法量が限りなくゼロに近いのが原因なのだ。
魔法量が通常に満たない人間は、その概念を理解することが難しく、実技だけでなく筆記試験でも良い成績が修められない。本来、そういった生徒は通常の学校に通うことが出来ないのだが、高橋は魔法量がギリギリ規定内であったこと、魔術以外の科目はほぼ満点だったこと、過去の入学試験の問題と模範解答を丸暗記して入試を乗り切ったことで現在のように授業料の安い県立高校に通えている。
もちろんクラスメイトの全員がそのことを知っていた――普段の授業での失敗から一目瞭然だったのだ。別にそれが原因で虐められるということもなく、高橋は持ち前の人当たりの良さで人間関係を円滑にしていた。正直、容姿は優れていても無愛想な田島よりもよっぽど人気はある。
高橋は欠伸をしながら机から下敷きを取り出し、生ぬるい風を自分に送り始めた。少し手の動作がぎこちない。
そんなに暑いなら腕を捲るとか、水を飲むとかあるだろう? どうして下敷きなんだ? こっちに生ぬるい風が当たって苛々する。そもそもどうしてこの学校には冷房という文明の素晴らしい発達で製作可能になった機械がないんだ? おかしいだろ、どう考えても。せめて扇風機だけでも設置しようとかそういう考えはないのか?
「あのさぁ、暑いなら水飲むとか腕捲るとかすればいいんじゃない?」
その言葉には、こっちに生暖かい風を送るな! 苛々して仕方ないんだ! という裏の意味が込められていたが、高橋はどこ吹く風で、その動作を止めることはない。
「水ならさっき飲んだよ。ここの水道不味いな、公園のほうがまだマシな味してるよ。家の親ケチだからさぁ、弁当代も飲み物代もくれないんだよ。で、今日弁当作ろうと思って久々に炊飯器開けたら、何ていうかな、アレ。別世界? 異次元? 生物の教科書の写真? て感じで。だからバイト代入るまではどうにか賄いとか廃棄の弁当とかで過ごすんだよ。お前んとこもそんな感じだろ?」
高橋は田島の質問に正確に答えず、およそ関係の話題を振った。そして同じ、昼食を食べない者同士として同意を求める。田島は母親を二人暮らしだが、高橋は父親と二人暮らしだ。必然的に料理が得意になるものかと思いきや、本人に料理を覚える気が全くないというのもまた、周知の事実だった。
そんなに経済状況が悪いのだろうか? 初耳だ。様々なアルバイトをしていることは知っていたが、今日食べる食料もないなんて……。いや、節約のために食事を抜いているのは俺も同じかもしれない。しかし、少なくとも俺はアルバイトをしなくても何とかやっていけている。これは幸せなことなのかもしれない。サイボーグとか思ってゴメン。
「いや、まぁ。俺はバイトしてないけど……」
なんだか急に申し訳なく思ってしまった。先ほどまで感じていた怒りは、どこへ行ったのだろう? 等間隔で揺れる下敷きから送り出される風が、急に心地の良いものに感じた。
田島が感慨に耽っていると、高橋が不意に田島の背後へと視線を反らした。
「あれ? 鈴元じゃん。何? まだ田島のこと諦めてなかったの? 駄目だよ。田島は演劇部に入るんだから」
まだ返事をしていない。というより再三断っているのに、まるで決定事項を報告しているような口振りで高橋は言った。振り返ると、田島の背後に鈴元が立っていた。どうやらこの台詞は、クラス委員の彼に投げたものらしい。
彼は、演劇部ではなく軽音楽部へ勧誘してくる厄介者だ。一度「ベースが弾ける」と話したことがあり、それ以来軽音楽部への入部を執拗に勧めて来るようになった。田島は一時期、永ちゃんに憧れていただけで、音楽に興味はなかった。断ってはいるのだが、彼は高橋並に根気強い精神の持ち主だった。
