三十年の課長を黙らせた契約社員の僕は、十年を餡の「火加減だけ」に絞りました。もう遅いですよ
「黒木くんは、鍋のことだけ考えてくれていればいい」
三十年やってきた人は僕にしか聞こえない声でそう言った。長机の向こうの篠田さんには届いていない。三年間で身についたのは焦げつきを残さずに鍋を洗う手際だけだ。その鍋の底に残った餡を毎朝舐めてきたことは、誰も知らない。
長机の向こうで、鷲尾課長が僕の企画書をめくっていた。表紙に印字されているのは課長の名前だ。『秋の催事向け・主力粒餡の炊き直し提案』――たった一枚の紙を、僕は三年かけて七回書き直した。
「新作の方向は、この案でいきます」
課長がそう言うと、篠田さんが小さくうなずいた。百貨店のバイヤーで、秋の催事枠を握っている人だ。売り上げの三割は、その催事一つから来ている。
気がつくと手が挙がっていた。
「あ……あの」
声が出たのは自分でも意外だった。
「――どうした、黒木くん」
課長は顔を上げずに紙の端を指で揃えた。それだけで僕の言葉はしぼんだ。
三年かけたと言ったところで、それを示す証拠は一枚も無い。
「……いえ。何でもないです」
紙の重みだけが膝の上に残った。あの一枚は僕が書いた。それだけは、いつか言わなければいけない気がした。
「そう。篠田さんもいらっしゃるから、あとで聞くよ」
課長は僕を見ないまま、長机の向こうへ視線を戻した。
「黒木くんはよく気がつくからね。洗い場のことで、気になることでもあったのかな」
短く笑う声が二、三人から上がった。
耳から首の後ろまで熱が広がっていくのに、膝の上の手は動かせなかった。頭の中には、七回書き直したぶんの言葉が全部あった。一つも出てこなかった。
「課長」
芹沢さんだった。それだけ言って続きは言わなかった。笑い声の中で笑っていない声はそれ一つだった。
篠田さんが湯呑みに手を伸ばしながら言った。
「そういえば最近、少し味が変わりましたよね。いちばん出ている粒餡の方」
課長は少し間を置いて、手元に視線を落とした。
「……ご指摘、ありがとうございます。次の試作で確認させてください」
篠田さんは「そうですか」とだけ言った。その湯呑みには、それから一度も手を伸ばさなかった。
検討会はそのまま予定どおりに終わった。誰が書いたのかという話に戻る者はいなかった。
席に戻ると、机の上に紙が一枚置かれていた。契約の更新はしない、今月末まで、と二行だけ書いてあった。
更新されなければ来月から無職だ。貯金は四か月ぶんしかなく、実家に帰る話も去年断っている。
裏返しても何も書いていなかった。僕はそれを二つに折って鞄に入れた。
定時を過ぎて人が引けるまで僕は席に座っていた。
誰もいなくなった試作室で、僕はいつもどおり鍋肌の餡を指ですくって舐めてから、鍋を洗いはじめた。
――先月あたりからこの餡は前と違う。舌はそう言っているのに、どこがどう違うのかを、僕は言葉にできない。
言葉にできないなら、確かめる方法は一つしかなかった。蛇口を閉めてから、二日前の朝に起きたことを、もう一度たどる。
それが始まったのは二日前の朝だ。目が覚めた瞬間、指先と舌に、今まで無かった感覚の回路が一本増えていた。
――一日に一度だけ、決めたことについて、十年やってきた人と同じ経験が手に入る。
口に出せば頭を疑われる。それでも疑う余地がなかった。自分の利き手がどちらかを間違えないのと同じ確かさで、それはそこにあった。
初日は試すつもりで「和菓子」と決めた。
その日の僕はたしかに和菓子が作れて、練り切りも落雁もそれなりの形になった。ただ、どれも他人の受け売りみたいな味だった。種類も、作り方も、道具も、歴史も――和菓子という言葉に入るもの全部に、十年ぶんが等しく割られてしまったらしい。二十個作って全部自分で食べた。
翌朝、それは消えていた。手つきも勘も前の日の自分に戻っていた。怖くなってその日は何も決めなかった。
