悲しい絶景
食事を終えたカイを、シェルティは抱きかかえて礼拝堂の外に連れ出した。
カイは最初自らの脚で歩こうと抵抗したが、脚にはやはり力が入らず、諦めて身を任せた。
(だんだん申し訳なくなってきた)
(あなたが抱えているのは可憐な美少女の見た目をしていますが成人男性です!って声を大にして叫びたい)
(お気づきではないかもしれませんが、イケメンよ、いまあんたが繰り広げているのはヒロインをお姫様抱っこするという少女漫画的王道シチュエーションではなく――――なんだ、その――――どちらかといえばBL的なあれだぞ)
(いいのか?)
(よくないよな?)
シェルティは細身だが、カイを抱きかかえる腕は安定している。
歩調も一定で、カイはまるで揺りかごに身を預けているような心地だった。
(すごいな。これはイケメンのなせる技なのか?それともさっきやってた霊なんちゃらの力なのか?)
(まあどっちにしても、こいつ細いのにいい身体してるな)
(おれの今の身体が小さくて柔らかいから、よけいそう感じるんだろうけど、筋肉とか、絶対前のおれよりあるよな)
(おまけになんかすごいいい匂いするし……)
(……)
(なんか、安定感はあるけど、落ち着かないな)
カイは頭を抱え、心の中で叫ぶ。
(――――ってなに考えてるんだおれ!)
(女子か!いやいま身体は女子だけど!!概念的にはBLだから!!)
「どうかした?」
シェルティは立ち止まり、心配そうにカイの顔を覗き込む。
(うわあ!どうしていちいち近いんだ!勘弁してくれ!!)
カイはシェルティの顔を遠ざけるよう両手を振る。
「なんでもない、なんでもない!それより聞きたいことが――――」
シェルティはふっと小さく笑うと、再び歩み始める。
礼拝堂の外は、古代の神殿を思わせる、荘厳な石造りの、長い廊下が続いていた。しかしところどころひびが入り、場所によっては大きく崩れ、外の景色が見えてしまっている。
どこまでも広がる草原と、白い山麓、そして抜けるような青空が。
「きみはもともとこの世界の人間じゃない」
シェルティは静かな声で言った。
「この世界の人間が、きみの魂をその身体に呼んだんだ。きみがこちらにきて、もう八年になる」
「八年!?」
「うん。きみが失った記憶というのは、こちらにきてから八年間の記憶のことなんだ。――――より正確にいえば、失われたのは三年分なんだけど」
「……えっと、つまり?」
「きみは八年前にこの世界にやってきて、三年間、ここで生活を送った。けれど……いろいろあってね。そのあと五年間は寝たきりだったんだ」
「どうして五年も――――」
シェルティは柔和な微笑みのまま、いろいろあったんだ、と繰り返す。
「でもそれは話すと、とても長くなってしまうから、いまはとりあえず保留にしておいて」
「いや、でも――――」
「身体、うまく動かせないだろう?五年も寝たきりだったから、弱っているんだ。それに記憶を失くしているから、その身丈にもまた不慣れになってしまっただろう。……以前、こちらにきたばかりの頃のきみも、身体の大きさが変わったことにずいぶん戸惑っているようだった。しょっちゅう躓いていたし、あちらこちらに頭をぶつけていたよ。慣れるまでにずいぶんかかったようだったから、今回も、苦労することだろう。……だから、今は、失った体力と身体感覚、それに霊感を取り戻すことに集中するべきだと思うんだ」
諭すようなシェルティのものいいに、しかし疑問の尽きないカイは納得せず、なおもくい下がろうとする。
「そうは言っても――――っ!」
そのとき、風がカイの全身を撫でた。
心地いい、春の風だ。
カイはシェルティに向けていた視線を前方に向ける。
いつの間にか二人は建物の外に出ていた。
崩れかけ、草花が繁茂する長く巨大な外階段の先に、ゆるやかなに隆起する草原が広がっている。
「うわ……」
カイの頭をにあった不安や疑問は、その光景を目にした途端吹き飛んでしまう。
見たこともない絶景だった。
見渡す限り、輝くような新緑の中を、真珠色の角をもった獣が群れをなして駆けている。
遠くに見える湖は宝石のように輝き、それを取り囲む花畑は色とりどりの花弁を春風の中で躍らせている。
地平線の先、空と大地の境界には壁のように白い山脈が連なっている。
そして空には、太陽の他に二重の黒円が浮かんでいた。
ぽっかりと、まるで空を切り抜いたかのように、一切の光を通さない暗闇が、空のちょうど真ん中にぴたりと張り付いていた。
(なんだろ、あれ……)
カイは疑問を抱いたが、それはすぐ意識の外へ滑り落ちていった。
天体でも、飛行物体でもないその不気味な黒円の存在を、カイはすぐに背景の一部として受け入れた。
そこにあって当然のもの、として。
カイの意識はすぐ空から目の前の絶景へと戻される。
そこは豊かな自然に囲まれた高原の地だった。
「記憶をなくす前のきみはこの風景をとても気に入っていたんだ」
絶景を前に言葉を失くすカイに、シェルティは問う。
「いまのきみの目から見て、どうだい?」
カイは目を輝かせて答える。
「どうって……すごいよ!」
でも、とカイは急に声を弱らせる。
異世界の絶景を前に、胸は高鳴っているが、同時に強く締め付けられるような感覚を覚えたのだ。
「なんでだろう……泣きそうだ。初めて見るのに……」
カイのその言葉を聞いて、シェルティはびくりと身体を震わせる。
「懐かしい……っていうより、悲しいって思うのは、なんでだろう……」
カイはシェルティの変化に気づかず、ただ呟いた。
突如として湧き出た哀切を噛みしめながら、確信した。
(おれは本当に記憶がないんだ)
カイは涙が浮かぶ瞳をシェルティに向ける。
シェルティは変わらぬ微笑を讃えているが、ほんのかすかに、口元を強張らせていた。
「あの――――」
二人がなにか言おうと同時に口を開いた瞬間、遠くから、カイの名を呼ぶ声が響いた。