遠い家の薬師ーー森の奥にある小さな家。そこには、美しい薬師と無愛想な護衛が暮らしていた。
※本作は連載予定作品『遠い家の薬師』の先行短編です。単体でもお楽しみいただけます。
※補足
「繋ぎ手」は高度な治療を行う特殊な存在、「魔導士」は魔法を扱う専門職です。
草と落ち葉を踏む音と、呼吸の音、そして、ザワザワと木々の葉が鳴る音だけがしばらく続いていた。
足元を見ながら、山道をずっと歩き続けていた。額には汗が浮いているが、拭うことはできない。
一筋口元に流れてきて、口の中に塩辛い感覚が広がった。
背中のリナがまた激しく咳き込み始めたので、その場で一度立ち止まる。
「……大丈夫か」
「…………」
無言で背負い直し、また歩き出す。
リナは生まれつき体が弱かった。風邪のたびに咳が出て、なかなか止まらない。今回は、もうふた月も続いていた。看病のため、妻は長らく眠れない日々を送っている。しかも、看病だけすればいいわけではない。仕事もあるし、最近は村周辺の魔物の出没も増えて緊張感が高まっている。限界を、感じていた。
もちろん、これまで色々な薬を試してきた。だが、どれもほとんど効果を感じなかった。
かといって、繋ぎ手様に見てもらうほど金はない。そもそも金があっても最近は見てもらえないらしい。
王都へ行けば魔導士に見てもらえるかもしれないが、この町からは距離がある。仕事に穴を開けるわけにはいかなかった。
そんな時、山の奥に隠れ住む薬師の噂を耳にした。
その薬師は、異様に良く効く薬を作るらしい。しかも、絶世の美人ときた。
噂によると、あまりに美しすぎて国が傾いたから隠れ住んでいるという話だった。他にも、実は呪われており、見たものも呪われるというものや、実は女神なのだとか。とにかく、色々な噂が飛び交っているらしい。
……美人が見てみたかったわけではない。あくまで、かわいいリナと、妻の安眠のためだ。
そんなわけで、リナを背負って山道を歩いていた。
魔物の出没が少し怖いが、少人数で動いている時はほとんど襲われないというのが最近の定説となっていた。実際、ここまでしばらく歩いてきたが、魔物の気配はなかった。
いちおう弓矢と古びた短剣も持って来ていたが、このまま使うことなく無事に辿り着けることを祈った。
二時間ほど歩いただろうか。
噂に聞いていたとおり、ほとんど獣道のような道の先、山の奥に、木々に囲まれた建物が見えてきた。
建物に近づくと、薬屋というより、古びた民家にのように見えた。
家の周りは人の手が入り、生活に使っているであろう桶や木箱などが置かれている。
噂から想像していたよりも、ずっと普通だった。
正面に、古びた木の扉があった。手前には、小さな石の階段がある。
背中のリナを背負い直し、階段を踏み締めて登る。体を前に傾けて一瞬だけ片手を空け、扉を軽く叩いた。
……返事はない。だが、家の奥からはわずかに物音が聞こえたので、そのまましばらく扉の前で待っていた。
リナがまた咳き込む。
少しして、扉が開いた。
顔を上げると、目の前には見上げるくらい背の高い、無愛想な大男が立っていた。
……絶世の美人と聞いていたのだが。
少し残念に思いながら口を開く。
「……あの、薬を売ってくれると聞いて来たのですが」
男はチラリと背のリナに視線を向けた後「……そこで待っていろ」と言い残し戸を閉めた。
言われた通り、そのまま待つ。
……やはり、噂は噂か。あの男から、どうしてあのような噂になったのかは分からないが。
でもせっかく苦労してここまで来たのだ。せめて薬の効果の噂だけは真実であってくれと願った。
しばらくして、家の奥から、何かが落ちる音がした。
続いて、慌ただしい足音が響き、誰かの小さな声が聞こえてくる。内容は、聞き取れなかった。
古びた扉のドアノブが回り、ゆっくりと扉が開く。
「……ごめん。待たせたね」
現れた人物の姿を目にして、思わず言葉を失った。
整いすぎた顔立ち。澄んだ青い瞳に吸い込まれそうな感覚がして、喉が鳴った。
癖のない淡い金髪は、陽の光に照らされて柔らかく輝いている。ゆるく一つに纏められ、濃紺の髪紐で括られている……が、なんだか結び目が少し乱れている。
