第1話「冷たい鉄と黒竜の契約」
石床から立ち上る底冷えが、薄い麻布の囚人服をやすやすと突き抜けていた。
アリア・レンフィールドは、湿った壁に背を預け、冷え切った両膝を抱え込んでいた。
指先は白くかじかみ、爪の間にはわずかに染み付いた乾燥薬草の緑が残っている。
鉄格子の隙間から地下牢の通路を照らすのは、壁に掛けられた頼りない油切れのカンテラだけだった。
遠くで水滴が石を打つ微かな反響が、規則正しく鼓膜を揺らす。
やがて、暗い通路の奥から乾いた足音が近づいてきた。
引きずるような革靴の音とともに現れたのは、見慣れた灰色の法衣をまとった衛兵だった。
衛兵は鉄格子の前で足を止めると、羊皮紙を無造作に広げ、濁った声で読み上げた。
「帝国中央魔導薬師研究所、見習い調合官アリア・レンフィールド。筆頭薬師ギルベルト様が管理される保管庫より、皇帝陛下に献上予定であった『白輝竜の涙』を横領し、かつ調合槽に不純物を混入させて霊薬を汚染した罪により、即刻の資格剥奪および帝都からの国外追放を申し渡す」
宣告は短く、無慈悲だった。
アリアは動かず、ただ冷たい石の床を見つめていた。
まばたきを一つしても、涙はこぼれなかった。
胸の奥には、痛烈な怒りも、取り乱すような絶望も湧いてこない。
ただ、どこまでも冷え切った諦めが、澱のように沈殿しているだけだった。
(ギルベルト様が、自分で調合の配合比を間違えて槽を腐らせたのに)
だが、その真実を叫んだところで誰が耳を貸すだろう。
彼の法衣に縫い付けられた伯爵家の金糸の紋章と、自分のような孤児院上がりの薄汚れた爪先。
そのコントラストこそが、宮廷における『真実』のすべてだった。
生まれつき魔力波長が極端に低く、高価な魔導触媒に触れるとその魔力を拡散させて中和してしまう。
『触れるだけで霊薬の魔力を消し去る役立たず』
『不発の手を持つ欠陥薬師』
それが、研究所の中でアリアに貼られ続けてきたレッテルだった。
ギルベルトが犯した決定的な調合失敗の責任を押し付ける相手として、これほど都合のいい存在は他にいなかったはずだ。
「……反論の余地はありません」
乾ききった喉から絞り出した声は、かすれていた。
「ふん、殊勝なことだ。貴様のような出来損ないを今まで置いてやったギルベルト様の慈悲に泥を塗りおって。荷物はすべて没収だ。着の身着のままで、北の荒野へ放り出されるがいい」
衛兵は嘲笑を浮かべ、腰の鍵束を鳴らして背を向けて立ち去ろうとした。
そのとき、地下道の空気がわずかに震えた。
階段のほうから、重厚な金属の擦れ合う音が響いてくる。
一歩、また一歩と刻まれる足音には、迷いや揺らぎが一切ない。
衛兵が怪訝そうに振り返り、カンテラの明かりを掲げた瞬間、その男は闇の中から姿を現した。
黒鉄の甲冑が、薄暗い灯火を鈍く跳ね返す。
肩から羽織った漆黒のマントの縁には、銀糸で黒竜の紋章が精緻に縫い留められていた。
引き締まった長身に、彫りの深い端正な顔立ち。
黒髪の下から覗く双眸は、極北の氷河を思わせる鋭利な青を湛えていた。
男が地下牢の湿った石段を一段下りるたび、空気がひび割れるような錯覚が起きた。
先ほどまでアリアを嘲笑っていた衛兵の顔から一瞬で血の気が引き、カンテラを持つ手が痙攣したように震え出す。
衛兵の膝が石床にぶつかる鈍い音が響き、男の影が牢格子を飲み込んだ。
衛兵は持っていた羊皮紙を取り落としそうになりながら、慌てて壁際へ身を寄せる。
「あ、アルスヴァン辺境伯、閣下……なぜ、このような地下牢に」
男は衛兵を一瞥だにしなかった。
ただ真っ直ぐに鉄格子の前へと歩み寄り、冷ややかな視線をアリアへと落とす。
「鍵を開けろ」
低く、よく通る声音だった。
荒野の風のように硬く、一切の異論を許さない響きがある。
「し、しかし閣下、この女は皇帝陛下の霊薬を汚染した大罪人でして、追放の処刑を待つ身で――」
「二度は言わん。鍵を開けろ」
レオンハルト・アルスヴァン。
男の威圧感に、衛兵は震える手で腰の鍵を外すと、震える指先で牢の扉を開け放った。
金属の擦れる重い音が牢内に響き渡る。
レオンハルトは音もなく中へと踏み込み、アリアの数歩手前で足を止めた。
彼が身にまとう空気は、地下牢の湿った冷気よりもさらに張り詰めている。
アリアは、うつむいたまま視線だけを男の足元へと向けた。
磨き抜かれた革の乗馬ブーツには、長旅の泥がわずかに乾いてこびりついている。
「アリア・レンフィールドだな」
名前を呼ばれ、アリアは小さくうなずいた。
「……はい。ですが、お話しできるようなことは何もありません。私はただの、無能の罪人ですから」
自嘲を込めて告げた言葉に、レオンハルトの眉がわずかに動いた。
彼は身を屈め、アリアと同じ高さに視線を合わせた。
至近距離で見るその瞳には、侮蔑も哀れみも存在しない。
ただ、研ぎ澄まされた刃のような真摯さだけが宿っていた。
