Joker
「転校生が来るって話、聞いた?」
教室には、今日も恵美の姿はない。彼女がいつも本鈴の鳴るギリギリの時間になるまで姿を現さない理由を、クラスメイトは薄々感づいてはいるのだろうが、誰もそれを口に出したりはしなかった。隣の席の岡田も例外ではなく、友一に全く関係のない転校生の話題を持ちかけている。
「いや、知らない。僕、そういう情報疎いから……」
他のクラスメイトだって、銘々思いおもいの会話を続けている。友一も例に漏れず、岡田の質問に答えた。
――これは演技だ。
そう何度も考えたのだが、クラス委員でもなければ、特にこのクラスに思い入れがあるわけでもない、ましてや恵美を特別好いているというわけでもない友一に、この問題を解決する義理も人情も、持ち合わせてはいなかった。
「ふーん。まぁ、俺も昨日聞いたばっかの情報だから、真偽のほどは分からないんだけどな」
そう言って、笑う。
友一の所属するD組は、素行の悪い生徒が集まっていた。岡田や友一のような生活態度に問題のない生徒もいたが、彼らは決まって成績が悪かったり、出席数が極端に少なかったりするのだった。所謂学級崩壊というものが起きていて、授業がまともに行われたのは数えるほどだった。私語をしていても咎められない状況は嫌いではないが、反対に真面目に勉強していると睨まれ、虐められるというシステムは疑問の残る問題だ。
「女の子だったらいいなぁ」
岡田がそう言ったとき、ホームルーム開始の本鈴が鳴った。しかし担任は現れない。代わりに恵美がうつ向いたまま早足で教室に入ってきた。
「女の子は、怖いよな」
友一は恵美に視線を向けながら答えると、岡田は顔をしかめた。恵美がクラスの女子から嫌がらせを受けていることは周知のことだからだ。授業中に消しゴムか何かを投げられていたのを、友一は何度か目撃していた。
女の子はやっぱり怖いよな。姉さんだって、何を考えてるのか分からないし。夜中に部屋にきて愛してるとか言ってくるのは勘弁して欲しい。兄さんは最近勉強ばっかりで怒りっぽいから相談できないんだよなぁ。
「――で、その三年の先輩がやらかしたおかげで、桜工業の人たちがお礼参りにきて除名処分に……て、聞いてる?」
「えっ? あぁ、進路ならまだ先のことだから考えてないよ」
ぼんやりしていて話を聞いていなかった友一は咄嗟に意識を戻す。岡田は呆れた表情をつくり、教室の時計を確認した。隅のほうでは、女子が言い争っていたが見ないふりをする。
「なんだよ進路って……たしかに受験生とか大変そうだな。お前の兄貴、今年受験だっけ? 高三?」
「うん、最近ピリピリしてて、ちょっと怖い」
苦笑いをしながら答えたとき、担任が教室のドアを開けた。後ろから見知らぬ生徒が付いてくる。残念ながら女の子ではない。席についていない者――隅のほうにいた女子達――は、自分の席に着くのだが、私語は止まる気配がない。むしろ大きくなる一方だ。授業中と同様の風景。もう皆、感覚が麻痺してしまっているのだろう。七月に入ろうという時期だから慣れてしまうのは仕方のないことだ。
担任でさえ、やる気のない風で欠伸を噛み殺している。しかめっ面をしたあと、普段どおりの大声を発した。
「転校生の、高橋君。自己紹介をどうぞ」
その言葉に教室が少しだけ静かになる。自己紹介を聞こうとしているのか、それとも転校生に気を使ったのかは定かではない。
「えーと。高橋広海です。前は千葉に住んでました。よろしくお願いします」
高橋はペコリと頭を下げたあと、担任に促されて後方の席に移動した。歳のわりには小柄で、夏だというのに長い袖のシャツを着ていた。見覚えのない服。学校指定のものではない。もしかしたら前の学校のものなのかもしれない。
「マジで次やったらぶっ殺すからな」
「すみません」
ドアが鼻先で大きな音をたてて閉まる。テレビゲームの音がうるさいと兄に言われたのだ。友一は閉じられたドアを睨み、ゲーム機を片付け始めた。