分かったのは二つだ。決める範囲を広くすると経験は薄くなる。そして薄く入ったものは一晩で消える。
細く絞ったらどうなるのかは、まだ分からない。広く取った一日ぶんしか試していないからだ。
それと、決めたあとで気づいたことがもう一つある。一度決めてしまうと、その日のうちは決め直せない。「和菓子」と決めた日の夕方に「餡だけ」へ変えることは、どうしてもできなかった。
だとしたら、範囲は最初から絞らないといけない。
三年間、僕は毎朝この鍋の餡を指で舐めてきた。この会社で本当に知っているのは、それだけだ。豆の目利きも配合も知らない。知っているのは、鍋に火が入っていくときの手つきだけだ。
毎朝いちばんに試作室へ来て、誰にも頼まれないまま鍋を洗う。指の一舐めが、いつのまにか一日の始まりの合図になっていた。決められるのは火の入り方だった。
鍋の中を見た。
――この餡を炊く火加減だけ。
決めた瞬間、指先が熱を持った。
小豆を水に落とす音がもう違って聞こえる。この豆は皮が硬い――頭で考えるより先に、手がそう言った。渋切りの湯を捨てる回数、鍋底に立つ泡の大きさ、砂糖を三度に分けて入れるまでの、待たなければいけない間。全部身体が先に知っていた。
火を細める。ここだというより、ここ以外にない。泡が鍋肌を這い上がる手前で、少しだけ落として、へらを回す速さを半分にした。豆の皮がほどける音が、水の音から蜜の音に変わる。そこで一度だけ火を戻した。木のへらが重くなる寸前で手を止め、あとは余熱に預けた。鍋から立つ蒸気がいつもより甘く見えた。
炊き上がった餡を匙の先で少しだけすくって、口に入れた。――皮が舌の上でほどけて、そのあとから蜜の甘さが遅れて立ち上がってくる。噛まなくても崩れるのに、豆の輪郭だけは最後まで残っている。喉に落ちてから、香りがもう一度鼻の奥へ戻ってきた。先月からこの鍋の餡は、甘いだけで香りがなかった。今日のこれは違う。去年までのあの鍋の味だった。
試作室の匂いも、去年までのそれに戻っていた。匂いのほうが先に分かった。僕はしばらく鍋の前から動けなかった。
炊き上がった餡を小さな器に取り分けたとき、廊下から足音がした。
「黒木さん、まだ残って――」
芹沢さんが試作室を覗いて、言葉を止めた。甘い匂いに気づいたのが顔で分かった。考えごとをすると前髪に手が行く人だ。今はその手が途中で止まっていた。
「味見していいですか」
「どうぞ」
芹沢さんは器を受け取って、木の匙で少しだけすくった。口に入れた瞬間、匙を持った手が宙で止まった。鼻から息をもう一度吸い直して、目を閉じたまま動かなかった。飲み込んでから、芹沢さんはもう一度匙を沈めた。二口目は、味を確かめる食べ方ではなかった。
そこへ通りかかった鷲尾課長が、器を一度だけ覗いた。それから、匙には手を伸ばさなかった。
「洗い物、終わったのか」
それだけ言って行った。
芹沢さんは廊下の足音が消えるまで待っていた。
「これ……本当に同じ配合ですか」
「配合は変えていません」
「じゃあ、何を変えたんですか」
答えられなくて、僕は蛇口の栓をきつく締め直した。芹沢さんは少し笑いそうな顔をすると、もう一度器に目を落としてから僕を見た。今まで向けられたことのない目だった。
「日付を書いて参考サンプルに残します。これは残しておかないと駄目です」
翌朝の部会は十分で終わるはずだった。
朝いちばんに鍋を洗いながら指先を見た。昨夜の熱がまだ残っていた。今日は何も決めないでおいた。
鷲尾課長が篠田さんからの評価を読み上げた。声が平らだった。
「――餡が重い。後味に粉が残る。去年の同じ品と比べて明らかに落ちている。この状態では秋の催事に載せられない」
読み終えて、課長は紙を裏返した。
「以上だ」
誰も何も言わなかった。主力の粒餡が催事から落ちるのは売り上げ三割の話であり、来年この部に何人残るかの話でもある。窓の外で、工場の機械が回る音だけが大きく聞こえた。