「宮廷の連中が下した評価など、私には関係ない。私は、お前のその手を買いに来た」
「……私の手を?」
アリアは思わず自分の手のひらを見つめた。
指先は荒れ、薬草の灰汁で爪の周りが黒ずんでいる。
触れるだけで魔法の効力を無に帰してしまう、忌み嫌われた手だ。
「取引だ。私と、三ヶ月の契約を結んでもらう」
レオンハルトは手袋を外した。
無骨な大きな手のひらには、無数の古傷と、硬く盛り上がった剣だこが刻まれている。
彼はその手を、アリアの目の前に差し出した。
「三ヶ月の間、私の屋敷で専属の調合師として働き、対外的には私の婚約者として振る舞ってもらう。衣食住のすべてを保証し、契約が満了した暁には、帝国外のいかなる都市でも生涯不自由なく暮らせるだけの報奨金と身分証を渡す」
提示された条件は、追放を待つ身にとっては破格どころか、絵空事のように聞こえた。
「なぜ、私なのですか」
アリアは男の瞳を真っ直ぐに見返した。
感情を殺した声で、疑問だけを投げかける。
「私は魔力を持たない欠陥品です。貴族の婚約者の真似事などできるはずもありませんし、調合師としても、宮廷から役立たずと追い出された身です。閣下に何の利益もありません」
「利益があるかどうかを決めるのは私だ」
レオンハルトの声には、微塵の揺らぎもなかった。
「北方には、宮廷のような退屈な形式にこだわる暇はない。吹雪の中で生き残るための、本物の技だけが必要だ。お前の手が必要だと、私が判断した。それだけで十分な理由になる」
アリアは不意を突かれ、言葉を失って息を呑んだ。
必要だと言われたことなど、生まれてから一度もなかった。
誰かに求められた記憶は、この二十年の人生のどこを探しても見当たらない。
(どうせ、北方の凍土に追放されて野垂れ死ぬはずだった身だ)
ここで男の手を取ろうと、断って放り出されようと、失うものなど何一つ残っていない。
もしこれが新たな地獄への入り口だったとしても、あの薄暗い研究所で嘲笑されながら搾取され続ける日々に比べれば、何ほどの違いがあるだろうか。
アリアはためらうことなく、冷え切った自らの右手を伸ばした。
レオンハルトの硬く温かい手のひらに、小さく荒れた手が重なる。
男の手は驚くほど熱を帯びていた。
まるで皮膚の下に消えない炭火を抱えているような、常人ならざる灼熱。
冷え切っていたアリアの皮膚に、じんわりと確かな温度が染み渡っていく。
「契約は成立だ」
レオンハルトは短く告げると、アリアの手を引いて立ち上がらせた。
足元がおぼつかずによろめいたアリアを、彼はごく自然な動作で支える。
そのまま肩から漆黒のマントを外すと、薄着のアリアの細い肩へと無造作に掛けた。
上等な羊毛の重みと、男の体温。
陽光を吸い込んだ分厚い羊毛の匂いの奥に、微かに磨き上げられた革と、針葉樹の乾いた香りが混ざり合っている。
その匂いが、アリアの全身を包み込んだ。
「あ……閣下、これは」
「羽織っていろ。外は冷える」
背を向けて歩き出し、レオンハルトは大股で進んだ。
アリアは戸惑いながらも、引きずるほど長いマントの裾を持ち上げ、その背中を追った。
地下牢を出ると、王都の空は夕暮れに染まっていた。
門前には、北方の紋章を掲げた一台の頑丈な馬車と、数名の黒鎧の騎士たちが控えている。
周囲を取り囲む宮廷の官吏たちが、遠巻きに畏怖と当惑の視線を投げかけていたが、レオンハルトはその誰一人として視界に入れようとしなかった。
「乗れ」
馬車の扉を開けたレオンハルトに促され、アリアは車内へと乗り込んだ。
中は広く、厚手の毛皮が敷き詰められている。
向かい合って座ったレオンハルトは、窓の外を一度も見ず、従者に短く出発を命じた。
車輪が軋む音を立てて回り始め、石畳を叩く馬の蹄の音が遠ざかっていく。
アリアは窓の隙間から、急速に小さくなっていく研究所の白亜の尖塔を眺めた。
八年間、泥のように働き、最後には汚名を着せられて捨てられた場所。
そこから自分が去ったことに、まだ誰も真の重みを感じてはいないはずだった。
「三ヶ月だ」
向かいの席から、静かな声が降ってきた。
アリアが視線を戻すと、レオンハルトは組んだ腕の上に視線を落としていた。
「三ヶ月が過ぎれば、お前は自由になる。誰にも追われず、誰にも利用されない場所へ送りとどけてやる。それまでは、私の指示に従え」
「……かしこまりました、閣下」
アリアは低く頭を下げた。
深く被ったマントのフードの奥で、小さく息を吸い込む。
(私はただの、期限付きの道具)
そう自分に言い聞かせると、不思議と胸の痛みが和らいだ。
期待などしなければ、傷つくこともない。
利用されるだけの関係のほうが、アリアにとっては分かりやすく、息がしやすかった。
だが、アリアはまだ知らなかった。
彼女が去った王都の調合槽で、すでに不可逆の崩壊が始まっていることを。
そして、目の前に座る冷酷な男が、なぜこれほどまでに自らの手を求めたのかと言う、その真の理由を。




