「それは私の幸せではない」
○○○
災嵐から、五年が経過していた。
ノヴァはラウラが目覚めたという事実を、公表しなかった。
ラウラを含む四人、カイと近しかった者たちが西方霊堂を占拠していることは、公然の事実だった。
ノヴァがラウラの療養のために、西方霊堂の占拠を黙認していることも。
ラウラの回復を明かせば、根強く残るブリアードの一派が行動にでることは間違いなかった。
ノヴァはそのため、ラウラの回復を伏せた。
実際に様子を見に行ったサミー・ダルマチアを口止めし、彼女以外の誰一人にラウラの回復を知らせなかった。
自身も、見舞いに行くことはなかった。
ラウラの回復を伏せておくために、というのが建前だったが、その実、恐れていたのだ。
記憶を失くしたラウラに会うことを。
「ラウラさんに会いに行かないのですか?」
そうノヴァに訊ねたのは、サミー・ダルマチアだった。
災嵐以後、家伝の操身霊術と馬術を買われたサミーは、彼の補佐官として各地を走り回る様になっていた。
ノヴァがラウラを見舞わなくなってからの数年は、西方霊堂とのやりとりも、ほとんどサミーを介して行われるようになっており、ラウラ回復の一報をノヴァに届けたのも、サミーだった。
サミーはノヴァがすぐさまラウラのもとへ向かうだろうと思っていた。
ノヴァがラウラを特別視していることは、周知の事実だったからだ。
公明正大であろうとする皇帝が、長期にわたる西方霊堂の占拠を黙認する理由は、ひとえにそこで療養するラウラ・カナリアのためであることは、彼に近い官吏や技師は誰もが承知していた。
サミーもその例外ではなく、それどころか、伝令役として西方霊堂へ出向いていた彼女は、人一倍理解を持っていた。
だからこそ、いつまでたってもラウラを見舞おうとしないノヴァが気がかりでならなかった。
「差し出がましいようですが、その、なにかお手伝いできることがあれば、いくらでも申し付けてください」
ラウラの回復からひと月、サミーは痺れを切らし、ノヴァに自ら声をかけた。
「いくらでも都合はつけられますんで、例えば西方に出向く理由を作って、その、道中で立ち寄るとか。夜に馬を出したっていいですし。うちの駿馬を飛ばせばすぐですから、誰にも知られずに会いに行くことは、そんなに難しくないですよ。というかそもそも、陛下がされることに文句をつける人なんて誰もいませんよ。ですから――――」
「貴君はなにか勘違いをしているようだ」
ノヴァはサミーをやんわりと制した。
「私が西方霊堂を訪れないのは、多忙だからでも、人目があるからでもない。ただ――――必要が無いからだ」
「必要は……その……あると思うんですけど……?」
「兄上からの書簡をみる限り、ラウラ・カナリアは順調に回復しているようだが」
「は、はい。私も直接会ったのは一回だけですが、シェルティ様やアフィーから話を聞きます。近頃はようやく杖を持たずとも歩けるようになったとか。――――その、記憶は、相変わらずさっぱりみたいですが」
「なら問題はないな」
ノヴァはそこで話を打ち切ろうとしたが、サミーは食い下がった。
「えっ、ちょ、ちょっとお待ちください」
「なんだ」
「ラウラさんが元気だから、見舞う必要が無いってことですか?」
「見舞いの品や手紙はこれまでもたくさん送ってきた」
「い、いやいや、そういうことじゃなくて――――会いたくないんですか?ラウラさんに」
サミーの問いを受け、ノヴァはかすかに眉間のしわを深くする。
ノヴァはサミーの問いが、好奇心からではなく、本当にノヴァを心配しているからこそ出たものだと理解していた。
しかし彼は本音をもらすわけにはいかなかった。
(これ以上気を遣わせないためには、どう答えたものか)
ノヴァが逡巡している間にも、サミーは気遣いの言葉を重ね続けた。
「ノヴァ様のことですからきっと政治的判断でそうされているんですよね?ラウラさんたちは、まあ、いろいろとアレですから……。仕方ないことだと、どうしようもないことだとわかっていますが、でも、お見舞いに行くくらい、いいんじゃないですかね?こっそり行けば、バレませんし。バレたとして、とやかくいうやつらのことは、放っておけばいいんですよ――――って、そのとやかく言うだろう連中の筆頭がうちのばか親父なんで、お詫びのしようもありませんが……」
ブリアードの真意を知らないサミーは、カイを恨み、その恨みを晴らすためにラウラたちを殺そうとする父親のことを、ひどく軽蔑していた。
サミーは父親を詰り、ノヴァに詫びた。
「あんなイカれた連中、無視していいんですよ」
ノヴァはブリアードを哀れみ、サミーを諌めた。
「父親のことをそう悪く言うものではない」
「いいんですよ。父だってヤクートのことを……自分の子どものことを悪く言ってるんですから、お互い様です。――――いや、まあ、うちのことはどうでもいいんですけど、とにかくノヴァ様、ラウラさんに、会いに行ってくださいよ。なにか障害があるんでしたら、私、全力でどかしますから。……あ、もちろんわたし一人じゃないです。というかわたし一人じゃなにもできません」
