戌歴九九八年・春(八)
〇
その日、ラウラは遅くまで自身の霊操の修練に励んでいた。
霊操は、あらゆる技芸がそうであるように、日々の積み重ねによって練磨されていくものだ。
ラウラは齢十三歳にして、霊操の技術だけでいえば、この世界で十指に入るであろう。
すでに限界まで磨き上げられているといってもいいほどだが、ラウラは慢心することなく、日々の修練を怠らなかった。
その弛まぬ努力が、彼女に天才という呼び名を与え、暗闇で針に糸を通すような卓越した霊操を可能とした。
しかしカイの側付きになってからというもの、自身の修練に割く時間はほとんどなくなってしまっていた。
最近になってようやく、カイの接待を目的とした会食が無くなったため、夜間だけはどうにか時間を作れるようになったところだった。
は鈍った感覚を取り戻すため、ここ数日はカイの修練を終えるとすぐ鐘塔の地下にある修練場に入り、夜遅くまで自身の修練に取り組んでいた。
(今日は集中できたな)
鐘塔と官公庁を結ぶ橋の上を歩きながら、ラウラは欠伸を噛み殺し、目元をこすった。
(でも、遅くなっちゃった)
ラウラは環濠に映る三日月の位置を見て、いつの間にか日付を跨いでいたことに気付いた。
朝廷は二つの建物と二つの環濠からなる。
中心には地上六五メートルの鐘塔が建つ。
鐘塔は皇居であり、主である皇帝と皇子の他は、ごく限られた官吏と技師のみが立ち入ることを許されている。
塔の最上部は四方をアーチ状にくりぬかれているが、そこに鐘はなく、もっぱら儀礼用にのみ用いられる見晴台となっていた。
鐘塔の地下には霊石で囲まれた広大な地下空間がある。これは東西南北、四つある大霊堂に次ぐ中央霊堂だった。
霊を多分に含み、通常の物質よりも霊的な刺激、圧力に耐性を持つ大理石で囲われた霊堂は、技師の修練の場として、あるいは霊術の実験場として用いられている。
皇居と霊堂を兼ねた鐘塔は、石造りの水路、環濠によって囲まれている。環濠には南西と北東、二か所橋が渡されており、南西の橋は政務の場である主殿に、北東の橋は住居である寝殿に結ばれている。
環濠の外側には官公庁が立ち並んでいる。
官公庁は鐘塔を囲う環濠をさらに囲う、石造りの平屋の建物群だ。
そしてその官公庁を、さらに環濠が囲っている。
鐘塔、内環濠、官公庁、外環濠。鐘塔を囲う二つの環濠と官公庁が、エレヴァンの行政を担う中央機関、朝廷だった。
官公庁にはまだいくつか明かりの漏れている場所もあるが、ほとんどは暗く静まり返っている。
建物群の内外には通路として広びろとした回廊が設けられており、日中は絶えず人が行き交っているが、現在は巡回の警吏がまばらに見えるばかりだった。
ラウラは官公庁を抜け、外側の回廊へ出る。
冷えた夜風が頬を撫で、長く編んだ髪を靡かせる。
朝廷の縁にあたる外環濠は、幅約二百メートル、外周四キロに及ぶ巨大な掘割だった。
ここにも北東、西南にそれぞれ大橋が架けられているが、日没後は閉鎖されてしまうため、夜間の行き来は渡し舟を使わなければならない。
ラウラは環濠沿いに建つ官舎に向かうため、渡し場で舟に乗った。
(あれ?)
