見送る者と見届ける者
○
「――――おい、聞こえてるか?」
呼びかけられて、ノヴァの意識は覚醒する。
「起きろよ」
自分に声をかけているのが誰なのか、ノヴァはわかっていた。
「悲願のときが、きたぜ」
悲願がなにを差すのかも、ノヴァはわかっていた。
けれど両目を覆う手を下ろすことは出来ない。
自らの過去を、失った十二年分の記憶を観終えたばかりのノヴァは、すぐに現実に戻ることができなかった。
記憶を通して、さまざまな感情の奔流を目の当たりにしたノヴァは、ただ呆然とするばかりだった。
記憶を取り戻してなお、目の前の現実を受け入れることができなかった。
自分がはじめたこの悲惨な戦い、その行方に、目を向けることができなかった。
「起きろって」
そんなノヴァの内心など露とも知らず、ディンゴはノヴァを揺すぶった。
「はやくしねーと、オレがやっちまうぞ」
そう言われて、ノヴァはようやく目を開けた。
目の前には、自分を覗き込むディンゴの顔があった。
その後ろには、カイがいた。
アフィーを人質にとるブリアードの姿もあった。
ノヴァは状況を察した。
ディンゴは爆袋を握っている。ノヴァが記憶を手繰っている間に、形勢は逆転していたのだ。
しかしノヴァは、この状況に対して、どのような反応を示すこともできなかった。
喜びも、悲しみもない。
ノヴァの心は凪いでいた。
あれほどあった憎しみは、怒りは、激情は、記憶と共に打ち消されてしまったらしい。
そしてそれらの感情は、いくら脳を刺激しても、取り戻すことは出来なかった。
いまの彼にあるのは、明確な、ただひとつの使命だけだった。
「どうした?頭でも打っちまったのか?」
ノヴァの異変に気付いたディンゴは、カイに詰め寄り、彼の身になにが起こったのかを問いただした。
カイは白状した。
ノヴァとマヨルカの記憶を消したことを。
ディンゴは激昂した。
「ふざけんな――――憎まれるのが嫌だから、全部、なかったことにしたってか?……ふざけるなよ。何様だよ。てめえに、なんの権利があって、そんなことができんだよ」
「憎しみだって、こいつの、一部だった!」
「オレの知っている、ノヴァを、マヨルカを……てめえへの、復讐のために生きてた二人を、否定すんじゃねえよ!」
「なかったことに、すんじゃねえよ!」
ディンゴの怒りは本物だった。
彼がこの戦いに参加した目的はレオンだった。たった一人の同族であり、一族の仇でもある男との邂逅だけが、ディンゴの望みだった。
ディンゴはこのときまで、カイに憎しみなど抱いていなかった。
それが一片、彼はカイへの怒りのために、全身の血を煮えたぎらせていた。
鋭利で獰猛な、純然な殺意をカイに向けていた。
それはノヴァとマヨルカを失った悲しみから生まれた憎悪だった。
(いけない)
凪いでいたノヴァの心が、揺らぐ。
(彼を、止めなければ)
自らに課した使命を果たすためだけではない。
自分のために、彼の手を汚させてはならない。
しかしノヴァがその思いを口にするよりも早く、ディンゴは言った。
「安心しろ。――――お前らが忘れても、おれは覚えてる」
ノヴァは反射的にカイに飛びかかった。
動かすどころか、感覚さえ不確かだった身体に、一瞬で力を漲らせ、閃光のように走らせた。
「お前らの復讐は、おれが果たしてやるからな」
ディンゴは瀑袋をカイに投げつける。
それよりもはやく、ノヴァはカイの前に躍り出た。
同時に、同じく瀕死だったはずのマヨルカも、カイの前に盾となって塞がる。
爆袋は、マヨルカの肩にあたって爆発した。
マヨルカとノヴァは、半身を火に覆われた。
「ノヴァ!!」
カイは悲鳴をあげ、ノヴァの身体を抱き返す。
その身を押し付けることで、ノヴァの身体の火を消そうとする。
(やめろ!)
ノヴァは灼熱と激痛で朦朧としながら、心中でカイを怒鳴りつけた。
(その身体に傷をつけるな!)