身につけている服の襟元も、整ってはいない。……何と言うか。どう見ても、慌てて身支度を整えた後だった。
美人の視線が、背中のリナに向けられる。
「……その子の薬が欲しいんだよね。中で様子を聞かせてもらえる?」
美人に招かれ、古びた家に足を踏み入れた。家の中は少し薄暗かった。目が慣れてくると、壁際に積まれた大量の木箱と器が目に飛び込んでくる。乾燥させた植物の葉が窓際にまで吊るされて、日の光を遮っている。
壁際の棚には、薬作りに使うのであろう鉢が重ねられて、ガラス瓶が大量に並んでいた。
部屋の真ん中には、テーブルと椅子が二脚だけ、置かれていた。
美人は、テーブルを挟んで向かい合わせに置かれていた椅子を一脚持ち上げると、こちら側へ運んできた。
「ここに座ってて」
「ああ……すみませんね」
背中のリナを下ろして、椅子に座らせた。リナは、小さく咳き込みながらキョロキョロと部屋の様子を伺っている。自分も隣に座った。
美人はリナの前に来て軽く身をかがめた。……少しだけ開いた襟元から、中が覗く。良くないと思いながらも、つい視線が吸い寄せられてしまう。
「……はじめまして。僕はノア。薬師をしているんだ。咳が治るお薬を作るからね」
そう言って、美人ーーノアはにこりと微笑む。リナは息を飲み、たちまち頬を染めた。
……娘の初恋を奪うのはやめろ、と言いたくなったが、同時に無理もないなとも思った。現に、自分も目を奪われている。
すると突然、ノアの背後から無愛想な男が近づいてきて、手に持っていた外套を頭に被せた。
……美人が、視界から消えた。
「うわっ」
「……奥に戻れ」
低い声。
「……あ、ごめん」
ノアは、被せられた外套を胸元で握った。
布の奥から、少しだけ困ったような瞳が覗く。
「ちょっと待ってね」
ノアが奥の部屋に消え、沈黙が落ちる。無愛想な大男は無言でノアが消えた部屋の前に立っている。こちらに直接視線を向けることはないが、視界の隅で捉えられているのが感じられた。
「……おにいちゃん、きれいでびっくりした。女の人かと思った」
リナの呟きに「そうだな」と頷く。完全に同意である。あれは確かに女神に見えるし、国も傾くかもしれない。
噂から勝手に女の薬師を想像していたが、リナの言う通りたぶん男なのだろう。女にしては声が低かった。
「おせきで苦しいの、治してくれるの?」
「……ああ、きっとな。何か聞かれたら、しっかりお話しするんだぞ」
「うん。わかった」
少しして、ノアが部屋に戻ってきた。先ほど無愛想な男から手渡された外套を羽織り、きっちり前が閉められている。頭にはフードが被せられ、美しい姿がほとんど見えなくなっていた。……それどころか、かなり怪しい雰囲気で、これが呪いの噂の出所なのかなと思った。
無愛想な大男は奥に引っ込むと、椅子を一脚運んできた。自分たちの前に向かい合わせに置く。
「レン、ありがとう」
ノアが椅子に腰掛けながらそう言うと、無愛想な大男--レンは軽く頷き、その場を離れた。
「……お待たせ。じゃあ、ちょっと色々話を聞かせてね」
「は、はい」
ノアの質問は、細かかった。どんな時に症状が強いのか。きっかけとなる行動、時間帯など。それから、普段の食事、寝る時間まで。看病のため眠れていない妻の話をすると眉をひそめ、「それは大変だったね」と言った。
「周りで、他にも咳をしている子はいる? お友達はみんな元気かな」
リナがこくりと頷いた。
「そっか。ありがとう。……それじゃあ、今からお薬を作るね」
そう言うと、ノアは椅子から立ち上がった。
「え……いまここで作るんですか?」
「うん。僕はその人に合わせて作ってるんだ。その方がよく効くから。……少しだけ待ってて」
ノアは壁際に積まれた木箱の蓋を開けた。中から瓶をいくつか取り出すと、テーブルの上に並べていく。それから戸棚から大きめの鉢をひとつと、空き瓶を数本取った。
瓶の中のものを、鉢に注ぐ。中身は細かく、ほとんど粉末のようなものだった。
複数の瓶から測りもせずに鉢に注ぐと乳棒で軽く擦る。慣れた手つきだった。
乳鉢の中で薬草を擦るたび、青く爽やかな香りがふわりと広がった。
「……随分、細かくしてあるんですね」
「ああ、うん。刻んでから保管してるんだ」
