Q 文化祭
文化祭の季節になった。期末試験の結果は気にしたら負けだ。後期で取り戻さないといよいよ留年が近いと、また担任に脅された。数学さえもう少しできていたたら……。
ため息をつき、以前高橋に攻撃された左腕をさする。二週間経った今では痕も痛みも残っていないが、ふとした瞬間に触ってしまう癖がついてしまった。
賑やかな廊下を進むとカップルとすれ違った。見たことのある顔だ。おそらく一年生だろう。
「クソッ、リア充は爆発しろよ」
顔をしかめ、小さく悪態をつく。文化祭特有のうるさい雑音のおかげでそれは誰の耳にも入ることはなかった。
――はぁ。クラスは展示部屋で怖い人たち溜まってたし、部室にでもいこうかな。
ブラブラと校内を歩き回るのも疲れた。部活動に所属するのは煩わしいが、時には役立つこともある。階段を登って来るカップルに舌打ちをして、田島は部室を目指した。
「あれ? おかしいな」
部室の鍵が空いている。鍵を持っているのは顧問と、掃除係の田島だけのはずだ。
ドアを開け、部屋の中を確認するが、誰もいない。おおかた、顧問に頼んで部室に入った人物が鍵を閉め忘れてどこかへ行ってしまったのだろう。
「高橋か、志摩先輩だと思うけど……」
一人言を呟き、部室を物色する。埃一つない部屋は田島の潔癖症がなせる技だ。
高橋はともかく、先輩は最近ずっと姿を見ない。先輩が来てるなら是非挨拶をしたい!
そんなことを考えながら、心がいつも使用していた机を調べる。今までで、唯一掃除をしてこなかった場所だ。例の“姉さんがこわい”といった類の物体を見つけたくなかった。高橋の机ですら怖いのに、心の机なんて何が入っているか分かったものではない。
心は退学した、という噂も流れていた。この机に、何か秘密があるかもしれない。意を決した田島は机の中を覗き込む。
「なんだこれ?」
大学ノートだった。B4サイズの至って普通のノート。表紙には『2011年五月~ 志摩心』と書かれている。
授業用のノートかな? ルーズリーフでなくノートを使うところが先輩らしい!
開いてはいけないと分かっていたが、授業用のノートなら構わないだろうと考え、田島は最初のページを開いた。何の教科だろう?
『2011年5月3日 火曜日。今日友一が死んだ。飛び降りだったらしい――』
そこまで読んでノートを閉じた。今見た内容が信じられない。
日記をこんな場所に放置しておくなんて……。絶対に良くないだろう。いや、でも家に置いておくより安全といえば安全なのかもしれない。
もう一度開いたら、完全に自分が悪くなる。言い逃れができなくなることはわかっていた。しかし田島は再びノートを捲った。今度は最後に書いてあることを確かめたかったのだ。
『2011年9月16日 金曜日。今日は文化祭だ。辞退したというのに――』
最後の行まで目線を走らせる。
『――高橋が犯人の可能性が高い。問い詰めるべきだ。』
今日の日付に鳥肌がたつ。問い詰めるってどういうことだ? とりあえず二人を探さないと大変なことになることは必至だ。
田島はノートを閉じ、机の中に押し込んだ。鍵を閉めることも忘れて部室を飛び出す。額から流れる汗は、暑さや熱気のせいだけではない。
「あ、いたいた。田島。探したんだぞ」
廊下を疾走していると、聞き慣れた声に呼び止められた。
「す、鈴元!」
鈴元は制服でない趣味の悪い蛍光色のTシャツを着ていた。片手にジュースを持ち、もう一方の手にはかじりかけのフランクフルトが握られている。
「どうした? 田島が体育以外で走ってるところなんて初めてみたぞ」
ヘラッとした笑み。クラス委員の面影など少しもない。明らかに田島を馬鹿にした発言だったが、言われた本人はそれを咎めるほど気がまわっていなかった。
「高橋、見なかった? 朝は、来てた……と思うんだけど」
滅多に走らないためか、息は切れ、台詞も掠れていた。しかし、鈴元は言いたいことを理解したらしい。「高橋ぃ?」と何かを思い出すように視線を泳がせると、ジュースをズルズルとすすった。
「あぁ、奴ならさっき、志摩先輩と一緒に西校舎のほうに行ったぞ。あそこ行っても何もないんだが。多分ほとんど鍵がかかってて入れないと思うし……すぐ戻ってくるよ。戻って来なかったら察してやれ」
西校舎? 屋上か?
夏休みに迷い込んだ屋上の風景が蘇る。もしかしたら高橋の命に関わることが起きているのかもしれない。
「西校舎か。わかった、ありがとう」
「ちょっと待てよ田島ぁ。軽音楽部の演奏。三時からやるんだ! 来てくれよ!」
再び走りだすと後ろから鈴元の声が聞こえた。軽音楽部って廃部にならなかったんだ。
「気が向いたらな」
今はそれどころではない! 早く屋上に行かないと大変なことになる!