まったく。休みの日なんだからゲームくらいやったっていいじゃないか。
「友一? どうしたの? なんかクソ兄貴の声が聞こえたんだけど……」
驚いて顔を上げると、リビングのドアを開けた姉の心の姿があった。膝までのスカートに淡い色のTシャツを着ている。どこかに出かけるのだろうか。
「兄さんはちょっと、機嫌が悪いみたいです」
「あいつ最近本当にウザいよな。今度食事に睡眠薬でも入れとくか」
心は短く舌打ちをして持っていた鞄を持ち直した。
両親が共働きのため、食事は心と友一が交代で作っていた。心はたびたび、米をピンク色にして炊いては、兄に文句を言われるのだった。
「いや、でもさすがに睡眠薬は…………て、どこか出かけるんですか?」
心は仏壇の引き出しを開き、何かを探している。そこに入っている金を心がたまにくすねているのを友一は知っていた。ゲームのコントローラーを片付けてから心に近付く。
「病院行くからさぁ、保険証探してんの……あぁ。あったあった」
そう言いながら、青色のカードを取り出す。立ち上がって、鞄を肩に掛け直した。
「友一も一緒に行く?」
「はい?」
驚いて聞き返す。心と一緒に病院に行ったことなどなかったからだ。
「嫌なら、いいけど」
心は友一の返事に少し俯いた。言葉に元気がないのは気のせいだろうか。
「嫌じゃないですよ! 行きます!」
咄嗟に返事をしてしまった。まぁ今日は用事もないし、言えに兄さんと二人きりでいるよりはずっとマシだろう。
「支度してきます」
そう言って自分の部屋に戻ったが、支度も何もない。着替えはとっくに済ませているし、財布とケータイは鞄の中にいれっぱなしだ。
友一は、学生鞄を手に持つと、すぐにリビングへと戻って行った。
「ていうか、どこが悪いんですか?」
心は自宅から少し遠い大学病院まで足を伸ばした。こうやって病院に行くことは珍しくないが、友一はいまいち心の健康状態が把握できないでいた。昔から病気がちだったことは知っているが、具体的にどこが悪いというのは聞いたことがなかったからだ。所謂腺病質というやつなのだろう。
「えーと、たしか循環器だね。予約してあるからそんなに待たないと思う」
心はどことなく嬉しそうな様子で診察券を機械に通しながら答えた。機械からレシートのような紙が出てきたのに、友一は目を丸くする。最近の病院のシステムは分からないが、とにかく近代化が身近で進んでいることは理解できた。
「でもその前に血液検査と心電図をとらないと……」
心はレシートのような紙に視線を落としたまま言う。そして“生理検査室”と書かれた仕切りに入り、レシートと診察券を入れたファイルを受付に渡した。素早く廊下にところ狭しと並べられた長椅子に座る。常連のような行動の早さに、友一はあっけにとられるばかりだった。
「嬉しいな、友一と二人きりで出かけられるなんて」
友一が隣に腰をおろすと、心は彼に手の平を重ねた。“二人きり”という単語を強調して発言するばかりでなく、「なんだかデートみたい」と台詞を続ける度胸には圧巻だ。
姉さんはふざけてるだけだ! でもそれにしたって少し気持ちが悪い。また誰かにフラれたのか?
「ね……姉さん。あの、ふざけるのは構わないんですけど、その、少しばかり近すぎるというか、なんというか」
心は友一と手の平を重ねるだけでなく、彼にぴったりとくっついていた。二人の関係を知らない他人からしたら、恋人さながらの間柄に見えることは間違いない。
戸惑う友一に、さらりと「いいじゃない」と返答をした心はほんの少し唇を尖らせた。可愛らしい仕草であるが、友一にとってはため息の材料にしかならない。
困惑して視線をさ迷わせると見知った顔が視界に入った。小柄な身体に暑苦しい服装、寝起きのようなボサボサの髪だった。
「あっ」
思わず声を発し、そちらを凝視してしまう。なんでここにいるんだろう?
