K 再生
文化祭が終わって、もう十二月になった。補習をサボり、その上期末試験も赤点だらけだった田島の成績は目も当てられないほどで、悲しいかな、留年が確定してしまった。
担任は、単位がドウコウとか言って一年生が終わるまでは学校に居ろと勧めてくるが、田島はというと、進級もできないのに学校に通い続ける意味などないのではないか? と思いつつあった。留年しようと思えばできるのだが、そこまでして卒業に執着するのも面倒だ。
そういえば、先輩も留年が決まってしまったとこの前メールが来てたっけ……。ということは、来年も先輩は学校に居るわけか。どうしようかなぁ。
秋の風は冷たい。勾配の少ない通学路はありがたいが、あまりにも多い信号の量には勘弁して欲しいものだ。校門にある桜も、春のように爛漫ではなく、夏のように涼しげでもない。ただの枯れ木のようにしか見えないそれが、いっそう気分を重くする。もう学校に来なくなるのかもしれないと思うと、見慣れた風景がいきなり異邦のもののように見えた。冬服に変わった見慣れた女子の制服もまた、新鮮だ。
「おはよーさん」
教室のドアをスライドさせると、真っ先に高橋が挨拶をしてきた。なんだか気まずい。しかし当の本人は数人のクラスメイトと雑談を交わし、それまで――それこそ昨日までの彼とはまるで違う人物のようだった。
「あぁ」
まぁいいや、奴がどんなイメチェンをしたのかは知らんが、俺には関係のないことだ。そもそも俺はもうここに来るかどうかも分からないわけだし。
「なんだよ、朝からテンションが低いやつだなぁ。もっとこう……あるだろ、おっはー、俺は一年十組の田島丈治だよぉー仲良くしてねぇーとかさ」
あぁ、もうなんだろうコイツ。そういえば、俺を演劇部に勧誘してきたときもこんな感じのノリだったような気がする。アレか定期的に明るいやつになりたがる病か。なんだろうもう、中二病? あぁ、でも高一だから高一病になるのか? そんな病気聞いたこともないわけだけど。
それに、どうして今日に限って高橋が、こんなに自分に関わってくるのか、田島には理解できなかった。昨日までは本当に、高橋とは事務的な会話しか交わしてこなかったからだ。まぁ、あんなことがあってからでは、当然と言えば当然の結果、なるべくしてなったことであるのは瞭然だった。
「はぁ、まぁ、そうだな」
戸惑いながらも、表向きの返事はしておく。むしろ話しかけられているのに無視をするほうが不自然である。
「違ーう! そこは『おっはーってなんだよ、死語だろ』だろ?」
そう言って唇を尖らせる。はたして彼はこんな仕草をする人間だっただろうか?
「なぁ、ちょっと……いいか?」
どうせ俺はもうここを辞めるかもしれない。だったらコイツともう関わりがなくなる。だったら最後にケリをつけるのもいいじゃないか。
「なんだよ、愛の告白か?」
ヘラヘラと笑いながらそう口にする。よくそんな台詞を平然と吐けるものだ。
なんだか気分が悪くなってきた。
「いいから!」
なかば強引に彼連れ出す。適当な空き教室に入り、ドアを閉める。時計を見るともうホームルームが始まっている時間だった。しかし気にする必要はない。
「なんだよ、俺がなんか気に障ることでもしたか?」
腕を組み、いかにも不機嫌そうな表情で田島を睨み付ける。身長の低い高橋が凄んでも迫力はないが、怒りは十分に伝わった。
なんだよ、コイツ。怒っているのはこっちのほうだってのに。自分のしたこと忘れてんのか?
そこまで考えてハッとした。心が随分前に言っていたこと。高橋が教室で放った、教室中を凍らせたあの言葉。
――記憶喪失ってのは本当なのか?
しかしそれもおかしな話だ。夏休みに会話をしたとき、彼は友一の自殺を知っていたし、中学のときの記憶だってちゃんとある。あの、中嶋とかいう元同級生に話掛けたのもアイツからだ。
「なんだよ。俺が部室の机に意味深なメモ入れたの、怒ってんのか? あれはジョークだよ冗談。悪気はないから許せよ。そんなにキレることでもないだろ」
は? さっきから何を言ってるんだこいつは? 机の中のメモってなんのことだ?