ラウラの乗った船が動き出すとすぐに、対岸にあった渡し舟も動き出した。
「こんな時間に、帰る人じゃなくて、渡ってくる人がいるなんて、珍しいですね」
ラウラが船頭に声をかけると、ああ、運がないなと船頭は独り言ちた。
「はい?」
「いや、なんでもございませんよ」
船頭はそう答えたきり、口を閉ざしてしまう。
ラウラは訝しんで、対岸から向かってくる舟に目を凝らした。
「あれ?」
ラウラは驚きの声をあげる。
「閣下?」
声をかけられてようやくラウラに気付いたカイは、しまった、と言わんばかりの焦りを顔に浮かべる。
ラウラは二人の船頭に舟を止めるよう声をかける。
二つの舟は環濠のちょうど真ん中で並ぶ。
ラウラは船灯のもとであらためてカイの姿を確認すると、矢継ぎ早に訊ねた。
「閣下、どうして外に?どちらへ?お出かけの予定なんてありませんでしたよね?」
「いやその……」
カイは視線をさまよわせながら、答える。
「ね、ねれなくて……散歩でもしようかなと……」
「わざわざ外まで?」
「し、寝殿の中は暗いしさ。あんまうろちょろすると怒られそうだし、庁舎の方もすれ違う人に白い眼向けられるしさ……だから外に……ね?」
カイは明らかに動揺している。
ラウラがその下手な言い訳で納得するはずもなく、驚きは疑いの眼差しに変わってしまう。
「どこかにお出かけだったんですか?」
「ま、まさか……おれひとりでこんな夜にどっかに行けるわけないよ、うん。君こそこんな遅くまで仕事?大変だね、無理しないで。はやく休もう。おれももう寝るから。じゃあお休み!」
カイは早口で言うと、お願いします、と船頭を促した。
すれ違いざまに、覚えのない強い香のかおりが、ラウラの鼻をついた。
ラウラは確信する。
「……カイさんが外に出たのはいつ頃ですか?」
ラウラは船頭を問い詰める。
船頭は肩をすくめるだけで答えない。
「もしかして、口止めをされているんですか?」
船頭はこれにも答えず、黙って舟を漕ぎだした。
ラウラはため息をつき、遠ざかっていくカイの乗った舟を見た。
夜遅くなったとはいえ、それまでラウラにあった疲れと眠気は心地の良いものだった。
集中して修練に打ち込めたので、達成感に満ちていた。
しかしそれらはこの一瞬で、肩に重くのしかかる疲労へと変わってしまった。
〇
ラウラは翌日、カイを問い詰めた。
しかしカイは話をはぐらかすばかりで、なかなか白状しようとはしなかった。
ラウラは矛先を変え、侍女を問いただした。
船頭と同じように、カイに口止めをされている二人は、はじめは渋っていたが、特に金品を受け取ったわけでも、なにか脅しを受けたわけでもなかったため、ほどなくして口を割った。
実のところ、誰かに言いふらしたくて仕方なかったのだ。
「閣下には秘密にしてくださるんですよね?」
「少なくともお二人の口から聞いたということは言いません」
「なら……まあ……仕方ないですね」
その日の深夜、外から帰ってきたカイを、ラウラは寝所で出迎えた。
「お話があります」
ラウラは開口一番に言った。
カイはたじろいだが、昨日の今日で上手い言い訳が思い浮かぶはずもなく、観念して両手をあげた。
「ごめん」
「謝らないでください。理由を聞きたいのです」
「それは……先にこっちが聞いてもいい?君はどこまで知ってるの?」
「閣下はここ五日ほど、外城の春宿へ通っていますね。侍女を通して、以前宴席に招かれた商家の主人の手を借り、馬車を仕立ててもらって。それも私や周囲の人間に見つからないよう、入念な口止めと人払いまでして」
「たった一日で全部お見通しとは……恐れ入りました……」
カイは笑って見せたが、ラウラの表情は険しいままだ。
「なぜ、春宿に?」
「それは……」
カイは笑顔を引きつらせながら答える。
「えっと、それは……気になる人がいてね……?その人に会いにいっていたと言いますか……」
ラウラは諭すような優しい口調で言う。
「閣下、ご存じだとは思いますが、彼女たちは、あそこで商売をしているのです」
「う……それは、もちろん……」