「何? 知り合いでもいた?」
心は友一の様子の変化に不機嫌そうな顔をして、彼の視線の先を追った。
「あのボッサボサの髪?」
「はい。同じクラスの転校生です」
「ともだち?」
ジロリと睨まれる。冷ややかな口調に背筋が凍った。
「違いますよ! 最近来たばかりだし」
すかさず否定する。本当に親しくないのだし、仮に親しかったとしても心に咎められるいわれれはない。しかし心を怒らせると兄以上に恐ろしい事態になることを友一は知っていた。
心は友一の否定の言葉に納得のいかない様子で、高橋のことを凝ッと見つめていた。
「整形外科? 整形すんのかな」
「いや、ここ美容整形はやってませんよ」
高橋は整形外科付近の長椅子に座っている。どこが悪いのか分からないが、この病院では美容整形は行っていないので、顔の改造をするつもりではないことだけは断言できる。
「話しかけてみる」
「えっ? ……ちょっと!」
制止する暇もなく心は立ち上がり、どんどん高橋のほうへ歩いていく。仕方がないので友一も心のあとを追うほかない。
「あのう、つかぬことを伺いますが……」
姉さんのアホ! 何やってるんだ! たしかに同じクラスだけど、高橋のほうが僕を覚えているか分からないじゃないか!
本当に高橋と会話を始めてしまった心に、友一は驚き、あきれた。
「えーと。誰?」
高橋は学校にいるときとは、少し雰囲気が違った。年上である心にさえ、敬語を遣わないなんて、友一の知っている彼からは、想像もつかないことだった。学校の内と外で性格の変わる人種ななのだろう。
心は口調のことなど全く気にしない様子で人当たりの良い、綺麗な笑顔を貼り付けている。
「私、志摩心。志摩友一の姉です」
「あぁ、もしかしてD組の……気の弱そうなやつ?」
悪かったな、気が弱そうで。
友一は顔をしかめたが、反論はしなかった。自分のこと覚えてたことにまず驚いたのだ。
「整形するの?」
心は無遠慮に会話を続ける。先ほどの友一の言葉を聞いていなかったのだろうか。
その質問に、高橋は目線を泳がせた。困ったような表情を見せ、両腕を後ろに回した。
「いや、ちょっと……腕の手術をするだけ」
財布が失くなったと騒いだクラスメイトが居たので、放課後にも関わらず、教室に残される羽目になった。ざわめきが絶えない空間は、夏の暑さも相まって、異様な熱気に包まれていた。
「これじゃあドラマの再放送見れないな」
友一は隣で岡田が呟いているのを聞きながら、携帯電話を開いた。心からメールが来ている。早く帰って来い、何をしているんだ、私のことを見捨てるの、等の内容にため息をつき、ホームルームが長引いている、と返信をした。
心は部活動をしているわりに、帰宅が早い。友一よりも早く帰って来ることは稀ではなく、二人で交代で作るという名目の夕飯は専ら心の仕事になっていた。
ぼんやりと携帯電話に映る時刻を見ていると、突然教室が静かになった。不思議に思い、顔を上げると、高橋が鞄を持って立ち上がり、教室から出ていこうと歩き出していた。
「おい、いいのかよ」
クラスメイトの一人が言うと、高橋は立ち止まり、怪訝な顔で教室を見渡した。
「スーパーのタイムセールがあるから、帰らないといけなくて」
あぁ、スーパーのタイムセールね。姉さんもよく行ってるあれか、ハンバーグの試食が美味しいって言ってたっけ。
「でも先生は帰らないで待ってろって……」
「先生だって、忘れちゃったのかも」
教室の時計は五時半を指していた。部活動は当然始まっていて、遠くから吹奏楽部の奏でる音楽が聞こえている。
「職員会議が終わったら来るって言ってたじゃない!」
一人の女子が反駁の声を上げた。完全なる正論に高橋は口をつぐみ、廊下側の席である友一の近くで足を止めた。目を左右に泳がせたあと、やがて決心したようにゆっくりと瞬きをした。
「えーっと」
静かに言う。いつのまにか騒がしかった教室は静かになり、高橋の言葉がよく聞こえる状況になった。
――あれ? 既視感。
高橋が転校してきたときもこんな感じだった気がする。
「財布が見つかったら、帰れる?」
「どこにあるか知ってるのかよ」
最初何が起きているのか分からなかった。高橋はゆっくりと頷くと、おもむろに持っていた鞄を開けた。中からブランド物の財布を取り出す。