「そうなんですか?」
「その方が効率的でしょ?」
「……」
「急いでる人もいるし、その場で全部やると時間かかるからね。……あと、体調悪い時って待つのも大変だし」
「……なるほど」
話しているうちに、材料はすっかり細かくなった。ノアが顔を上げる。布の奥から青い瞳が覗いた。
「飲みやすいように液状にしようと思うんだけど。少し重くなってもいい?」
「あ、はい。お任せします」
「はーい」
ノアは壁際に置かれたボトルと、棚からまた瓶をひとつ取って机に置いた。瓶の中身は、どうやら蜂蜜だ。
ボトルの中身を注ぎ、蜂蜜を加えてかき混ぜる。鉢の中身は、とろみのある液体になった。
蜂蜜の甘い香りが鼻をくすぐる。リナが小さく鼻をひくつかせた。
「……いい匂い」
ノアは布の奥で少し笑った。
「でしょ?」
ノアは乳棒をそっと机に置いた。それから、乳鉢に手をかざす。
一瞬だけ緑色の輝きに包まれる。乳鉢の中身の色が変わり、それから元に戻った。
じーっと手元を見ていたリナが身を乗り出す。
「おにいちゃん、いまのなに!?」
「お薬がよく効くおまじないだよ」
軽く笑う。
おまじない。彼はそう言ったが、今のは魔法ではないだろうか?
……いや、気のせいか。
魔法が使える薬師なんて、聞いたことがない。魔法が使えるなら、魔導士として王都に詰めるのが普通だ。
そもそも、これまで生きてきて魔法なんてほとんど見たことがない。だから、判断がつかなかった。
ノアは乳鉢の中身を漏斗を使って瓶に移すと、ひとつをこちらに差し出してきた。
「出来立て飲む? 少し楽になると思うよ」
リナは瓶を受け取って顔を瓶の口に近づけると、少し匂いを嗅ぐ。ノアは軽く笑った。
「大丈夫。蜂蜜入れて美味しくしたからね」
その言葉に、リナはおそるおそる瓶に口をつける。瓶をわずかに傾けて、中身を少しだけ飲んだ。目を丸くする。
「……甘い」
「そうでしょ。甘いの好き?」
「うん!」
「美味しいよねー。僕も甘いの好きだよ」
リナは瓶を傾けて、中身をごくごく飲んだ。飲みきって、軽く息をつく。
ノアは布の奥で軽く微笑んだ。
「頑張ったね。……空き瓶は、テーブルに置いておいて」
いつの間にか、ノアは乳鉢から瓶へ薬を移し終えていた。蓋をしっかり閉めると、こちらへ寄せてくる。
「かなり長引いてたみたいだから、しばらく飲めるように多めに作ったよ。一日一本ずつで」
「ありがとうございます。……お代はいくらになります?」
「ああ、いくらになるかな。ちょっと待ってね……」
ノアは瓶のラベルをひとつずつ確認している。……材料から金額を計算しているらしい。
リナが椅子から降りて、部屋の中を歩き回り散策を始めた。……イタズラをしてはいけない。立ち上がり、後ろから監視する。
リナは木箱や容器の中を覗き込み、窓枠に吊るされている乾燥した植物を見上げ、目を輝かせた。
「おにいちゃんのお家、おもしろいねー! なんだか、まほうつかいの家みたい」
はしゃぐリナに、穏やかに微笑むノア。
そして、ふと気づいた。これだけ歩き回っているのに、咳が全く出ていない。
今まで、何をやっても良くならなかったのに。
異様によく効く薬を作ると噂されていたが、これは確かにそうなのかもしれない。
……村に帰ったら、困っている人に伝えよう。そう思った。
支払いを済ませ、そろそろ失礼しようと思ったのだが、リナはすっかりノアに懐いてまとわりついていた。
「ノアせんせい! リナもおくすり作ってみたい」
「いいよー。じゃあ、これとこれ。混ぜてください」
「はーい!」
貸してもらった小さな乳鉢と乳棒を手に、少しだけ注がれた材料を混ぜている。
「……すみません、遊んでもらってしまって」
「いいんだよ。珍しいだろうし、気になるよね。……あ、あとこれは料理用のハーブだから。危なくないよ」
軽く笑いながらそう言うと、突然何かを思い出したように「あ」と声を上げた。
ノアはリナの側を離れると、棚に向かう。
棚から薬瓶を一つ取ると、こちらへ持ってきた。
「よかったら、これも一緒にどう?『食べ物の“旬”が分かる薬』なんだけど」
一瞬、言っていることが理解できなかった。食べ物の旬、と言ったか?
