2 マナイズム
夏休みは長いものだが、今年は一段と長く感じた気がした。
制服に袖を通すのは実に一ヶ月ぶりだ。仲のよくない義理の母と顔を合わせることも、暫くなくなる。実に喜ばしい。わざわざ寮のある遠くの学校に入った甲斐があるというものだ。
自室である屋根裏部屋で荷物の確認をする。部屋はカーテンを締め切っている所為で薄暗く、机に置かれたビーカーや計量カップに入った液体、解体された二十日鼠の所為で甘いような異臭に包まれていた。
スーツケースを掴み、部屋を出ると、ゆっくりと階段を降った。
「あ、おはよう。どっか行くの?」
リビングから出てきた昭一に鉢合わせして、莉沙はため息をつく。
一向に帰る気配がない兄は、すっかり家に馴染んでいた。下の妹弟とよく遊び、義母と談笑している場面をよく見かける。莉沙としては釈然としない風景だ。
「学校だけど」
コイツには夏休みという概念が分かるのか? これだから気楽なフリーターは困る。さっさと就職しろ。そしてもうここには来るな。
「朝飯は?」
昭一は莉沙の不機嫌な表情を意に介さず、笑って見せた。それがまた莉沙を苛立たせた。
「七時半にならないと食べないから」
へぇ、という生返事に舌打ちをしたくなる。時間通りに行動できないとイラつくことをコイツは分かっているのだろうか?
「てか何その格好? これまでにないくらいダサいんだけど」
――そうだろうか?
玄関にある姿見を振り返ってみる。肩まで伸びた黒髪は無造作に二つ結びにされ、長く伸びた前髪の下には地味な眼鏡が覗いていた。だらしなく締めたであろうネクタイはよれよれに曲がり、モスグリーンのスカートは規定通りの長さで膝を覆っている。
「別にいつも通りだけど……」
「いやいや、それはダサいだろ。ダサ過ぎて外歩けないレベルにダサい」
なんて失礼な奴だ。いくら身内だからといって、ここまで人を貶めることができようか。
「あっそ。てか兄貴には関係ないし。私もう行くから。ご飯いらない」
本当は朝ごはんを食べてから出かけたかったのだが仕方ない。
「え? ちょっ、出かけるならお義母さんに挨拶してけよ」
昭一は慌てた様子でリビングに戻るが、莉沙は聞く耳をもなたい。スーツケースを掴むと、颯爽と玄関の扉を開け放つ。
「行ってきまーす」
靴を履くのもそこそこに、広い庭を駆け抜ける。玄関まで随分と距離があるこの家にはもう、幼少の頃抱いたお城に対する憧れより、移動を増やす厄介な建造物という認識のほうが上回っていた。開きにくい扉や、スーツケースをいちいち上げ下げしなければならない石の階段に面倒を覚える。やっとのことで公道に出てもまだ、住宅街までは距離がある。
どこへ行こう? 今から学校に行ってもいいけど、さすがに早すぎるか……。
授業が始まるのは明日からだから急ぐ必要はない。雨が降りそうな天気に表情を曇らせ、坂道を下った。
夏とは言っても暑さはそれほど酷くない。きびきびと歩を進めてゆくと、それなりに人々が行き来する通りまで出てきたが、それでもやはり田舎である。これから向かう学校は、さらに田舎に建っているというのだからウンザリする。幼少の頃を過ごした、都会の町並みが懐かしい。
「あれ? リサじゃないか。おはよう」
振り返ると、見知った顔が視界に入る。近所に住むリピッシュだ。彼とは去年まで、同じ学校に通っていた仲である。頭が良く、一年の飛び級で去年めでたく卒業した。大学進学を期待されていたが、実家の店を手伝うことにしたらしい。
すらりとした長身に、人当たりの良さそうな笑顔。両手で大きな段ボールを持っているにも関わらず、爽やかな印象だ。
「おはようございます」
無表情のまま唇を動かす。リピッシュは、愛嬌のない莉沙の様子を気に止めずに言葉を続けた。
「学校? もう新学期か、早いなぁ」
「ええ」
昭一のように服装を馬鹿にしない態度には好感が持てた。