やがて火は消し止められた。
ノヴァの上半身のほとんどと、顔のすべてを焼かれてしまった。
鮮やかな朱色に変色した顔に、もとの精悍な面影はない。
おぞましいほど醜く、痛々しく変わり果てたノヴァを見て、カイは子どものように泣きじゃくった。
それ以上開くことも、ぴたりと閉じ合わせることもできなくなった細い目で、ノヴァはカイを見つめた。
カイの服は焼け焦げ、露出した胸元は赤く腫れていた。
「……ラ、ウラ」
ノヴァは声を絞り出して詫びる。
「すまない……」
君の身体を傷つけてしまった、と、最期まで言葉にすることはできなかった。
喉からはひゅうひゅうと苦し気な息が洩れるだけだ。
「ちがう!」
そんなノヴァに縋りついて、カイは泣き叫ぶ。
「ちがう、ちがうんだ!おれは、ラウラじゃ――――」
(そんなことは、わかっている)
ノヴァはカイを哀れに思った。
誤解を正してやりたいと思った。
けれどノヴァにはもはや、それを伝える手段はない。
一呼吸ごとに、唇に、喉に、引き裂かれるような痛みが走る。
声を出すことは、もうかなわない。
「なんでこんなことに――――」
(そうだな)
ノヴァはカイの嘆きに同意する。
(どうして、こうなってしまったんだろうな)
過去を観ながら、ノヴァはずっと考えていた。
何が間違ったのか。
どうすればよかったのか。
仮定はいくらでもできた。けれどついに答えを導き出すことは出来なかった。
答えを出すことができたとしても、証明することは、やり直すことは出来ない。
結果は変わらないのだ。
変えられるのは、未来だけなのだ。
(僕がこれからしようとしていることは、どうだろうか)
ノヴァは自問する。
(正しいだろうか、誤りだろうか)
(……)
(考えるまでもない)
(わかってる)
(こんなことをしても、なんにもならない)
(でも)
(それでも僕は――――)
谷間に、銀色の光が弾けた。
視力をほとんど失ったノヴァでもわかるほど、それは強烈な光だった。
「行くぞ」
傍にいたはずのカイは、いつの間にかいなくなっていた。
代わりに、光りを背負ったディンゴが、ノヴァの前に立っていた。
(ディンゴ……)
ディンゴは、ノヴァに手を伸ばした。
ノヴァはなけなしの力を振り絞って、それを振り払った。
(僕は、行けない)
ノヴァの意志を察したディンゴは、深く傷ついた表情で、ノヴァを罵った。
ノヴァもまた、そんなディンゴの顔を見て、胸が張り裂けそうになる。
火傷忘れるほどの痛みだ。息ができないほどの苦しみだ。
それでもノヴァはディンゴの手を取ることは出来なかった。
ディンゴとマヨルカ、二人と共に逃げ出すことはできなかった。
「――――まあ、そりゃいまのお前からすりゃ、おれは敵だからな」
(違う)
ノヴァは視線でディンゴに訴えた。
(ディンゴ、僕は知っている)
(君のことを、忘れてなんか、いない)
(君は、敵じゃない)
(君は――――)
ぼやけた視界では、すぐ目の前にあるはずのディンゴの顔さえ判然としない。
けれどその瞳の輝きは、曇天を写し取ったような銀色の輝きは、しっかりと捉えている。
(僕は行けない)
ノヴァは目で語りかける。
(君は、行くんだ。マヨルカと)
ノヴァは影に手を伸ばし、指先で触れる。
銀色の輝きの縁をなぞり、頬を撫で、首筋をつかむ。
そしてディンゴの首から冠を取り外す。
荊を編んだような見た目に反して、冠は柔らかく、ただ手に持っただけでは皮膚を破るようなことはない。
けれど数年身につけ続けていたディンゴの首筋には、荊に穿たれた痕がくっきりと残っていた。
冠はそのままディンゴの足元に落ちる。
(君は、自由だ)
「……は?」
(僕も一緒に行けたらよかった)
「ノヴァ、お前……」
(でも、僕はこういうふうにしか生きられないんだ)
「……そうかよ」
(そうなんだ)
「……それでいいのかよ、本当に」