「ごめん」
持ち主の女子生徒に手渡すし、教室の時計にチラリと視線を移した。
「どうして……?」
「盗られるほうが悪い」
返答は、こころ此処に有らずといった状態だ。そんなにタイムセールが大事なのだろうか。
「じゃあ、帰ります」
立ち去る彼を誰も止めようとはしない。財布が見つかったことで、帰り支度を始める生徒もいた。
「じゃあ俺、帰るわ」
岡田は大きな欠伸をした。眠たそうに瞬きを繰り返している。
まさか今まで寝てたわけじゃないよな。
「あ、僕も帰ります」
再び携帯電話を開くと着信が三件、メールが五件入っていた。同じ人物からだったら洒落にならない。
友一はため息をつき、席を立った。
集団心理は恐ろしいけど、やっぱり原因をつくるほうが悪い。僕だって擁護はできないし、するつもりもない。
財布紛失事件から数週間が経った頃、制裁という名目で高橋は嫌がらせを受けていた。恵美が受けていたものとは比べものにならないほどだ。加担しなければならない雰囲気に友一も岡田も辟易していたが、自分が標的にされるのは真っ平なので、仕方なしに参加していた。
「教科書に落書きしても無駄なのは知ってるだろ」
高橋は、教科書がなくても授業が受けられるほど勉強ができるようだった。社会の用語も理科の法則も、数学の定理もすべて暗記していた。古典や現国は置き勉を決してしないあたり、彼なりの対処はしているのだろう。
「そうだけどさ、実行するってことが大事なんだよ」
岡田は眉間に皺を寄せた、目を細めて、持っている文庫本に視線を落とす。タイトルは「大きな鏡を割る方法」とある。
うーん。分からない。
「俺ちょっと便所行ってくる」
「あぁ、はい」
岡田は立ち上がり、大きく伸びをした。教室を出ようと、扉に手を触れる。しかし、扉に岡田の手の平が接触する前にひとりでにそれは開いた。
「あ、おはようございます」
「……」
高橋だ。眠たそうな目は半分閉じられていて、頬が少しだけ腫れていた。
リンチか? リンチなのか! この学校怖い。先輩に目つけられたら終わりだって噂は本当なのかもしれない。
「貴方、昨日私の教科書に落書きしてました?」
「え……いや、その」
岡田は明らかに動揺していた。口ごもり、しきりに視線を動かしている。友一は目を合わせないように、携帯電話を開いた。メールは来ていないことに安堵する。
「見たんです、昨日私一度教室に戻りましたから」
そう言うと鞄から教科書を取り出した。社会の教科書だ。表紙にカラー写真がいくつか載っている。高橋はパラパラとそれをめくり、ページを開いた。赤いペンで何か文字が書かれているのが見えたが、友一の位置からでは、内容までは確認することはできなかった。
「これ書いたの、あなたでしょう。『キモい、死ね』って」
「だったら何?」
岡田はしきりに視線をさ迷わせているが、返答は冷静なものだった。小さな声だが、吃ることはない。クラスメイトの視線が、二人に集まっているのが分かる。
「私はキモくはありません。キモいというのは、こういうことを言うんです」
高橋は教室を見渡した。ニヤリと笑って、岡田が先ほどまで座っていた椅子の上に立ち上がる。背の低い高橋でも、岡田を見下ろすことのできる位置だ。
「な、何だよ」
突然の行動に驚いたのか、岡田は驚き、僅かにたじろいだ。強い口調ではあるが、動揺しているのは明らかだ。
「あなた、結構積極的なんですね」
どういう意味だろう? 僕は姉さんによく「消極的ね」とか言われるけど、そんなつもりはない。岡田だって積極的な態度をとった自覚はないはずだ。
高橋は左腕を岡田の首に引っ掛けると、顔をぐいっと近寄せた。僅かだが、二人の口唇が触れているように見えた。
岡田は目を見開き、次の瞬間大きく後ずさった。人間ではない何か別の生き物を見るような目で高橋を映す。
「気持ちが悪いでしょう、とても。それとも――」
首を傾げ、ゆっくりと椅子から下りる。楽しそうに口角をあげて目を細めた。
「気分が良かった?」
高橋へのいじめは、例の接吻事件で沈静化した。給食を床にぶちまけられたとき、構わず口に運んだことには驚愕したが、その程度で、以前のようにリンチにあっている様子はない。
あれは作戦だったのか? そういえば前、手術がドウコウって言ってたけど大丈夫なのかな?