田島のキョトンとした表情を見て、高橋は「違うのかよ」とまた、ふて腐れた顔を浮かべる。
「『姉さんがこわい』って書いて机に入れてやったんだよ。あのときは友一が死ぬなんて思ってなかったからこんなことになるとは思ってなかったけど……今日、部室いったらアレ、なくなっててさぁ。田島が持ってるのか?」
「あぁ、アレか。そうだったんだ。いいよ。気にしてないし、もう捨てたから」
驚きはしたが、想像していた展開とは大きくズレている。いや、かなり逸脱していると言っても過言ではない。
田島が知りたいのは、彼が演技ではなく本当に、たびたび記憶をなくすのかということなのだ。考えてみれば、定期的に記憶をなくす人物が、高橋のように良い成績を保つのは難しいことに思える。しかし仮に演技だとしても、そうすることによるメリットが彼には存在しない。
「なあ、用がないなら俺戻るぞ。もう一限始まるし」
「ホームルーム間に合わなかったじゃないか」と小声で言うのが聞こえたが、都合よく無視をする。
「なぁ、文化祭のときのこと覚えてるか?」
……長い沈黙があった。出入口に向かっていた高橋の足が止まる。
「――文化祭」
高橋の独り言のような呟きが、無言の空き教室にポツリと響く。そして、再び沈黙。
「たしか、映画を見ていたと思う。視聴覚室で上映してた、古い映画だった」
いやいや、それだけかよ! もっと話すことあるだろ! あれよりも映画のほうが印象に残ったのか!?
「いや、それだけ?」
まぁ、人の価値観は様々だ。先輩に殺されそうになったことより、映画のほうが楽しい記憶として残るのは理解できなくもない。
そう思考していると、突然ネクタイを掴まれた。引っ張られて苦しい。幸いにも喉を締め付けられたことによるおかしな声は出なかった。
それまでは感じていなかったが、高橋と二人きりでいるこの状況に恐怖が込み上げた。彼が血迷うと、もの凄い力を発揮することは経験済みだ。
「なぁ。そういう下らないことでわざわざ呼び出すなよ、俺だって暇じゃないんだからさぁ」
顔が近づく。もう恐怖しかなかった。こんな状況を作り出した自分を呪いたくなる。
「ごめん、もう、しないから」
目を反らし、そっけなく答える。これ以上高橋を刺激しないほうがいいのは明らかだ。
「そう。じゃあ俺戻るわ。田島もあんまりサボるなよ、ダブるから」
あっさりと言って、ネクタイを離す。驚いて表情を伺うと、僅かだが笑みを浮かべているように見えた。
高橋が出て行き、一人きりになった教室。その状況に安堵して、ゆっくりと息を吐いた。
――もうダブるのは決定したんだけどな。
苦笑して、教室をあとにした。まだきっと一限には間に合うだろう。現国の先生は到着が遅いから。
ぼんやりしているうちに午前の授業が終わるのはいつものことだ。この時刻になるとなぜか、帰宅してしまいたくなる。心地よい疲労感が眠気を運び、冬の日射しも温かくなるのだ。
あー、ダルい。なぜこんなにもダルいんだ……。肩は凝るし、進級は絶望的だし。
嘆息しながら、無意識に足を向けた先は部室だった。きっと鍵は空いているはずだ。留年が決まってからの心は、単位の取得可能な授業以外は部室でサボっていることを田島は知っていた。
「あれ? 田島じゃん、久しぶり」
案の定、心はそこに居た。ジュースの紙パックをすすりながら、漫画雑誌をめくっている。表紙に『R‐18』の文字が見えたのはきっと気のせいだ。
椅子に座っても、心は田島の視線を気にすることなく、漫画を黙々と読み続けている。
「あのう、」
おずおずと声をかけると、心はやっと漫画から視線を外した。
「何? 言っておくが私はもう十八だからエロ本買えるんだぞ!」
何を思ったのか、知りたくなかった事実を暴露し始めた。
先輩……頼むから止めてくれ。俺の想像していた先輩のイメージがどんどん崩れていく。まぁエロ本を平然と読む先輩も素敵ですけどね!
「何? なんか話があるんじゃないの?」
黙っている田島を訝しげな目で見つめる。
あぁ、そういう表情も素敵です! まぁ先輩はどんな顔でも、どんな服装でも俺は好きですけどね!
「え、あぁ。あの、俺……退学するかも、です」
ついに言ってしまった。先ほどまでとは違う意味で心臓が速く鼓動する。
「ふーん、そっか」
そう返答すると、再び漫画に視線を落とす。
もう少し反応があってもいいんじゃないか?
