3.手続きに余計な時間を食わされて一回休み
真蔵谷高校での初日は、手続きのオンパレードだった。
フランスから帰国を果たし、日本での学生生活をいよいよ始めようとしていた丈弦禅吉は、全ての手続きを父や母に任せっきりにしていた己の横着さを今更ながら後悔した。
(うぐぐぐ……全然終わってなかった……父ちゃんも母ちゃんも、大概にしてくれよぅ……)
禅吉は幼稚園卒園と同時に、父の海外赴任に従う形でフランスはパリの郊外へと移住した。
それからおよそ十年間、彼はフランスの義務教育課程の中で生活してきた。
そして今年の春先に、父の海外赴任終了と同時に日本へと舞い戻り、帰国子女として私立真蔵谷高等学校への編入となった訳である。
ところがどこかで手違いか人為的ミスがあったのか、始業式当日に足を運んでみると、事務局員からまだ一部の手続きが完了していないとの通達を受けた。
仕方なく、自力で残りの手続きを進める破目に陥った禅吉だったが、当然ながら始業式には遅れるし、更にその後も諸々の段取りの続きが残っている為、遂に教室へ顔を出すことは出来なかった。
始業式では遅れて講堂に辿り着いたため、仕方なく他所のクラスの端っこに席を与えられ、そこで式次第を最後まで終えた禅吉。
(まぁ……自己紹介ぐらいは、また後日でも良いかな)
そんなことを思いつつ、兎に角一連の手続きを全て終えることに専念した。
しかし、更にここで新たな事実が判明した。
どうやらこの真蔵谷高校では帰国子女受け入れの際に、最初の二週間は日本での生活をスムーズに進めてゆく為のオリエンテーションが組まれているとのことで、この期間中も個別に他の教室で専門の担当教諭からみっちり指導を受けることになるのだという。
つまり、彼が本来所属する二年B組に顔を出すことが出来る様になるのは、始業式から二週間後ということになるのだそうな。
(わー、マジか……完全に出遅れモードだ……)
事務局本部で一連の手続きを終え、やっと解放されるとホッとしたところへの追い打ちだった為、これは流石に堪えた。
担当に当たってくれた中年女性の事務局員がお疲れ様でしたと労いの声をかけつつ、その面には気の毒そうな笑みを浮かべていた。
だがこればかりはこの真蔵谷高校を運営する学校法人が決めたことだから、仕方が無いと諦める他は無いだろう。禅吉としては文句をいう訳にもいかず、ただ従うしか無かった。
やれやれと内心でかぶりを振りながら、帰宅の途に就いた禅吉。
ここで、校庭の周辺に並ぶ桜の木を見て、或ることを思い出した。
(そいやぁ……あのお嬢さん、綺麗なひとだったな……)
帰国後、まだ春休みに該当する時期に、禅吉は真蔵谷高校近くの河川敷に桜見物へと足を延ばした。
そこでひとりの女性が、アクセサリーを橋の上から落としそうになっていた。
あの時禅吉は、彼女の余りに絶望的な悲しい表情に衝き動かされ、ほとんど無意識のうちに欄干の上から飛び出していた。
彼が最も自信を持つパルクールの技を駆使し、彼女が本当に大事そうにしていたアクセサリーを救ってみせたのだが、あの笑顔は今でも忘れられない。
実のところ禅吉はパリ在住の十年間で、柔道とパルクールを学んでいた。
引っ込み思案で虚弱体質気味だった禅吉の心身を鍛えるには、柔道がうってつけだろうという勧めもあり、禅吉は何の考えも無く道場に通い始めた。
フランスに於ける柔道の競技人口は80万人に達し、今や日本を遥かに超える程の人気ぶりだ。道場の数もそれに比例して多く見られ、その中から禅吉は自身に最も適したところを見つけられた為、長く続けることが出来た。
更に禅吉はフランス発祥のスポーツであるパルクールにも随分と興味を惹かれ、二足の草鞋という格好でふたつの競技を同時に習得し始めた。
今や彼は柔道とパルクール双方で、フランス国内のアマチュア部門ではそこそこの実力を誇る様になっていたのだが、その知名度も日本ではまるで通用しない。
彼は祖国では全くの無名の存在であり、街中を歩いていても誰からも注目されなかった。もともと凡庸な顔立ちで背も然程に高くないから、目立つところが何ひとつ無かったというのもあるだろう。
それはそれで、禅吉には丁度良かった。
日本の若者文化が全く分からないまま帰国を果たした今、変に目立つのは却って面倒な事態を抱え込みそうな気がしてならなかったのである。
後は如何に静かに、従来と同じ様な生活を維持するかだ。
その中で最も懸念しなければならないのが、パルクールと柔道をどうやって続けていくかであった。
(日本でもパルクールのジムがあるらしいけど、この辺だと、何処かな……)
柔道は既に父の伝手で良い道場を見つけて貰っているが、パルクールはそうあちこちで教えて貰えるものではない為、ジムを見つけるのもひと苦労するだろう。
尤も、彼の場合は基礎は完全に身についているから、近所の公園で自主トレするだけでも全然問題無いのではあるが。
(後は……あー、そうだ。ニッポンのアニメと漫画とゲームも、開拓していきたいな……)
フランスでは日本発のサブカルチャーが大人気で、ジャパンエキスポには毎回足を足を運んでいた禅吉。
その本場である日本国内であれば、もっと色々なものが簡単に手に入る、目にすることが出来るだろう。
真蔵谷高校では正直、まともな友人付き合いなどは全く期待していないのだが、サブカルチャーの方は少しばかり心が浮ついていた。
どんな出会いがあるのか、今から楽しみだった。
そうこうするうちに、真蔵谷高校最寄り駅へと辿り着いた。
禅吉は自転車通学を考えていたが、まだ駐輪場の手続きが終わっていない為、この日からしばらくは電車通学を余儀無くされる。
その時、駅前のカラオケ店から一団の若者集団が出てくるのが見えた。
禅輔と同じ制服を纏っているところから見て、彼ら彼女らも真蔵谷の生徒なのだろう。
「なぁ夢咲ぃ、次行こうぜ、次ぃ」
「えー、ちょっと待ちなって。アンタらさぁ、初日から当たり前の様にワカちゃん連れ回すのやめろよな」
リーダー格っぽい男子生徒に、別の女子生徒が食って掛かっている。
余り仲が良くないのだろうか。
(うわぁ、怖いなぁ……あぁいうひと達とは、関わり合っちゃ駄目だな……)
そんなことを思いながら、禅吉は駅のホームへと続く階段を上っていった。