帰宅する道すがら、友一はぼんやりと考えていた。 家は憂鬱だ、姉さんは最近ベタベタしてくるし、兄さんはいつも怒っている、父さんはまともだけど母さんは帰りが遅い、パートしかしていないはずなのに。
夕方の涼しい風邪に顔をしかめる。歓楽街ではないが、巷の商店は賑わい初めていた。
「あ……」
煙草屋の側に見覚えのある人影。高橋だ。尾行するつもりはなかったが、つい見いってしまう。彼は周囲をひどく神経質に見渡し、陳列された煙草を何食わぬ顔で制服のポケットに入れた。
あれ? これって俗に言う万引きとやらじゃなかろうか。どうする僕。いや見てみぬふりを決め込むのは当たり前なんだけど、良心の呵責とかそういうのに苛まれるのも困るし……。
思考を錯綜させたが、やはり好奇心が勝ってしまう。友一は悠長に歩く高橋を追うことに決めた。
住宅地を抜け、工場の隣接する地域に入る。昔この辺りで遊ぶのは禁止されていたことを思い出す。煙が人体に悪影響だと言われているので、民家は少ない。
「うわっ!」
物陰に隠れることなく尾行していた友一は驚いて立ち止まった。突然高橋は立ち止まり、くるりと回れ右をした。完全に目が合ってしまった。
「あ、どうも」
「はぁ。こんにちは」
気まずい沈黙が流れる。確実に尾行はバレているはずなのに高橋は何も言わない。無言のまま友一に早足で近づくと物陰へと引っ張った。
「ど、どうしたの?」
驚いて尋ねるが、返答はない。沈黙が続く状況は困惑する。尾行を咎められたほうがまだましだ。
「しゅ、手術とか、大丈夫だったの?」
あー、失敗した。もっとまともな話題あるだろ自分! 天気の話とかさぁ。
咄嗟に捻り出した台詞は気の利いたものではなく、友一は自己嫌悪に陥った。
「ええ、リハビリとかしないといけませんけど大丈夫です。よく覚えてましたね」
そう返答をしながら、しきりに物陰から道路の向こう側を覗いている。一体何を見ているんだろう?
友一は気になって高橋の視線を追おうと物陰から出ようとした。しかしそれは、高橋に慌てた様子で腕を掴まれたことで静止される。
「あの、財布のことですけど……」
うつ向いていて表情は見えないが、何か焦っているように見えた。どうして今更そんな話を始めるんだろう?