「……旬、ですか?」
そのまま聞き返すと、ノアは笑顔で頷いた。
「うん。今の時期、山で取れる果物が美味しいから作ってみたんだ。……これとか、きっと今が一番おいしい瞬間だと思うよ」
言いながらノアは、籠から林檎をひとつ取った。
……飲む前から旬が分かっているのではないか?
いや、彼はとても美しく優秀な薬師だ。何か、もっと崇高な考えがあるのかもしれない。でも、自分にはそれを推し量ることができなかった。
「ええと……」
何か言おうと口を開いたとき、ずっと部屋の隅でこちらを伺っていたレンが、こちらへ歩み寄って来た。
「……ノア」
レンの呼びかけに、ノアは振り返る。
「なに?」
レンはノアの手から瓶をサッと奪うと、棚に戻した。
それから、チラリとこちらを見る。
「……気にするな」
その言葉にどこか圧を感じて、それ以上は何も言えなかった。
リナはまだ遊びたがったが、レンの視線が気になり、そろそろ帰ることにした。
行きは背負ってきたが、帰りは必要なさそうだ。……妻も今夜はよく眠れることだろう。本当に、感謝しかない。
「ノアせんせい、ありがとう!」
「本当に、ありがとうございました」
「うん。お大事にね」
リナはノアの外套の端を掴みながら、布の中の顔を覗き込む。
「ねぇ。リナが大きくなったら、ノアせんせいみたいになりたいなー。おくすり作るの。だから、またおしえてね」
リナは無邪気に笑う。だが、ノアはリナの言葉にひどく悲しげな顔を浮かべた。
妙な違和感が残る。
だが、ノアはすぐに顔を伏せた。布に隠れて表情が見えなくなる。
次に顔を上げた時には、もう先ほどまでの柔らかい笑顔に戻っていた。
「……またおいで」
「うん! またね!」
リナが駆けていく後ろを、小走りで追いかける。
振り返ると、ノアはしばらく扉のところで見送ってくれていた。
少しして、レンに袖を引かれて家の中に入っていく。
古びた扉が閉められ、姿が見えなくなった。
視線を前に戻し、リナを追いかける。
「リナ! 走ったら転ぶぞー」
元気に駆ける後ろ姿に、自然と口元が緩み笑顔になっていた。
***
客が帰った後、ノアは何も言わずに外套を脱ぐと、椅子の背もたれに掛けた。
先ほどは堪えたようだが、今にも崩れそうな表情を浮かべている。
「……あの子は、こんな世界で生きていかなきゃならないんだね」
ぽつりと、そう言った。それから、拳を握る。
「……僕が、あの時ーー」
何を言おうとしているのか分かっていた。
だが、今さらその答えを変えるつもりはない。
俺は一気に距離を詰めると、顎を持ち上げて口を塞いだ。
最後まで、言わせない。
目を丸くしていたノアだったが、次第に目を細め、ゆっくりと目を閉じた。目尻に、ほんの少し涙が滲む。
しばらく続けた後、離れた。
「……もう」
ノアは目を逸らし、小さく息を吐く。
だが、表情はいつも通りに戻っていた。
「……あ、もうこんな時間か。そろそろ昼ごはん作らなきゃね」
ノアは俺の側を離れ、壁に掛けてあったエプロンを身につける。
「レンが獲ってきてくれた鳥を使おうかな。どう?」
「……持ってくる」
「うん」
俺は少し頭を下げて扉をくぐり、家の外に出る。
落ちてくる日差しに、一瞬だけ目が細くなる。
ザワザワと木々が音を立て、光が揺れている。
木々に囲まれたこの家からは、外の世界は見えない。見えなければ、気にすることもない。そう思っていたのだが。
(……完全に忘れることはない、か)
だが、それでも。
ノアが無事で、笑って過ごせる日が多い方がいい。
少なくとも俺は、そう思っている。
(……鳥)
外に出た目的を思い出し、俺は古びた家の前を横切った。
風が抜ける。
風だけが、昔も今も変わらずにそこにあった。
お読みいただきありがとうございました。
長編版では、山奥の薬屋を訪れる様々な人々との出会いを通して、二人の暮らしや世界の様子が少しずつ明らかになっていく予定です。




