戌歴九九八年・初冬(五)
宿舎の裏手は浅く広い大穴に飲み込まれていた。
排水に用いられていた川もその一部となり、クレーターの中には川の水が流れ込んでいる。
水が溜まれば池になるであろう大穴の中心で、カイは呆然と立ち尽くしていた。
その隣でアフィーが膝をつき、苦しそうに肩で息をしている。
二人は全身濡れそぼっている。
周囲を見渡すと濡れているのは二人だけでなく、半壊した宿舎も、クレーターのふちで折り重なるようにして倒れている数人の女も、みな一様に、まるで豪雨にでも打たれたかのように水浸しだった。
「カイさん!」
ラウラに呼びかけられて、カイははっと我に返り、狼狽した。
「ラウラ……シェルティ……」
ラウラとシェルティは大穴の中に降り、カイに駆け寄った。
「ご無事ですか?お怪我は?」
「うん、おれは全然平気だ。でも、アフィーが……」
「――――へいき」
カイの言葉に、アフィーは首を振った。
荒い呼吸のまま立ち上がり、一帯の有様を見て、呟いた。
「――――すごい。これで、もう、大丈夫」
アフィーはそう言って、場にそぐわない羨望の眼差しをカイに向ける。
カイはその視線を避けるように俯いた。
「こんなにやるつもりじゃ……」
ラウラはひとまずカイの無事に肩をなでおろした。
一方シェルティは険しい顔つきでカイを問い詰める。
「説明してくれ。なにがあった?これは君がやったのか?」
アフィーは晴れ晴れとした顔で大きく頷く。
「二人で、やった」
「違うんだ……」
カイは弱々しく否定したが、自分たちがいったい何をしてしまったのか理解せず、ただカイと為したこの所業を誇るべきことだと思っていたアフィーは、胸をはって繰り返した。
「わたしと、カイで、やっつけた」
「ちがうって!」
カイは怒鳴る。
アフィーは両目を大きく開き、硬直する。
「これはおれひとりでやったんだ」
カイは顔をあげ弁明する。
「アフィーはなにもしてない。全部おれが一人でやったんだ」
「だが……」
「アフィーから話を聞いたんだ。こいつ、他の候補生にイジメられたんだろ?いやもう、イジメどころか、暴力だろ。犯罪だろ。――――髪切るとか、殴るとか、ありえないだろ。許せないよ。そんなん、絶対。おれら丙級ってバカにされてきたけど、そこまではされてないよ。なんでアフィーだけ――――なんで今まで気づかなかったんだ――――」
「カイさん……」
「だからおれは、報復してやろうと思ったんだ。アフィーに代わって、そいつらをとっちめようと思った。……そんな大それたことをするつもりはなかったんだ。ちょっと、お灸を吸えてやるくらいのつもりだったんだ。それが、なんか、怒ってたからか、ぜんぜんうまく霊操できなくて――――」
カイは自分の両手を見つめる。
「――――いや、むしろ、霊操はうまくできてたかもしれない。おれは、あいつらがアフィーを侮辱したのが許せなくて、こんなやつら、とことん痛い目を見ればいいって思ったから」
カイは怒りに任せて力の制御をしなかった。
例えばこれが現実世界であったのなら、カイがどれだけ怒り狂おうとも、その貧弱な拳で相手を殴りつけるのが精々だ。
しかし今のカイは世界を滅ぼす災嵐に拮抗しうるエネルギーを秘めている。
制御を失えば甚大な被害を出すことは免れないだろう。
「うう……」
クレーターの縁で倒れる候補生が苦しそうにうめく。
カイは倒れる女を横目で一瞥するが、すぐに目を逸らした。
そして両手を握りしめ、覚悟を決めたように言う。
「ラウラ、シェルティ、本当にごめん。責任は、おれ一人でとるから――――とりえず今は、あいつらを助けないと」
シェルティは頷き、カイと共に女たちの方へ向かった。
ラウラはカイに言いたいことがたくさんあった。
けれどすべて飲み込んで、負傷者の救護が優先だと自分に強く言い聞かせる。
「アフィー、動けますか?」
ラウラは硬直したままのアフィーの手を取った。
するとそれまで無表情だったアフィーの顔が歪む。
「ぐ……」
アフィーは小さな苦痛の叫びを漏らすと、その場にひざをついた。
「……え?」
ラウラは熱く湿ったアフィーの掌を開く。
アフィーの手は掌から手首にかけてひどく焼け爛れ、うっすらと血が滲んでいた。
「これは……」
ラウラはアフィーがそのまま倒れてしまわないよう支えながら、もう片方の手を取って見る。
手はやはり同じように焼け爛れている。
「……痛い」
アフィーがくぐもった声を漏らす。
その額には汗が浮かび、呼吸は荒い。
ラウラはそこではじめて、アフィーはただ濡れそぼっていたわけではなく、自身の汗で濡れていたのだということに気づく。
「アフィー、この傷は?まさかこれも、彼女たちに?」
アフィーは首をふって否定する。
「では、こんなひどい怪我、どうして――――」
「カイから、霊力、もらったから」
「――――え?」
ラウラは全身から血の気が引いていくのを感じた。
「カイさん、まさか、アフィーに注霊を?!」
「注霊?」
尋常ならざる様子のラウラと、はじめて耳にする用語に、カイは困惑する。
「わたしは、カイから、霊摂した」
アフィーは繰り返し呟いた。