「原因の見当はついている」
課長が僕の方を見た。三年で初めてまっすぐ見られた。
「鍋だ。洗い残しが混ざれば味は濁るし、前の日の餡が残っていれば粉っぽさも出る。――黒木くん、君は毎朝あれを一人で洗っているな」
責めていない。事実を並べただけの形をしている。それでも部の全員の視線が僕へ静かに寄ってくる。膝の上の手がまた冷たくなっていく。
「僕は」
「君を責めてはいないよ。誰にでもあることだ。ただ、原因は特定しないといけない」
口の中が乾いた。ここで言い返したところで、立場のない人間の声は記録にも残らない。喉の奥に何かが詰まって、声が出てこない。
芹沢さんは前に一度、課長に「数字が読めない」と言われている。企画会議で自分の案を出した日だったと、いつか洗い場で少しだけ話してくれた。それから芹沢さんは、こういう場で口を開かなくなった。
呼ばれてもいないのに、芹沢さんは昨日の器を抱えて部屋の隅に立っていた。その芹沢さんが僕のすぐ後ろまで来た。
「待ってください」
全員の視線が芹沢さんへ動いた。
「鍋のせいじゃありません。比べれば分かります」
「私は昨日、黒木さんが炊いた餡に日付を入れて残しています。同じ配合、同じ鍋、同じへらです。鍋が原因なら、あれも同じように濁っているはずです」
課長は紙をめくろうとした手を、そのまま戻した。
「芹沢さん、君の担当じゃない」
「担当の話をしているんじゃありません。原因の話をしています」
「……その餡は、まだあるのか」
「あります。昨日の日付で、参考サンプルに登録しました」
声は最後だけ少し震えていた。芹沢さんは僕を見ずに、課長だけをまっすぐ見ていた。
「私の見当が違っていたら、私の責任にしてください。それでかまいません」
十秒くらい、誰も何も言わなかった。課長は黙って資料を閉じた。部会はそこで流れた。芹沢さんは僕に小さくうなずいて、先に部屋を出ていった。
自分の評価を賭けると言った人の背中は、思っていたより小さかった。三年ここにいて、誰かに庇われたのは初めてだった。
昼過ぎ、保管庫の前で芹沢さんが麻袋の口を解いていた。
「黒木さん、小豆って全部同じだと思ってました?」
「……違うんですか」
「違います」
芹沢さんは袋に手を入れて豆を数粒すくい、僕の掌に落とした。それから隣の袋からも同じだけすくって、掌のもう半分に並べた。粒が揃っているかどうかだけで、二つはまるで違うものに見えた。
「こっちが上等なやつです。粒が揃って皮に張りがある。安いのは粒がまちまちで皮が硬い。硬いとなかなか柔らかくなりません」
「柔らかくならないと、火にかける時間が伸びる」
「伸びます。あと、一度炊いて渋の抜けきらなかったぶんを、もう一度炊いて使うことがあるんです。二度炊きって言うんですけど、それをやると香りが残りません」
僕は掌に並んだ二種類の豆を見比べた。去年までのこの鍋の味には、皮の裏の香りが残っていた。今年のそれには無い。
三年間この豆を量って鍋に入れてきたのに、上等なものと質の悪いものがあることを今日初めて知った。耳の先がまた熱くなった。
「そんな顔しないでください。知らなくて当然です。担当外なので」
「褒めてます?」
「褒めてません」
芹沢さんは真顔でそう言ってから、少しだけ口の端を上げた。この人が笑うところを、僕はまだ数えるほどしか見ていない。
芹沢さんが僕の顔を見た。
「いい顔ですね、今の。――今のは、褒めてます」
言った本人が一番驚いた顔をしていた。僕も同じ顔をしていたと思う。
「詳しいですね」
「前にいた部署が原料の仕入れ担当だったので」
僕は黙って、掌の豆をもう一度見た。
「値段は、どれくらい違うんですか」
「聞かないほうがいいと思います。……仕入れの記録なら、私はまだ見られます」
「うちの主力に入っているのは、どっちですか」
「……去年までは、こちらでした」