「給食費を払いたかったんです。病院に行ったらお金がなくなってしまって。でも、どうしても治したか
ったから――」
「あぁ。そう」
まだ必死に続けようとする高橋の言葉を遮り、物陰から出ようと鞄を掴み直す。帰るのが遅れると姉さんがうるさい。
「あのう……」
腕を掴む力が少しだけ強くなった。しかしそれでも簡単に振り払ってしまえる程度だ。
「友達、ですか? 僕達」 いや、いきなりそんなこと言われても困る。
「え、あぁ。まぁ」
こういうときは曖昧に返事をして乗り切るのが一番だ。友一が生返事をすると、高橋は道路の向こう側を指差した。
「僕の家、あそこなんです」
友一の位置からは確認できなかったので、高橋と場所を交代する。物陰から出れば解決するだろうとは言えなかった。
道路の向こう側には工場と隣接した古いアパートが建っていた。二階の、階段から一番近い部屋に数人の男が集まっている。煙草を吸っている者、ドアをしきりに蹴飛ばしている者が見えた。
「なぁ、あれって……」
嫌な予感しかしない。どうやら貧乏というのは本当らしい。
「友達ですか?」
静かに問いかける。友一は困惑したが、同時に同情の念も抱いていたので、即答することができなかった。数秒間の沈黙。
「ええ、もちろん」
――姉さんに怒られるかなぁ。
一瞬だけ、そんなことを考えた。
「あのう、」
「え、何?」
成り行きで高橋と友人になってから一週間が過ぎた。中間試験も終わり、近づく夏休みに皆が浮き足だっているとき、恵美に話し掛けられた。可愛い女の子と接点ができることは嬉しいが、友一に友達が増えると心の機嫌が悪くなるのは考えものだ。
「志摩君って、最近高橋君と仲いいよね」
昼休みの廊下は騒がしい。恵美の声は大きいわけではないのによく通っている。窓からの日射しに目を細めながら、逆光となる位置に立つ彼女に返答した。
「え、あぁ。そうかな?」
高橋とは、挨拶や日常会話を交わす程度の仲になっていた。以前起こったようないじめはなくなったが、いまだに高橋はクラスメイトから敬遠される存在なので、岡田は困惑している様子だった。
「あの、それで私、高橋君に話があって……」
「あぁ、あいつ。そういえば最近休んでるかも」
中間試験が終わってからというもの、高橋は一週間以上登校していなかった。もしかしたら一足先に夏休みに突入してしまったのではないかもしれない。なんてやつだ。
「家とか、行ってみる?」
「知ってるんだ。随分仲良いみたいね」
いや、あれは成り行きで……。
反論を口にしようとしたが、どうせ信用されないので止めておいた。あの接吻事件以降、高橋は妙な誤解を受けていた。自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが、一部では友一にまでそれが及び、彼を悩ませる要因の一つになっていた。
「じゃあ、今日の放課後、一緒に行こうか」
――怖いお兄さん達には遭遇しませんように。
眩しさに耐えきれなくなり、友一は教室へ向かった。
インターフォンを押しても返事はない。左側に見えるガスのメーターを見てみたが、少しも動いていなかった。どうやら留守のようだ。
「留守みたいだし、出直した方がいいかも」
振り向いて、背後に立っている恵美に言う。それにしても暑い。恵美は汗ひとつかかずに涼しげな表情のままだ。短い髪がサラサラと風に揺れている。スカートって涼しいのかな。
「そんなぁ、私ケーキ買って来たのに」
そういえばさっき駅前で買い物をしてたっけ。なにもケーキなんて高級品を選ぶこともないのに。
「じゃあ僕は帰るよ、怖いお兄さんに遭遇したくないし」
「怖いお兄さんって?」
返事をするのが億劫なので、無言のまま階段を降りる。ポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。後ろから恵美がついてくる気配がする。二人が階段を降りる音が、危なっかしく蝉の声と同化した。
階段を半分ほど降りたとき、前方から誰かがやってきた。よく見ると友一と同じ制服を着ている。同じ学校なのだろうが、しかし全く見覚えのない生徒だ。
「中嶋?」
背後から恵美の声がした。知り合いなのだろうか。足を止め、彼女のほうを振り返る。
「誰? 知り合い?」
「B組の中嶋。新聞部だけど、二年になっても下っぱ。前クラス一緒だったけど、なんかキモかった」
あれ? 城崎さんってこんな喋り方したっけ?
