序章 声
声が聞こえる。
それは少女のような、透明感のある声だった。遠く、深く、けれどどこまでも優しい響き。まるで水の底から響いてくるような、そんな不思議な距離感を持った声。
白い靄が、視界を覆っている。
足元も、空も、全てが白に溶けている。方向感覚が失われる。重力さえも曖昧だ。ユリウス・アルヴェインは、その白い世界の中で立ち尽くしていた。いや、立っているのかさえ定かではない。ただ、意識だけがそこに存在していた。
十歳の少年の小さな手が、無意識に何かを探すように宙を彷徨う。
「……誰?」
ユリウスは声を発した。自分の声が、白い靄に吸い込まれていく。エコーもない。まるで、音そのものが存在を許されていないかのように。
――まだ、その時ではないの。
声が響いた。今度は少し近く聞こえた気がした。けれど、姿は見えない。白い靄だけが、ゆっくりと渦を巻いている。
「誰なんだ……君は」
ユリウスは白い靄の中を歩き始めた。足音はしない。地面があるのかさえ、分からなかった。ただ、歩くという動作だけが、この世界で唯一実感できる行為だった。
――私は、あなたの傍にいる。ずっと、ずっと昔から。そして、これからも。
「意味が、分からないよ……」
――いつか、あなたは知ることになる。自分が何者で、何のために生まれたのかを。
「僕は……ユリウス・アルヴェインだ。父さんと母さんの息子で、姉さんの弟で……」
――そう。今のあなたは、それでいい。
少女の声が、優しく響いた。まるで、母親が子供を寝かしつけるような、温かく包容力のある声。
――でもね、いつか目覚める日が来る。血が呼ぶ日が。運命が動き出す日が。
「目覚める……?」
――その時まで、今を大切にして。家族を、友を、この穏やかな日々を。
白い靄が、徐々に濃くなっていく。視界が完全に白に染まっていく。
「待って! 君は誰なんだ!」
ユリウスは叫んだ。けれど、声は届かない。
――私の名前は――
その言葉は、最後まで聞こえなかった。
世界が、白に溶けた。




