椅子取りゲームのライバルと相席になった日
私の人生には、宿敵と呼ぶべき男がいる。
彼との静かな戦争はもう一月以上も続いており、戦場は王立図書館の片隅。
目的は、窓から木漏れ日が射し込む、たった一つの椅子である。
王立図書館の奥深くの一角は、私の聖域だった。
高い窓から差し込む午後の光がキラキラと輝かせる特別な場所。
そこに置かれたソファは、分厚い歴史書を広げても疲れない。
まさに私──チェアリーのために誂えられたかのような特等席なのだ。
……というのは、もちろん私の勝手な思い込みである。
その証拠に、私と同じくらい、いや、もしかしたら私以上にその席を愛している人間がいた。
彼だ。
今日も今日とて、宿敵はそこにいた。
机に肘をつき、いつも小難しい顔で分厚い専門書を広げている、黒髪の男。
歳は私と同じか、少し上くらいだろうか。
整った顔立ちはしているけれど、いかんせん無愛想すぎる。
図書館の静寂を自ら体現しているかのような、近寄りがたい雰囲気を常に纏っている男。
彼が何者なのか、私は知らない。
読んでいる本の内容から察するに、宮廷に仕える歴史研究者の誰かだろう。
そして、私と彼は互いの顔と存在は認識しつつも、一言も言葉を交わしたことのない、奇妙なライバル関係にあった。
私たちの間で繰り広げられているのは、無言の椅子取りゲーム。
ルールは至ってシンプル。「先に着いた方が席を得る」、ただそれだけ。
事の発端は、二月ほど前のこと。
いつものようにお気に入りの席へ向かった私は、信じられない光景を目にしたのだ。
私の聖域であるはずのその席に、見知らぬ男が座っていたのである。
呆気に取られて立ち尽くす私に気づいたのか、不意に彼が本から顔を上げた。
ばちり、と目が合う。
(その席、私のいつものお気に入りの席なんですけど……)
私は言葉の代わりに、ありったけの念を視線に乗せて送った。
図書館の席に予約制度なんてない。
けれど、これだけ強く念じれば、何かを感じ取って譲ってくれるかもしれない。
そんな淡い期待があったのだ。
私の視線に込められた意味を、彼は正確に読み取ったようだった。
――しかし。
彼はほんの少しだけ口の端を吊り上げ、ふい、と本に視線を戻したのだ。
その表情は、明らかに「残念だったな」と告げていた。
明らかな、挑発だった。
むっかー!! なんだこいつ!
その瞬間、私の心の中で何かがぷつりと切れた。
翌日、私は開館と同時に図書館へ駆け込み、見事、聖域を奪還。
遅れてやってきた彼が悔しそうに顔を歪めるのを見て、私はこれ以上ないほどのドヤ顔で微笑んでやった。
遠くで歯ぎしりのような音が聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
こうして、私と彼の静かな、しかし熾烈な戦いの火蓋は切られたのである。
今日もまた、私は彼に敗北した。
これで三日連続の負け越しだ。
ちっとも集中できない隣の硬い椅子に腰を下ろし、私は心の中で毒づく。
(また負けた……! あの人、いつ来てるのよ。もしかして住んでるの? そうよ、きっとそうだわ。あの窓際の席に根を張る地縛霊なのよ!)
そう。
私が密かに彼を『窓際の地縛霊』と呼んでいることは、本人には絶対に言えない秘密だ。
席を取られた日は、一日中なんだか気分が晴れない。
逆に、私が先に席を確保できた日は、遅れて来て残念そうな顔をする彼を見て、小さな優越感に浸るのが日課になっていた。
馬鹿げているとは思う。
図書館の席なんて、どこに座ったって同じはずだ。
でも、あの席は違うのだ。
あの席だけは、なぜか不思議と物語の世界に深く潜り込める。
だから、この静かな戦争に終わりが来ることはない。
明日こそは、と心に誓いながら、私は目の前の本に意識を向けようと努力した。地縛霊の存在を気にしないように、しないように……
ちらり、と視線を向ければ、彼は相変わらず本の世界に没頭している。
長い指がゆっくりとページをめくる。
その仕草はなんだかやけに優雅で、少しだけ癪に障った。
その翌日の午後。
昨日と同じ轍は踏むまいと、私は早めに図書館へ駆け込んだ。
目指すはいつもの一角。
逸る気持ちを抑え、足音を忍ばせて書架の影を抜ける。
「……っ!」
しかし、私の淡い期待は無情にも打ち砕かれた。
そこには既に、地縛霊の背中があった。本日も、彼の勝利である。
また負けた……。
がっくりと肩を落としかけた、その時だった。
彼の読んでいる本のタイトルが、偶然にも私の目に飛び込んできたのだ。
『古王国の興亡』
その背表紙の文字を見た瞬間、私の心臓がどきりと跳ねた。
嘘でしょ?
