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探検ビデオシリーズの第一弾は「淡水シーラカンス編」というやつで、舞台は中国だった。舞台と言ってもそれは設定上のことで、撮影は富士山の麓に広がる青木が原樹海だ。以前から、樹海の中の風景を撮影したかったためだ。
樹海は富士山の爆発の際、大量に流れ出た溶岩の大地に薄く木が生えた森だ。そのため一見するとただの雑木林だが、土というものが極端に少なく、黒い溶岩の上に苔が這い、ちょっともののけ姫の森を思わせる感じがする。
大抵の場合、この森の木はある程度成長すると自重に耐え切れず倒れてしまう。地面に土がなく、根が地中深くまで伸びることができないのだ。すると自然に同じようなサイズの木の幹が多くなり、目印の付けにくい、迷いやすい森になる。
実際に撮影してみて分かったのだが、すべての方向の景色が似通っていて、撮影しながらグルグルと周囲を歩き回っていると、確かに方向感覚が無くなる感は多少あった。
そもそも樹海で撮影する動機のひとつは、黒い岩と緑の苔の対比が美しいと思ったからである。しかし、そう思ったのは、以前に行った、観光用のコースから道の横の森を見たときで、今にして思えば苔がきれいに見えるように落ち葉の掃除をした状態だったに違いない。観光用以外の樹海の中は、溶岩や苔の上に落ち葉が積もっていて、樹海のイメージの黒と緑の景色ではなかった。
ただ、見かけは「腐養土のある、のほほんとした雑木林」だが、実際は先にも書いたように土というものが無く、樹海特有の足場の悪さだ。ありていに言って危ない。これは単に転びそうで危ないという意味ではない。
例えば河原や海辺で石がゴロゴロしていて歩きにくいところを想像して欲しい。足を乗せた石が動いてバランスを崩し、踏ん張ろうとしてさらに出した足の下の石も動いてしまい、転んでしまう。これも、転ぶという意味では危ないが、シリモチをつく程度の転び方であれば、せいぜい打ち身やすり傷どまりの怪我で済む。樹海の危なさとは違う。
基本的に樹海の溶岩の上はやたらとごつごつしていて歩きにくいが、ゴロゴロはしていない。地面が一体成型なのだ。そしてその凹凸はすっぽりと靴がはまるサイズだったりする。その穴に靴が深くはまり、シリモチをつくとどうなるか。体は転んでも足首は岩の間に固く固定されたままなのだから、テコの原理で足首を骨折してしまうのだ。
樹海は自殺の名所ということになっているが、自殺志願者の中には、森の奥地まで行くことなく、足首を骨折して動けなくなって死ぬ人も少なくないらしい。
ところで自殺の話が出たのでついでに書くが、いわゆる霊感が強いから樹海に行くと気分が悪くなる、という類の話は、どうなんだろうか。
確かに人が死んだ場所は気味が悪い。でも、年間八十人の人が自殺したとしても、樹海は広大だ。人が死んだ、その同じ場所に立つ確率はかなり低い。それでも樹海に入ると気分が悪くなるような鋭い霊感の持ち主であるとするなら、年間四十人が飛び込み自殺してる中央線の列車に乗ったら、毎回死人の怨念を感じて気絶しないとおかしいんじゃないだろうか。だってそのまさに足元、数十センチ下で大勢の人が死んでるんである。毎日その真上を通過している時点では霊感は働かず、樹海の入り口に来ただけで何か感じる、というのは、少なくてもかなり性能にバラツキがある都合のいいセンサーだなあ、と思ってしまう。言い訳じみた理屈は色々と付けるんだろうけれども。
それはともかく、溶岩がベースになった地形は立体的な構造が崩れず維持されていて、造形的に面白いところがある。それと、先に書いたように足元が危ない。そんな樹海で念願の撮影を行ったのだ。
十二月に行ったこの日、初雪が降った。