芹沢さんは上等なほうの袋を指して、何も言わなかった。芹沢さんもどこかで同じことに気づいていたのだろう。気づいていたところで、芹沢さんには餡を炊く手が無い。
芹沢さんは麻袋の口を、元どおりに縛り直した。結び目の向きまで、開ける前と同じ向きに揃えていた。僕はその手元をしばらく見ていた。
その夜、布団の中で、明日は何に絞るかを考えた。餡を炊く側でもう一度勝つのは簡単だけれど、それだと鍋を洗う人間が原因だったという話は誰も取り下げてくれない。
眠る前に芹沢さんからメッセージが来た。
『最終試食会は明日の十五時になりました。社長と篠田さんが来ます。参考サンプルのことも伝わったみたいで、比べて見せるよう社長から言われました』
『最終』の二文字が、もう重かった。明日で終わる。僕の契約はあと九日だ。鍋を洗う人間が原因だったという話も、明日そこで終わる。
終わるなら終わる場所で言うしかない。社長と篠田さんがいる部屋なら、あとから聞き間違いにされることもないはずだった。
翌朝目が覚めてすぐに決めた。
豆のことは何も知らないが、それでも構わないはずだった。知っているかどうかでなく、狭いかどうかで濃さが決まる。和菓子の日に分かったのはそれだけだ。
――この餡が、どんな小豆をどう炊いたものかを、舌で見分けること。
十五時。会議室の長机に白い小皿が並んだ。
上座に月岡社長が座り、隣に篠田さんがいた。鷲尾課長は資料を立てて置き、角を指で揃えていた。僕は末席で汗をかいた手を膝で拭った。三年間、この部屋で意見を通したことは一度もなかった。芹沢さんは僕の隣に、日付のラベルを貼った容器を置いた。
「では現行品から」と課長が言った。
篠田さんが匙を取り、ひと口食べた。口の端が下がった。
「……やっぱりこれです。重い。去年のはこうじゃなかった」
社長は黙って同じ皿を二口食べ、三口目には手を付けないまま、二つ目の皿を見た。
「こちらは?」
「おとといの試作です」と芹沢さんが言った。「炊いたのは黒木さんです」
課長が芹沢さんを見たが、何も言わなかった。
篠田さんが二つ目を口に入れて匙を置くと、そのまましばらく手を戻さない。上がった眉がそのまま下りてこなかった。飲み込むまでの間が、離れた席からでも長く見えた。
「これはどこの餡ですか」
「うちの鍋です」と僕は言った。「同じ配合で、同じ豆です」
「火は」
「僕が見ました」
篠田さんはもう二口すくって、最後の一口で笑った。
「香りが戻ってる。これ、去年より上ですよ。――秋はこれでいきましょう。社長、これなら出せます」
社長は自分の皿の餡をゆっくり食べて、匙を置いてから、一度だけうなずいた。それだけの動きが、長机の空気の向きを変えた。この部屋で、篠田さんの一言が課長の言葉より重くなった。
味の話はもう終わったらしい。課長は、原因の置き場所だけは動かさないつもりらしかった。
「お待ちください」
鷲尾課長だった。
「味は認めます。ですが現行品が落ちた原因は別にあります。工程の管理に問題がある。そこを直さずに新しい餡を載せても、催事の途中で同じことが起きます」
課長は鍋という言葉を使わないまま、もう一度僕の方を見た。
社長が僕を見た。「黒木くん、だったね。何か言うことは」
僕は現行品の皿を引き寄せた。
「食べてから言います」
ひと口すくって、舌に乗せ、奥歯の手前で潰した。皮が残る。潰れ方が揃わない。甘さが立ち上がる前に、乾いた粉の輪郭が舌の奥へ落ちていく。香りが来るはずの場所に何も来ない。分かったというより思い出した。十年ぶんの経験がそう言っている。
検討会で耳が熱くなったときとは逆で、喉の奥がすっと冷えて、声が自然と落ち着いていく。
「上等な小豆じゃありません。質の悪い豆です。粒が揃っていないから、火の通りもばらばらです。皮が硬いぶん柔らかくなるまで火にかけて、そのあいだに、香りが飛んでいます」
篠田さんの匙が皿に触れて、小さな音を立てて止まった。