何度も目をこすり、もう一度見る。
間違いない。金で箔押しされた、紛れもないそのタイトル。
それは、私がここしばらくずっと探し求めていた本だった。
古代王国の謎に迫る、歴史好きにとっては喉から手が出るほど読みたい希少書。
貸し出しはおろか、閲覧にすら特別な許可が必要ないわゆる禁帯出の書物。
私も何度か司書に閲覧を願い出た。
が、「現在、別の方が研究で長期利用されています」の一点張り。
その犯人が、まさか、目の前の地縛霊だったなんて。
席を取られた悔しさと、本への強烈な渇望。
二つの感情が私の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、気づいた時には衝動的に体が動いていた。
私は、彼のすぐ隣の硬い椅子を引いた。
そして、無言で腰を下ろすと、彼の広げている本を真横から覗き込む!
我ながらとんでもなく大胆な行動に出たのだ。
さすがの地縛霊も、私の奇行には驚いたらしい。
びくりと肩を揺らし、迷惑そうな、そして「なんだこいつは」とでも言いたげな視線をこちらに向けた。
ひやりと冷たい空気が流れる。
……まずい、やりすぎた。
そう思ったけれど、もう後には引けない。
私は気まずさを誤魔化すように、彼の読んでいるページに視線を集中させた。
ちょうど、建国王の治世を綴ったとされる日記の部分だった。
「……この記述、公にされている歴史書の記述と少し違いますね」
思わず、心の声が口から漏れ出ていた。
彼は驚いたように、ぱちりと大きく目を見開く。
「……君、それに気づいたのか?」
初めて聞く彼の声は、思ったよりも低く落ち着いていた。
「ええ、まあ、少しだけ。この部分、一見するとただの日記ですが……隠し子を示唆しているようにも読めます」
私の言葉に彼はを丸くして、今度は私自身をまじまじと見てきた。
その真剣な眼差しに、なんだか居心地が悪くなる。
「……君は、一体……」
「チェアリー、です。歴史学科の」
「……シェーズだ」
ぽつりと呟かれた名前。
そこで初めて、私は地縛霊の名前を知った。
シェーズさん、というらしい。
「この本を、探していたのか?」
「はい。ずっと。あなたが読んでいたんですね」
「……ああ」
ぎこちない沈黙が、私たちの間に落ちる。
けれど、それは先ほどまでの冷たいものではなかった。
「……隣で、読むか?」
シェーズさんが、少しだけ本をこちらに寄せながら言った。
私はこくりと頷く。
こうして、私たちの「椅子取りゲーム」は、その日を境に終わりを告げた。
そして、一つの本を共有して時折言葉を交わすという、新しい関係が始まったのだ。
それから毎日、私たちは同じ席で同じ本を読んだ。
いや、正確には、シェーズさんが借りている本を私が隣で読ませてもらう。
そんな奇妙な状況だ。
最初はぎこちなかった会話も、読み進めるうちに自然なものになっていった。
「ここの記述、どう思う? 私は、王家の内紛が滅亡の直接的な原因だと考えているんだが」
「いいえ、私は違うと思います。この前後背景から、経済の破綻が先じゃないでしょうか。内紛はその結果として起きたのでは?」
「なるほど……。その視点はなかった」
無愛想だと思っていたシェーズさんが時折見せる柔らかな表情。
議論が白熱した時に見せる子どものような熱っぽさ。
そして、本に夢中になっている真剣な横顔。
知的な興奮と穏やかな喜びに満ちた時間は、驚くほど心地よかった。
彼の隣にいることが、いつの間にか当たり前になっていた。
地縛霊なんて失礼なあだ名で呼んでいたことが、今では申し訳なく思える。
シェーズさんはただ本が好きなだけの、少し不器用な人なのだ。
けれど、楽しい時間は永遠には続かない。
二人の心を繋いでいた『古王国の興亡』のページが、残りわずかになるにつれて、私の胸には言いようのない寂しさが募っていった。
この本を読み終えたら、この心地よい時間も終わってしまうのだろうか。
私たちはまた、ただの「顔見知り」に戻ってしまうのだろうか。
もしかしたら、もう二度とこうして話すこともなくなるのかもしれない。
それは、シェーズさんも同じだったのかもしれない。