「演劇部なんて入らないだろ? あそこの部長、志摩先輩じゃん。俺ならストレスで胃潰瘍になる」
鈴元は高橋並に執い性格だったが、高橋ほど変人ではなかった。あんなことがあったというのに、志摩先輩の居る部活動に所属しようなどと言う人間は、少なくともこのクラスには存在しないはずだ。
「何で? 先輩良い人じゃん。それと、ストレスで胃潰瘍にはならないと思うよ」
高橋は依然として明るい口調を崩さない。まるで、つい一ヶ月前の出来事を忘れてしまっているようだった。
鈴元も、高橋の言動に不審を抱いたらしい。眉間に皺を寄せ、細めた目で高橋を睨み付ける。それは、軽音楽部に勧誘している田島を取ろうとしていることに対してではなく、あまりにも不謹慎な言動に対するものだった。
「えーと、じゃあ俺、演劇部に見学行こうかなぁ」
田島は、一瞬固まった空気を再び穏やかなものにするため、声を発した。内容なんて何でも良かった。とにかく、この空気を壊すことが出来ればそれで十分だったのだ。
「ちょっと田島、どうしたんだよお前まで……」
鈴元は、狼狽と呆れのため息を吐きながら、信じられない! という表情を浮かべた。
それもそうだ。俺だって別に演劇部に入りたい訳ではない。軽音楽部に入部する気もさらさらないが、どうしてこんなことを口走ってしまったんだろう? さっきのサイボーグの件で動揺し過ぎたせいなのかもしれない。
「そっかぁ、田島、やっと入部する気になったのか。俺、喋りすぎて喉渇いたから水飲んでくるよ」
高橋は満足気にそう言うと、颯爽と席を立ち、教室から出ていった。
「お前なぁ、良いのかよ。見学じゃなくて入部することになってたぞ」
鈴元が呆れ顔で呟いた。もうこれで軽音楽部への勧誘もなくなるだろう。それが良いことなのか、それとも悪いことなのか、田島には判断がつかなかった。
「でも高橋も変わってるよな。よりにもよって志摩先輩の居る部活に入ってるんだから」
田島はこれからの、気が重くなるであろう部活の見学に不安感を抱きながら、以前から気にしていたことを述べた。三年生の志摩心は、怖いとか不良だとか、そういう噂があるわけではない。高橋が「良い人」と評価しているなら本当に良い人なのだろう。しかし、あまり近寄りたくない人物であることは確かだった。
心の弟は、一ヶ月前までこのクラスの生徒だった。どんな理由からかは不明だが、先月、屋上から飛び降り自殺をしたのだ。初めはクラス内では動揺と戦慄が走った――机の上に活けられている百合の花がその象徴のようだった。しかし、一ヶ月も経つと花瓶も置かれることがなくなり、更に一週間たつと、いつの間にかその机さえも姿を消した。クラスの雰囲気は以前と同じものに戻ろうとしていた。
――でも、流石に志摩先輩の居る部活に入ろうとは思わないだろ。普通。
田島は先々のことを考え、深いため息を吐き、頭を抱えた。
「まぁ頑張れよ。演劇部なんだから、お前や高橋みたいにさぞ見目麗しい先輩に違いない」
鈴元は、慰めるように肩に手を置きながら励ましの言葉を掛けた。
「活動日被ってないから軽音楽部との兼部も出来るぞ」
どうしてそう、どいつもこいつも切り替えの早い奴ばかりなんだ? 高橋も高橋だけど、鈴元も鈴元だ。一体俺を何だと思ってるんだ? ただの落ちこぼれという生暖かい目で見ていれば良いのに、二人共過大評価とやらをしている。俺は兼部なんて出来るほど大層な人間ではないし、その能力も持ち合わせていない。そもそも進級できるかどうかさえ危ういというのに……。
机の上に目を落とすと、高橋の置いていった下敷きが視界に入った――ピンク色の兎が笑っている。兎にまで馬鹿にされている気分になり、視線を外し、ジュースを飲んだ。冷たく、甘い液体が喉元を通り抜けるていく感覚が、唯一の慰めだった。