「しかも、これは一度炊いた残りを、もう一度炊いて使っています。二度炊きです。だから後味に粉が残る。鍋のせいじゃありません」
会議室が静かになり、篠田さんが自分の手帳を開いて、そこに何かを書いた。書きながら一度課長を見た。そのあとは見なかった。
課長は笑わないまま、ゆっくり息を吐き、背をまっすぐに伸ばした。
「――失礼。さっきの試作も同じ豆だと言われましたね。同じ豆を使って、なぜそちらは違うんですか。都合のいい話をしていませんか」
「二度炊きはしていません。豆が硬いのは分かっていたので、その硬さに合わせて火を作りました。……豆が悪いことは、火では消せません。それでも、香りだけは戻せます」
「――昨日、芹沢さんに豆の話を聞いたそうだな。それを言い直しているだけじゃないのか」
「聞きました。安いほうに替わっていることは、昨日知りました。二度炊きのことは、聞いていません」
「黒木くん。味だけで小豆の善し悪しが分かる、炊いた回数まで分かる、と。そういう話でいいのかな」
そして課長は、僕ではなく、社長と篠田さんの方を向いた。
「思い込みで人を疑うようなことは、この部ではさせたくないんです」
「私は三十年この部にいます。豆を利き分けられると言った人間を、その間に何人も見てきました。その全員が外しました。豆は年で変わりますし、天候でも水でも変わります。だから味から豆を逆算することはできません。できると言うなら、それは当てているんじゃない。決めつけているんです」
三十年という言葉が、今はやけに広く聞こえた。――範囲を広く取ると経験は薄くなる。
課長は一度間を置いた。
「十年前にも、うちに舌のいい若手がいました。仕入れ先を一つ、自分の判断で切りました。切った先の方が良かったと分かったのは、二年後です。――三年皿を洗っていた人間の舌が、私の三十年より確かだと。本当にそう思われますか」
課長の言うことは正しく聞こえた。僕自身、一瞬そう思った。
篠田さんが口を開きかけてやめ、社長は何も言わない。会議室の温度が課長の方へ傾いていく。
「仮に一度当たったとして、それは一度です。明日も同じ味が出せますか。催事は十日間あるんですよ」
僕は一度芹沢さんを見た。芹沢さんはうなずいた。
「課長」と僕は呼んだ。
今日の一回は、もう味の見分けに使っている。火加減へ戻すことはできない。
「今日はもう炊けません。豆を水に落としてから炊き上げるまで、半日かかります」
課長の口の端がわずかに動いた。
「――それでも」と僕は続けた。「おとといの火加減は、もう身体が覚えています。一度覚えた手は、忘れません。明日も、その次も、同じ火で炊けます」
あのとき出てこなかった言葉が、一つだけ出てきた。
「あなたの三十年に、この火加減は何日ありましたか」
課長の目が動いた。
課長の口が一度開いて、何も出てこないまま閉じた。社長が初めて課長の顔をまっすぐ見た。膝の上の僕の手は、もう冷たくなかった。
壁の時計の秒針が一つずつ進んでいた。
課長は答えずに別のことを言った。
「……在庫のことは、俺は知らん」
三十年この部にいる人が、この部屋で『俺』と言ったのを、僕は初めて聞いた。
誰も在庫の話はしていなかった。
課長の視線が一度だけ後ろの棚へ動いた。そこには前の期の資料と、豆の袋の見本が並んでいる。ほんの一瞬だったが、部屋にいる全員がそれを見ていた。
芹沢さんが手元の紙を一枚めくった。
「先月納品された上等な小豆は百キロです。試作にも製造にも、全部合わせて二十キロしか出ていません」
八十キロがどこへ行ったのかを、誰も説明できなかった。
「同じ月に、入荷の記録がない麻袋が保管庫に入っています。荷札の品名が空のままです」
篠田さんが手帳から顔を上げ、社長は何も言わずに、その紙へ目を落とした。
社長が初めて長く口を開いた。
「鷲尾くん、なぜ替えた」
課長は答えなかった。三十年やってきた人の喉が、一度だけ上下した。答えないことを選んだ人の黙り方だった。社長は長く待って、それから待つのをやめた。