(いいんだ、これで)
「……それがお前の生き方か」
(すまない、ありがとう)
「……ならよお、ちゃんと全部焼き尽くせよ」
(ああ、きっと)
「……空で」
(ああ、また)
ディンゴはノヴァを残し、マヨルカと共に飛び去っていった。
ノヴァは悟っていた。
自分がほどなく死ぬということを。
それでも諦めていなかった。
奇跡を願い続けていた。
(エレヴァンある全ての霊よ)
(もし僕のこれまでのラサとしての働きを、少しでも評価されているのなら)
(どうかほんの少しだけ、力を貸してください)
(これまで僕はあなた方のために、あなた方の子々孫々ための、尽くしてきました)
(それに、どうか、報いてください)
(あとほんの少しだけ、僕を生かしてください)
(どうか――――)
ノヴァの願い聞き入れられたのかはわからない。
しかし運命はノヴァに味方した。
カイは仲間を救うために、光雨を降らせた。
それにより、ノヴァの傷は癒やされた。
風前の灯火であった命が、今再び燃え上がる。
「――――ノヴァ」
ノヴァは胸に温かさを感じ、手を重ねた。
ノヴァの胸に置かれたのは、カイの、小さな手だった。
義指である左の小指と薬指だけは冷たく石のようだが、それ以外の部分は、まるでそれ自体がひとつの生き物であるかのように息づいている。
野花を撫でるように、蝶を包むように、ノヴァはカイの手を握りしめる。
(カイ――――)
ノヴァは霊操する。
(――――返してもらうぞ)
全身の表装に、霊力を巡らせる。
誰にも気づかれないように、そっと、身体に編まれた霊術を発動させる。
カイはもちろん、この場にいる誰か一人にでも勘づかれれば、彼の目論見は失敗する。
誰にも気づかれないうち、ノヴァは全てを終わらせなければならならなかった。
カイの手を握ったまま、動かず、移行を待つ。
それは無謀な行為だった。
成功の見込みはなかった。
シェルティたち三人がすぐそばにいるこの状況で、霊術を発動させることは、鷹が目を光らせている前で兎が跳ねるようなものだった。
もし霊術が失敗し、思惑が露見すれば、シェルティたちはノヴァを二度とカイに近づけないだろう。
それでもノヴァは賭けに出た。
ノヴァはもうこれ以上、待つことはできなかった。耐えることはできなかった。
今日で終わらせる以外の選択肢はなかった。
そんなノヴァに、運命はまたしても味方した。
カイを含め、その場にいる全員の意識が、ブリアードに集中したのだ。
「彼らが本当に憎むべきは、きっと私でした。――――私は彼らを、助けてあげたかったんです」
ブリアードの語る今際の懺悔に気を取られ、その場に釘付けにされていた。
誰もノヴァに注意を払わなかった。
(……カイ)
ノヴァは身体の感覚を失っていく。
(カイ)
カイと繋いだ手の感覚だけが、いつまでも鮮明に残る。
(カイ!)
ノヴァはカイの名を呼ぶ。
届かないとわかっていながら、何度も、何度も、何度も、呼び続ける。
まるで気付けと言わんばかりに。
「ノヴァ様は、いくら憎かろうとも、復讐はひとりでするべきでした」
ブリアードの悔恨は、一向に終わりを見せない。
やがて繋いだ手の感覚も曖昧になり、ノヴァにはもはや、カイと自分の境さえわからなくなる。
それはカイも同然のはずだった。
しかしカイは一向に気づかない。
「どうか彼らを、許してやってください」
カイはブリアード・ダルマチアの悔恨を、一心に受け止め続けていた。
誰も救うことができなかったと、状況を悪くしただけだったと、悪いのはノヴァでも彼らでもなく自分なのだと、あまりにも痛々しいその自責に、カイはついに堪えきれなくなり、声をあげた。
「違う!――――貴方は――――っ!」
続く言葉はなかった。
カイはそこで、ようやく気がついた。
身体の感覚が、失われつつあるということに。
手を握るノヴァが、自分を一心に見つめているということに。