走るのは特別速いわけではないが、遅いほうでもない。廊下を全力疾走し、階段を二段飛ばしで屋上を目指した。心臓が圧迫された感覚で、気分が悪くなる。
「だから、僕は何も――」
「正直に話したら、死ななくて済むかもしれないぞ」
扉の向こうから聞こえる言い争いの声。高橋と心のものだということはすぐにわかった。田島は勢いよく扉を開ける。走ってきたせいか、息が苦しい。
扉の開く大きな音で、二人は一時会話を止めた。心は高橋の胸倉を掴んで、隅のほうへ押しやっていた。柵がないので、いつ落下してもおかしくはない。
「た、田島君。田島君も止めてくださいよ。先輩は、ちょっとおかしいです!」
「はぁ? 田島は関係ないだろ! 黙ってろよ!」
俺はどうしたらいいんだ。こういうときは先輩の言うことを聞いておいたほうが身のためだということは理解している。先輩のほうが綺麗だし、説得力がある。迫力もある。高橋なんて、この前頭のおかしい行動をしたばかりじゃないか! どう考えても口を挟まないほうが良いに決まっている。
「わかりました。黙ってます」
「出て行け」とは言われなかったので、その場に留まる。高橋は目を大きくして、田島を睨んだが、無視を決め込む。高橋は目を固く瞑り、決心したように大きく息を吐いた。
「友一君とは、たしかに中二のときから友達でした。でも、彼が死んだ理由は分かりません。ただ――」
そこまで話して高橋は黙り込んだ。唇を噛みしめ、心に捕まれている胸元を煩わしそうに見つめる。離して欲しいという意思表示は心に伝わったようだが、それは無言で却下された。
「――ただ、あの日。僕は電子辞書を教室に置きっぱなしにしていて、学校に行きました。廊下を歩いていると友一君が見えたので、あとをつけました。彼は屋上に、ちょうどその辺りに」
そう言いながら高橋は田島の右肩の空間を指差す。心は高橋を掴んでいた手を少しだけ緩めた。
「その辺りに立って、靴を脱ぎました。僕は、何をしたいのか分かったので声をかけて。それで……」
運動もしていないのに呼吸が荒い。億劫そうにゆっくりと視線を動かして、大きく深呼吸をした。
「それで、僕は「朝ご飯は何を食べた?」とかそういうことを言ったと思います。彼はこちらを振り返って、「パンを食べた」って言いました。そのあと笑って、見えなくなって。誰かを呼べば、良かったんでしょうけど、びっくりしていたから、僕は家に帰りました。友達だったのに、怖くて逃げてしまった。救急車でも呼んでいれば助かったかもしれないってことはあとになって気付いて。だから」
心を見上げ、しっかりとした口調で続ける。
「僕を殺したいなら、抵抗しません。でも、本当は、死にたくない。怖いし、痛いだろうし、きっとゾッとする状態になる。でも、先輩は僕のことを多分嫌いだから。いいですよ」
目を閉じる。微動だにしないが、僅かに唇だけが震えていた。
心が高橋を掴んでいる手を離した。勢いが良すぎて、高橋は床に倒れる。手を擦りむいたようだが、もちろん致命傷ではない。
「本当にくだらない。まるで馬鹿みたい」
心は扉のほうへ大股で向かう。田島など置物か何かのように、無視し、バタンッと大きな音を立てて姿を消した。
――怒って姿も綺麗だ。
田島はうっとりと、扉を凝視した。
高橋のほうへ視線を移すと、あれほど冷静だった彼は座り込んでしまっていた。顔に恐怖を貼り付けて、全身を小刻みに震わせている。
「おい、大丈夫かよ?」
たしかにさっきの先輩は怖かった。凄い剣幕だったし、怯えるのもおかしな話ではない。
ゆっくりと高橋に近寄ると、彼はまるで小さな子供のように田島にしがみついた。
なんだこいつ? この前のことといい、たまに気持ち悪い行動をする。はぁ、こんなことなら軽音楽部の演奏を見に行けばよかった。
田島はうんざりして小さくため息をついたが、振り払うのもまた、面倒なことになりそうなので、しばらくそのままの状態でいた。
どれだけ経っただろう。ポケットから携帯電話を取り出して確認すると、まだあまり時間が経っていないことが分かる。しかしいつまでもこんな処に居るのはごめんだ。風はだんだん冷たくなってきたし、何より高橋と二人きりという状態は嫌だった。
「なぁ、早く戻ろう。先輩は怖かったけど、いい加減――」
「――ぼくは」
田島の言葉が遮られる。あまり良い気分はしないが、反論があるなら聞いてやろうと、口をつぐんだ。数秒の沈黙の末、高橋はゆっくりと、一言だけ言葉を発した。
「高い処、こわいんです」