リピッシュのあっさりした性格は莉沙の神経質なそれとは対照的だが、二人の仲はそれほど悪くない。
「随分早く出るんだな、午後からでも間に合うだろ」
「……ええまぁ」
去年までは近所のよしみで一緒に出掛けていたから、不思議に思われるのも無理はない。しかしだからといって、義兄と喧嘩して出てきたとは言い辛かった。気まずい沈黙が数秒間流れる。
「……立ち話もなんだし、うち寄ってく?」
理由を訊かない態度や、重い荷物を持っているとは思えない飄々とした笑顔に懐かしさを覚える。
「でも、お金ないから……」
「いいっていいって、どうせ客こないし」
明るい口調で押しきられるのも初めてではない。客が来ない店というのは問題だとは思ったが、口には出さないことにした。
「じゃあ、少しだけ」
「いい判断だ」
懐古気分を味わいながら、莉沙はリピッシュのあとに付いていった。
商店街の様子は昔とあまり変わっていない。商品も店員も、記憶にある通りだ。リピッシュ家の店には何度か訪れたことがあるが、久しぶりの訪問に緊張していた。
しばらく歩くと、裏びれた通りの隅に小さな骨董品屋が近づいてきた。
「俺、裏から回るから待ってて。万引きするなよ」
「はい」
リピッシュはよろよろと段ボール箱を抱えながら店の裏に消えてゆくのを見送ると、重いガラス張りの扉を引いた。カランカラン、という乾いた金属音が心地よい。
店内は薄暗く、人の気配がしない。至る所に骨董品が並び、飲食物を出すためのカウンターにすら、怪しい模様の壺が置かれていた。今どき珍しい古く大きなレジスターは埃を被り、趣味の悪い金メッキを覆っている。
――トランプ?
隅で埃を被っていたのはレジスターだけではない。莉沙は目を奪われたカードを一枚を手に取った。
めくったカードには、搭が燃え、人が飛び降りている絵が描かれていた。“ⅩⅥ”という数字が不気味な書体で書かれている。
なにこれ、変な絵。ちょっと気持ち悪いし。十六ってなんの数字だよ。
カウンターの向こう側から物音がして、顔を上げる。
「あ、何か買う? それだったら五ポンドでいいよ」
「お金ないっていいましたよね」
いきなり姿を現したリピッシュに、驚かざるを得ない。狼狽するのは癪なので、平然を装おって返事をした。
カウンター越しに手が伸びて、莉沙の持ったカードを拐っていく。
「へー。タロットなんかに興味あったのか、これは何だっけなぁ。表だから多分そんなに悪い意味じゃないと思うんだけど――」
どうやらこのトランプに似たカードはタロットと言うらしい。リピッシュはカウンターの裏から辞書のような分厚い本を取りだし、ページをめくり始めた。
「……」
「なんですか、いきなり黙っちゃって」
紙の摩擦音が止まると同時に訪れた沈黙に、莉沙は不機嫌な声を出す。
「……災難来たりだってさ」
リピッシュは、奥歯にものが挟まったような話し方で、横目で莉沙の様子を伺っていた。
「へぇ」
待ち人来たり的な占いの一瞬なのだろうか。なんにせよ、いい意味でない結果が出たことだけは分かった。
占いというのはくだらないものだし、まぁいいか。
「そんな貴方に魔除けアイテム。通常価格十ポンドのところをなんと八ポンドでご提供!」
鞄から財布を取り出すと、リピッシュは突然饒舌に語り出す。
なるほど、抱き合わせ商法か。
「懐中時計、ですか。ていうかお金ないって言いましたよね」
「まぁまぁ、そう言わずに」
勧められた商品に視線をやる。
銀色の輝きは鈍く、文字盤には読み辛いローマ数字が並んでいる。もしかしたら相当年代物なのかもしれない。
まぁ、鰯の頭もナントヤラっていうし、買ってみてもいいかもしれない。
「じゃあ買います」
財布を確認しながら答えると、リピッシュはさらに追い討ちをかけた。
「はいはいまいど。あ、そうだ。飯も食ってくだろ?」
――カモられた。