ここ数日、彼はどこか口数が減り、以前よりもずっとゆっくりとページをめくるようになった。まるで、この物語の終わりを惜しむかのように。
彼もきっと、同じなんだ。
この関係が終わってしまうことを、寂しいと思ってくれているんだ。
そう気づいた時、私の心に読書仲間への親しみではない、まったく別の感情が芽生えていることを自覚せざるを得なかった。
私たちの間には、言葉にできない空気が流れていた。
互いに次の一言を、物語の終わりを、切り出せずにいた。
そして、とうとう運命の日がやってきた。
最後のページ。
シェーズさんの指が、最後の一文をゆっくりと辿る。
読み終えた彼が、ぱたり、と静かに本を閉じた。
その音は、まるで私たちの時間の終わりを告げる合図のようだった。
「……これで、終わり、ですね」
名残惜しさを隠しきれず、私が寂しげに呟く。
シェーズさんは何も答えず、ただ静かに頷くだけだった。
翌日。
私の足は習慣のように図書館のいつもの席へと向かっていた。
(もしかしたら、彼も来ているかもしれない。だって、彼ももともと、あの席が好きだったんだから……)
そんな淡い期待を胸に、書架の影を抜ける。
しかし、そこに彼の姿はなかった。
私は自分の本を取り出し、一人で席に座った。
けれど、少しも内容が頭に入ってこない。
カタン、と図書館のどこかで物音がするたびに、彼が来たのではないかと顔を上げてしまう。
もう来ないのだろうか。
そう思うと、胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
昨日、何か一言でも、声をかければよかったのだろうか。
「明日も、ここで会えませんか」と。
いや、そんな勇気、私にはなかった。
居ても立ってもいられなくなった私はシェーズさんを探して図書館内を歩き始めた。
どこにいるという当てもない。
ただ、もう一度、彼の顔が見たかった。
普段は行かない専門書の書架が並ぶ、薄暗いエリア。
古文書学、王家系譜、宮廷儀典……。
難解なタイトルが並ぶ棚を通り過ぎた、その時だった。
一番奥の書架の隅で、床に座り込んでいる人影を見つけた。
一心不乱に本を読んでいる、見慣れた背中。
「シェーズさん……!」
思わず、声が漏れた。
彼はこんな所で何を読んでるんだろう?いつもの席、来なかったから……心配した。
私が声をかけると、彼の肩がびくりと大きく跳ねた。
「チェアリー!?」
文字通り飛び上がらんばかりに驚いた彼は、慌てて読んでいた本を背中に隠そうとする。
その拍子に、本が手から滑り落ち、ぱらりと床に広がった。
そして、私の目に、その本のタイトルが飛び込んできた。
『女性が「キュン」とくるスマートな誘い方101選』
「…………え?」
一瞬、きょとんとした。
次に、じわじわと状況を理解して、自分の顔に熱が集まっていくのが分かった。
シェーズさんは、耳まで真っ赤にして俯いている。
「こ、これは、その……! 歴史的観点から、現代の男女間のコミュニケーション様式をだな……!」
しどろもどろに言い訳をする彼の姿は健気で、あまりにも不器用で。
なんだか私まで恥ずかしくなってくると同時に、どうしようもないくらいの愛しさがこみ上げてきた。
ああ、もう。この人は。
私も混乱しながら、彼の前にしゃがみこんで、その真っ赤な顔を覗き込んだ。
「とても、有意義な本ですね」
精一杯の落ち着きを装って、私は尋ねた。
心臓が、ありえないくらい大きな音を立てている。
「……実践するなら、よろしければ私が、お手伝いしましょうか?」
私の言葉に、シェーズさんは顔を上げた。
その目は潤んでいて、驚きと、ほんの少しの希望の色が浮かんでいた。
数日後、私たちの椅子取りゲームは完全に過去のものとなった。
お気に入りの窓際の席には、隣り合って座る私たちの姿がある。
シェーズさんは、あの日読破した(らしい)本の内容を実践しようと、時々奮闘している。
その結果、週に一度は図書館以外の場所へ出かけるようになった。
まだぎこちないけれど、一歩ずつ、私たちは新しい物語のページを、二人でめくり始めている。