課長の指は、三十年ぶん揃えてきた資料の角にまだ触れていた。篠田さんが手帳を閉じる音が、はっきり聞こえた。
社長は秘書を呼んで、今日ここで出た話を、全部書き留めるように言った。
「豆のことはこちらで調べます。今日の話は、誰が何を言ったかまで含めて残してください。あとで言った言わないにならないように」
秘書がうなずいた。手元の紙にペンを走らせる音がした。その音の間、課長はずっと同じ姿勢で座っていた。
篠田さんが立ち上がって、僕に名刺を出した。
「秋の催事はこの提案でいきます。企画書もこのまま通します。数量と日程はうちから出しますので、炊く人だけは変えないでください」
最後の一言だけ、篠田さんは社長の方を見て言った。名刺を受け取るとき、自分の指先がまだ少し震えているのに気づいた。
社長が僕の企画書を手に取って、表紙の名前をしばらく見ていた。
「これは誰が書いた」
「僕です」と僕は言った。「七回書き直しました」
「名前を直しなさい」
社長は企画書を秘書に渡した。
「保管してある分も、全部です」
自分の名前が自分の企画書の上に戻ってくるだけのことで、掌が汗ばんだ。
会議室を出ると、廊下の少し先で、課長が待っていた。誰もいない方を選んで立っていた。
「黒木くん。……三十年だ。この鍋を守ってきたのは、俺だよ」
課長の声はいつもより低かった。「今からでも君と二人で立て直せる。三十年やってきた目は、まだ持っているつもりだ」
「もう遅いですよ、課長」
机の上に置かれていたあの二行の紙を思い出した。契約の更新はしない、今月末まで――決めたのもこの人だった。
「その三十年が、僕の契約を切ったんです」
それだけ言って、僕は課長の前を通り過ぎた。呼び止める声は追ってこなかった。
廊下の先に、検討会で笑った若手の二人が待っていた。
「黒木さん、あの時は空気が悪くて、みんな言えなかっただけで」
「これから一緒に、開発の方で」
二人はあの紙が置かれた日、僕の机の前を素通りした。その二人が今は、僕の返事を待つ顔で廊下に並んでいる。
「開発の話は、社長に聞いてください」
二人の返事を待たずに、僕は試作室へ戻った。
翌週の部会に課長の席は無かった。誰もその理由を言わなかった。三十年ぶんの席が一つ空くだけで、部屋の広さが変わったように見えた。代わりに残ったのは、誰が何を言ったかを書き留めた一束の紙だけだった。あれはこれからも消えない。
契約の紙は総務の人が取りに来た。代わりに別の紙が置かれた。来月から開発部の担当として、と書いてある。契約社員という文字はどこにも無かった。
僕はその紙を鞄の一番奥に入れた。三年間、机に置かれる紙は、いつも僕の代わりに何かを決めるものだった。今日のこれは、僕が決めたことのあとから付いてきた。
その日の夕方も、僕は試作室で鍋を洗っていた。三年やってきたことは当分やめないし、鍋肌の餡を舐めるのもたぶんやめない。秋の催事に出す分をこの鍋で炊くなら、洗う人間が味を知っているほうがいい。
僕の中に残ったのは二つだ。火加減と、小豆の善し悪し。二つ積み上がっただけで、鍋の前に立ったときに見える景色が、もう違う。
芹沢さんが日付のラベルを貼りながら言った。
「明日は何を炊きますか」
洗い場の水を止めて、僕は言った。
「芹沢さんが残してくれたあの餡が、僕を助けました。――明日もお願いします」
芹沢さんは少しだけ笑った。目の端の力が抜けたような、今日初めて見る顔だった。
「敬語がまだ変わりませんね」
「そうですか」
「――お礼はもういいです。『明日も』だけで足ります」
芹沢さんはそう言って、ラベルに明日の日付を書いた。振り向かないまま、ペン先だけが少し急いでいた。試作室の匂いは今日も、去年までのままだった。
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