その目は焦点を失っている。
だらりと力の抜けた両手は大きく震え、全身からとめどなく汗が噴き出している。
ラウラはそんなアフィーの様子を見て、二人がなにをしたのか悟った。
アフィーは嘘をついていない。
ただ認識に誤りがあった。
人間を含む動物は基本的に霊摂の対象とされない。
第一に、それを行った場合、霊摂の対象に命の保証はないからだ。
体内の霊力が一定量を下回ると、その生物は死に至る。
水や風、土からでも霊力を得ることのできる中で、それこそ対象を殺す目的でもない限り、あえて動物から霊摂をする人間はいない。
そして次に、動物からの霊摂は自然や植物と比べて圧倒的に難しいからだ。
動物の体内を循環する霊力はその配列が複雑で、かつ結びつきも強い。その配列を崩し、並べ替え、自らの霊力に置き換えるのは至難の業だ。
特に人間からの霊摂は、よほど熟達した霊師でもない限り、まず不可能な芸当といっていい。
(それを、アフィーさんがしたとは、思えない)
(それに、この傷――――)
爛れたアフィーの掌を見て、ラウラは確信する。
(カイさんはさっき怒りで制御を失ったって言ってた)
(もし、制御を失った結果、無意識でアフィーさんに霊を送り込んでしまったとしたら――――)
ラウラは思わず息を飲む。
(アフィーさんは霊摂をしたんじゃない)
(カイさんに、注霊されたんだ)
霊具に霊力をこめるように、カイは無意識のうちに、アフィーに霊力を注ぎ込んでしまったのだ。
人から人への霊力の注入。
それは技師たちの間で禁忌とされる行為だった。
肉体は異なる配列の霊力を拒絶する。
肉体の拒絶反応によって、注霊部位は火傷のような症状を引き起こす。
注霊とは最悪の場合死に至る、危険な行為であった。
アフィーの肉体も、カイの膨大な霊力を処理しきることができず、掌はただれ、血圧が急上昇してしまっていた。
アフィーの肉体は、破裂寸前だった。
(ど、どうしよう……)
ラウラは狼狽する。
注霊についての知識は持っていたが、その対処方はわからなかった。
「う……」
ついにアフィーは意識を失ってしまう。
「アフィー!」
カイは慌ててアフィーを支え、ラウラに助けを求める。
「ラウラ!どうしよう、アフィーが……!なんで……?どうしたらいい?!」
ラウラはなにも答えることができない。
カイと同じように、狼狽し、誰かに助けを求めることしかできなかった。
(どうしよう……どうすれば……)
(誰か助けて)
(お兄ちゃん――――!)
「いたぞ!」
そのとき、事態を知った教官たちがノヴァを伴って宿舎裏にやってきた。
「ラウラ!」
ノヴァはクレーターの中にラウラの姿を認めると、教官たちを押しのけて中に飛び降りた。
クレーターには汚水が溜まり始めていたが、ノヴァは気にせず、脛にかかる水を蹴り上げるようにして、ラウラのもとに飛んできた。
「無事か!?」
ラウラは頷き、ノヴァにアフィーの両手を見せた。
「まさか、注霊痕か?」
ラウラは涙目になって、ノヴァに縋る。
「どうしたら――――アフィーさんは、このままでは――――」
ノヴァはアフィーの手をとり、注霊痕の具合を確かめた。
「浅い」
ノヴァは険しい表情でラウラに問う。
「この者は、アフィー・サルクだな?丙級の中でも指折りの、霊力量の多い候補生で間違いないか?」
「は、はい」
ラウラは瞠目し、頷いた。
受け持ちでもない候補生の情報を、顔を一目見ただけで、ノヴァが言い当てたからだ。
「であれば――――」
ノヴァはもう一度アフィーの手を観察し、それから安心させるように、ラウラに微笑みかけた。
「大丈夫だ。確かにこれは注霊痕には間違いないが、かなり軽度のものだ。おそらく本人の許容限界をわずかに越えた程度の注霊で収まったのだろう。命に別状はない」
ラウラはその場にへたりこんだ。
汚水は刺すように冷たかったが、安堵で痛みなどまるで感じなかった。
「よかった……」
涙を浮かべるラウラに、安心するのはまだはやい、とノヴァは言い足した。
「外傷としてはかなり重度のものだ。すぐに処置をする必要がある」
ラウラははっとして涙を拭き取り、処置の方法を尋ねる。
「火傷の処置と同様だ。清潔な冷水に十分な時間晒してから、包帯で保護するといい。――――重ねて聞くが、きみ自身は、無事なんだな?」
「はい、なんともありません」
ノヴァは小さく息を吐き、クレーター外にいる教官たちに負傷者の救護を最優先するよう指示を出した。
それからシェルティとカイを呼び寄せ、アフィーとラウラと共に住居に戻るよう言った。
「僕はしばらくここを離れられないが、遅くとも夜が明けるまでには一度訪ねる。それまでそこを動かないでくれ」
「アフィーは医者に診せなきゃダメだろ」
カイは言ったが、ノヴァは厳しい顔つきで首を振る。
「いや……この騒動の発端は、君なんだろう?」
ノヴァに問われ、カイは言葉に詰まる。
それを肯定だと受け取ったノヴァは、眉間に寄せる皺を深くしてため息をついた。
「厄介な状況だ。うまく誤魔化せればいいが――――とにかく君たちは大人しくしていてくれ」