友一が唖然としていると、中嶋は表情を曇らせた。
「ひどい言い種だな君、今度俺のスクープが載ったらそうは言っていられなくなるから安心しろ」
「スクープ?」
友一と恵美の声が重なる。二人の視線が階下にいる中嶋を見下ろしていた。中嶋は誇らしげな表情で、ポケットからボールペンを挟んだ分厚い手帳を引っ張りだした。所々黄ばみ、破れているページを捲る。
「彼はプールに入らない、給食費を払わない、怪しげなバイトをしている。ここまでは調査済みだ」
言い終えると手帳を閉じ、ポケットには戻さず、手に持ったまま階段を登った。狭い階段なので、友一達は必然的に元居た二階へ戻らざるを得ない。ドアの脇に備え付けられた洗濯機の錆が、なぜか目に付いた。
「高橋君なら居ないみたいだけど」
恵美が不機嫌な声を出す。中嶋とは仲が良くないらしい。ケーキの入った箱を強く握っている。
「居留守は彼の常套手段だ。インターフォンを鳴らすだけじゃあヤミ金と変わらないじゃないか」
ヤミ金って、あの怖いお兄さん達のことか。よく調べたな。
友一が感心していると、目の前の“201”と書かれたドアがゆっくり開いた。半分ほどしか開かれていないドアの中は暗くてよく窺い知ることができない。
「人の家の前で騒ぐの、迷惑だから止めていただけます?」
籠った風邪声。名前が刺繍されたジャージを着た高橋が上目遣いで中嶋を睨む。髪があらぬ方向へ跳ねている。風邪で寝込んでいたのだろうか。
「ひろみちゃん! それは酷すぎるよ! ほら、俺とひろみちゃんの仲じゃないか!」
「ひろみちゃん」の台詞に恵美が鼻で笑った。高橋の視線が恵美を横目で一瞬捉えたが、すぐに中嶋へ向き直る。
「城崎さんは可愛いし、志摩君は友達ですけど、貴方に訪問される義理はありません。貴方、たしか新聞部の中嶋君ですよね。私のことをコソコソ嗅ぎ回っていることは知ってるんですよ。私を調べても面白いことは何もありません!」
高橋は強い口調でそう言ってのけると、小さく深呼吸をした。打ってかわって低い声で言葉を続ける。
「それとも、なんですか、貴方。私に気でもあるんですか?」
裸足のまま玄関から出て、中嶋に近づく。ドアが音をたてずに閉まった。工場の煙で視界が霞む。
「好き、とか?」
「はあ?」
手に持った手帳が一階に落ちてゆく。ゆっくりと、黒い蝶が羽虫の群れに飛び込んだ。
「私は、別に構いませんよ」
まるで自然であるような作り笑い。面白くて堪らないという風なそれを貼り付け、中嶋の耳元に近付ける。硬直した彼の肩に手を乗せて、小さく唇を動かした。
中嶋の顔はみるみる青ざめ、目を大きく見開いて、視線をせわしなく動かした。あんぐりと開けた口で何度か荒く呼吸をしたあと、やっと言葉を発する。
「今日は、帰るよ」
高橋を押し退け、おぼつかない足どりで階段を降りていく。不均等な金属音は、きっかり十三回で途絶えた。
高橋はため息をつき、ヤレヤレと頬を人差し指で掻く。風に吹かれて煙が舞い、恵美が小さく咳き込んだ。
「入ります?」
足の裏をはたきながら、玄関のドアを開ける。
「いいの?」
「ええ。城崎さんもどうぞ」
促されるまま、部屋に入る。古い家特有の懐かしい香りがプールの消毒液を彷彿とさせた。
「どうぞ、狭いですけど」
六畳に卓袱台のリビングは、カーテンが閉まっていて薄暗い。おまけに冷房もついておらず、外に居たときよりも暑さを感じる。こうして三人で座っていると尚更だ。
「すいません、電気止められてて」
弱々しい笑い。無言の時間が続く。友一は、なんとか話を繋げようと頭を働かせるが、想像以上の環境に、思考が停止してしまっている。頭の中が真っ白なのは、なにも暑さの所為だけではない。
「あの、ケーキ食べません?」
口火を切ったのは恵美だった。持っていたケーキの箱を卓袱台に置く。