「あ、そうだ。田島」
重大発表をしたつもりなのに軽く流され、凹んでいる田島に、心は思い出したように声をかけた。
「この標語ももう古いから、新年バージョンを考えたんだよ。見てくれる?」
窓に張り付けられた巨大な紙を指差しながら、首を傾げる。自分が、他人にどう見られているのか完璧に理解しているかのような振る舞いだった。
落ち着いていたのに、再びドキリとしてしまう仕草。
「そうそう、これこれ。やっぱり1月だし、新年っぽく考えたんだよ」
ア嵐の前の静けさは
ハ廃校みたいなな美しさ
ッ通販してきた人間が
ピピアノを演奏する音は
イ淫靡な響きを持っていて
ニ日常的に腐敗する
ュ有神論者の約束事
ウ嘘を信じてナンボだと
イ要らない感情持ち合わす
ヤ約束なんて無意味なの
ア安心するだけ無駄だから
「い、いいんじゃないですか」
「そっかぁ、高橋にはイマイチだって言われたんだけどなぁ」
そう言って、ノートを見ながら眉をひそめる。そんな表情でさえ、田島には美しく見えた。
「てかさぁ、もう五時限目始まるんじゃない? もう退学するからいいのか?」
あまりにも軽い調子で訊ねてくる。もう学校を辞めてしまったら彼女に会えなくなるのだと思うと、堪らなくなった。
「あの、先輩」
「なんだよ、言っておくが、エロ本は貸さないぞ」
心はそう言いながら机に置いた漫画雑誌を裏返す。バツの悪そうな顔をして、唇を尖らせた。
そんな様子に動揺したが、田島の思考は冷静だった。今は言うべきことを言わなければ!
「好きです」
言ってしまってからのほうが、動揺も、動悸も激しくなった。手足は冷えたように冷たく、顔は反対に熱かった。歯ぎしりでもしそうなほど寒気を感じたのは、季節のせいだけではないはずだ。
「あのう……」
返事をしない心に、しびれを切らして話かけた。正直、無言の状態が一番気まずい。あっさりと断られたほうが、まだ気が楽だった。
「私は――」
突然のことで驚いたのか、心は顔を伏せていた。長い黒髪が邪魔をして、表情を伺うことはできない。制服から伸びた手足が、普段よりいっそう青白く見えた気がした。
「――私は、田島はイイヤツだと思うよ。だからさ、そういうのは良くないと思う」
「ダメなんですか?」
やはりダメなのか……これは玉砕ということになるのか? 覚悟していたこととはいえ、結構こたえるな。
「ダメっていうか……私と付き合ったヤツはみんな、疲れてしまうみたいだから。田島にはそういうの、なって欲しくないから」
心は手を真っ白になるほど握っていた。声は震えて、泣いているようにも見えた。
「だからいいんだ。悪いけど、迷惑になるから」
なんてことだ! ここは引いてダメなら押す作戦を実行するしかないな! ゲームで例えるなら好感度は足りてるらしいし、頑張れば俺にも望みあるじゃん!
「迷惑じゃ、ないですよ」
「最初はみんなそう言うんだよ」
心は顔をあげた。髪をかきあげ、微笑んでみせる。涙を流した形跡はなかったが、目は赤くなっていた。
「俺は、先輩が好きです!」
「……」
二度も同じことを言ったというのに、反応がない。これは確実に嫌われてしまったのかもしれない。
「じゃあ、キスできる? たしか潔癖症だったよな?」
なんだと、よく覚えてるな……先輩。そういえば、夏に似たようなことを言われたような気がする。あのときは、安藤先輩と付き合っていたんだよな。
「キスできたら付き合ってもいいよ」
マジか! たしかに俺は最近除菌スプレーを持ち歩く生活を改めた。昔に比べたら素晴らしい進歩だと思う。しかし、だ。接吻となると話は違ってくる。たとえ先輩が好きだとしても、人間の口内には大量の菌が生息していて、唾液交換なんて考えるだけでもおぞましい……。
しかしこれをしないと先輩は満足しないんだ! 安藤先輩にできて俺にできないなんてことはないだろう。……多分。
「わかりました」
そう返答をすると、心は瞼を閉じた。切れ長の瞳は閉じられていても、存在感がある。整った色白の肌が目に染みた。
ぎこちなくても、一瞬でも構わないのだ。少しだけ我慢しよう。
田島はゆっくりと心の口唇へ重ねる。見た目よりも、柔らかいなぁと感じた。煙草の苦い味がしてすぐに離れたが、初めての感覚に動揺を隠せない。深呼吸をして、再び心のほうを振り返ると、彼女は悲しそうに笑っていた。ひどく困ったような表情にも見える。しかし決して泣いているわけではなかった。
「せ、先輩?」
「どうかしました?」と続けようとしたが、それは叶わなかった。心に塞がれて、言葉を発することができなかったのだ。
想像するだけで悪夢だと考えていた、唾液交換の儀式は、そこまで抵抗なく受け入れることができた。相手が心だったから、そう思ったのかもしれない。
唇が離れると、心は今度こそ本当に泣いていた。何が悲しいのか、全く理解できない。一瞬、自分が嫌われているのではないかと考えたが、心の原動から、その可能性は低い。
「ゴメンね」
それだけ言って、心は部室をあとにした。
五時限目の授業は間に合いそうにない。