「その子は閣下の話を楽しく聞いてくれたかもしれません。閣下のために歌ったり、踊ったりしてくれたかもしれません。けれどそれは、お金のためです。閣下のためではありません。出過ぎたことをいうようですが――――その懸想は、不毛ですよ」
「ちょ、ちょ、ちょっとまって!君はあれか?おれが女の子に惚れて、その子に入れこんで通ってると思ってるのか?」
「ご自分でそうおっしゃったんじゃないですか」
「そういう意味じゃなかったんだけど……いやそうとられるのがふつうか……」
カイはその場にへたり込む。
「自分で選んだこととはいえ……そうだよね、君だけじゃなくて周りの人たちみんなそう思ってるよね……?最悪だ……おれとんだ色ボケ野郎ってことになってんのか……」
ラウラはカイを労わるように隣にしゃがみ込み、その肩をそっと支えた。
「大丈夫ですよ。お相手は商売かもしれませんが、閣下がその方へ向けた真心は本物です。なにも恥じることはありません」
「いや現在この状況が一番恥なんだけど……」
カイはますます肩を落とす。
十三歳の少女に励まされているという状態も、娼妓への付き合い方を諭されたことも、なにもかもがカイの胸には深く突き刺さった。
それでもなお、カイは、本当のことを言うわけにはいかなかった。
落ち込むカイを寝台に座らせたラウラは、その正面に立ち、わずかに俯いて言った。
「どうかお願いがあります。私は、閣下がなにをなさろうと、咎めるつもりはありません。お金も、限度はありますが、自由に使っていただいてかまいせん。こちらが閣下の力を必要とし、無理やりお招きした以上、どのような望みも叶えてさしあげる所存です。けれど、今回のように、隠すことだけは、やめてくれませんか」
ラウラの懇願に、カイは答えることができない。
ラウラは言葉を重ねる。
「閣下から見て、私はまだ子どもで、そういう、とくに情事に関わるような相談は抵抗があるかもしれませんが、閣下の身になにかあってからでは遅いのです。それはただ、閣下が災嵐を回避するために必要だからというだけではありません。私たちは、閣下を異世界から拉致してきました。その罪は今後一生消えることがないでしょう。そのせめてもの償いとして、その身の安全は確実に保証しなければなりません。これは私の責務です。果たさなければならない使命です。だから、どうか――――」
ラウラはカイの前に跪く。
「なにかあったら、まず私に相談していただけませんか。私を、頼っていただけませんか」
カイは慌ててベッドからおり、ラウラの肩を支え、顔をあげさせる。
「そんなふうに振る舞わないでくれよ、悪いのはおれなのに……」
カイはラウラをベッドに座らせる。自分もその横に腰かけると、もう一度心をこめて謝罪した。
「ごめん」
「……いえ、謝られるようなことは、なにも」
「いいや。おれは君に不誠実だった。だから謝らせてほしい、ごめん」
カイは頭を下げ、ラウラの懇願を受け入れた。
カイにはラウラの思いが十分伝わっていた。
生真面目で、自らの責務に忠実で、カイの身を誰よりも案じている。
かといって甘やかすばかりではなく、カイを一人の人間として尊重し、向き合おうとしている。
カイは人からこのような誠意を向けられたのは初めてだった。
だからこそ、自分も誠意を見せなければならないと思った。
「君に迷惑をかけたくなかったんだ。でも違った。黙ってる方が君にはよっぽど迷惑だね。たしかにおれが君の知らないところでやらかしても、責任を追及されるのは君だ。それは考えが足りなかったよ」
「いえ、私は……」
「わかってる。君は自分の保身なんて少しも考えていない。でもだからこそ、君がおれの身を案じてくれてるように、おれもきみの身を案じることにしようと思う。これからは」
「閣下……」
カイはラウラに手を差し出す。
「これからは、なにがあっても、おれは君に助けを求めるよ。だから君も、なにかあったらおれを頼ってくれ。……なんてかっこつけて、いまのおれじゃなんも力になれないんだけどね」
「そんなことありません」
ラウラは言って、カイの手を握る。
「ありがとうございます」
「あらためてよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」