「ケーキ! 本物だ! 何年ぶりかなぁ!」
目を輝かせて小さな箱を凝視する。
「お皿出します!」
立ち上がり、台所へ消える。食器棚を開け閉めする音が壁づたいに響いた。
たしかに高級品かもしれないけど、そこまではしゃぐことないだろ……。
友一は飽きれ、横目で恵美を見た。彼女は困ったように眉を潜めて苦笑いをしている。
二人きりのリビングに居心地の悪さを感じながら、友一は辺りを見渡した。隅に小さな箪笥があるだけの殺風景な部屋。壁に掛けられた制服の学ランが唯一の装飾品に見えた。時計すらないのでポケットから携帯電話を取りだし時間を確認する――ドラマの再放送が始まっている時間――帰宅したあとを考えると憂鬱になった。
「お箸しかないですけど、いいですか?」
突然扉が開き、高橋が顔を出した。左手に重ねた皿を持ち、右手で扉の取手を掴んでいる。
「あぁ、いいんじゃない」
「そうですか」
友一の答えに、高橋は安心した様子で食器を運ぶ。卓袱台に並べたかと思うとまたすぐに立ち上がり、台所へと姿を消した。
「ショートケーキしかないけど、いいよね」
そう言いながら恵美は箱を開け、皿にケーキを移動させた。苺の乗った白いショートケーキ。二段になっていて、スポンジの間にもクリームと苺が入っている豪勢なものだ。ホールではないが、三つも買ったのだから値段は相当張ったはずだ。
することもないので再び部屋を見渡す。長いアンテナの古めかしいラジオが箪笥の側に置かれていた。中の回路が収納されずに剥き出しだ。解体でもしたのだろうか。
しばらく目を凝らして観察していたが、扉の開く音に視線を外す。ドアの側には右足にペットボトル、左手に重ねたコップを持っている高橋が居た。二リットルのペットボトルには、水が半分ほど入っている。
「水も止められてるんでした……公園で汲んできたのでいいですか?」
「いいんじゃない」
友一が返答をすると、高橋は器用に片足でドアを閉め、卓袱台に近づいた。コップを並べ、丁寧に水を注ぐ。
「じゃあ、食べますか」
恵美はそう言って、水を飲み干した。
そういえば、とても喉が渇いている気がする。どうして今まで感じなかったのだろう?
恵美に倣ってコップの水を飲み干す。高橋は、恵美と友一の空になったそれに再び水を注いだ。小さな水音と蝉のシュプレヒコールだけが聞こえる静かな空間。
黒色の箸でケーキを挟み、口に運ぶ。ケーキをこんなふうに食べたのは初めてだったが久々の甘ったるい味に懐かしさを覚えた。しばらく咀嚼と嚥下を繰り返していると、恵美が沈黙を破った。
「私、高橋君に話があって……」
あぁ、そういえばそんな用事があったんだっけ。そのために高いケーキを買ったんだよな。
「話、ですか」
高橋はもう半分以上のケーキを食べていた。箸の持ち方が間違えているのが気になった。まだ腕の調子がよくないのかもしれない。
「話っていうか、お礼が言いたいの」
「私、何かしましたっけ?」
高橋は首を傾げて恵美を見た。しかしケーキを口に運ぶ動作は止まらない。決して上品とは言えない食べ方だが、クリームを口唇の端に付けずに綺麗に食べている。
「高橋君のお陰で、馬鹿な女に絡まれなくなったから、ありがとう」
正座のまま頭を下げる恵美。高橋はケーキを噛み砕くのに夢中で、恵美の言葉にはあまり反応を示さない。口の中のケーキを飲み込むと、ゆっくり恵美のほうを向き、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、そんなことですか、それでケーキまで……。お茶、淹れますね」
素早く立ち上がり、台所へと進む。しかしすぐに戻ってきた彼の手には、水の入った新しいペットボトルがしっかりと握られていた。
「あのう」
ペットボトルを手にしたまま、言いづらそうに視線を動かす。
「お湯って、沸かせます?」