サミーは言った。
これは自分一人の意見ではなく、ノヴァと共に働く官吏の総意だ、と。
「みんな、ノヴァ様の力になりたいと思っています。外野はわたしたちが黙らせます。誰にも、お二人の邪魔はさせません」
「……君たちは、なにか勘違いしているようだ。僕と彼女の関係を」
「そんなことないですよ」
サミーにしてははっきりと、断言した。
「ノヴァ様がラウラさんを大切に思っていることは、みんな、知っています」
「……」
「おせっかいって、わかってますけど、でも、わたしたち、ノヴァ様に救われて、今がありますから。……特にわたしは、ノヴァ様がいなければ、災嵐で死んでましたから。お返しがしたいんですよ。力になりたいんです。ちょっとでも」
「恩を必要はない。私は皇帝としての責務を果たしただけだ。それに君たちは、自分の力で生き延びたんだ。私は――――なにもしていない」
「無茶言わないでくださいよ。感謝くらいさせてくださいよ。それともわたしたちに、恩知らずでいろっていうんですか?……いやすみません、また偉そうなことを言って、あのでも、とにかく、このままじゃ心苦しいんですよ」
「心苦しい?」
「わたしたちのために、エレヴァンのために、ノヴァ様が自分の大切な人をおざなりにするなんて、あっちゃいけないですよ」
ノヴァはため息を吐き、ちがう、と訂正した。
「そんなことはない。君たちが察しているように、私はもう十分すぎるほど彼女を贔屓している。……私が彼女に会わないのは、本当に必要ないからなんだよ」
「でも――――」
「記憶のない彼女に会って、なんになる?」
「えっ……」
「確かに、私は彼女を大切に思っている。彼女は朝廷に貢献してくれた。それに幼馴染でもある。――――だが彼女はもう、他人だ」
ノヴァは自分の発した言葉に、頭が痛むのを感じた。
胸にも、締め付けられるような感覚があった。
どちらも、近頃ではすっかり慣れ親しむようになっていた痛みだった。
「会っても意味はない。話すことはない。私に会っても、彼女は混乱するだけだろうし、私自身も――――」
ノヴァはつい、言葉を詰まらせてしまう。
サミーはこのとき後悔し始めていた。
ノヴァの葛藤は、サミーが考えるよりずっと深くて複雑なものだった。
災嵐以後、サミーはノヴァに随伴することが多かった。寝食を共にする機会さえあった。故に、サミーの中で薄れていたのだ。
ノヴァはラサであるということを。
皇族であるということを。エレヴァン唯一の特権階級で、自分たち民衆とは、持つ権利も、負った義務も、まるで別物であるということを。
そんな相手に、官吏の総意とは言え、民衆から目の敵にされている女性との逢引きを提案するなど、軽々しい行動だった。
サミーはそんな後悔に苛まれながらも、もう後戻りはできないと、震える声で言った。
「会えば、思い出すかもしれないじゃないですか」
「それこそ必要ない」
「なぜです」
「忘れた方がいいだろう。辛いだけの記憶なんて、無い方がいいに決まっている」
そう言ったノヴァの声は、表情は、ひどく強張っていた。
サミーは焦った。
ノヴァの力になるつもりが、むしろ追い詰めてしまっている。
しかしここで引けば、ノヴァはますますラウラから遠ざかろうとするだろう。
「――――あの、この前、サハリに子どもが生まれたじゃないですか」
突然話題を転じたサミーに、ノヴァは怪訝な目線を送る。
サミーはたじろいだが、口を閉ざしはしなかった。
この機を逃せば、二度と恩を返す機会はないと、サミーは自身に言い聞かせた。
「元気な男の子でしたよね。身体は小さかったですけど、泣き声はすごく大きくて」
覚えていますか、というサミーの問いに、ノヴァはもちろん、と首肯した。
サハリは、遺体の肉を食べて災嵐を生き延びた女だった。
災嵐後にそれが露見し、仲間ともども糾弾され、危うく吊るし上げられそうになっていたところを、ノヴァによって助けられた女だった。
彼女はその後、仲間たちと共に、肩身の狭い生活を送った。
ノヴァは彼らに罪はないとしたが、それでも人びとは彼らを軽蔑し、差別した。
彼らは日陰者として、長く辛酸をなめなければならなかった。
最も過酷な労役をこなし、もっとも粗末な場所で、残り物の、冷めきった食事を口にしなければならなかった。
耐えかねて自殺する者があった。社会を捨て山林に消えた者もあった。
サハリはしかし、首都に留まり続けた。
差別は自身が受け入れるべき罰であると考え、冷たい視線に、誹りに、その身を晒し続けた。
やがて時が経ち、生活が安定すると、人びとのサハリに対する態度は軟化していった。
彼女を差別していたことを、恥じる者さえいた。
災嵐直後で、肉体的にも精神的にも余裕がなかったとはいえ、同じ人を畜生扱いしたことを、悔いたのだ。
サハリはまだ二十歳の、華奢な女性だった。そして他の多くの人びとと同じように、災嵐で天涯孤独の身となった人だった。
皇太子とはいえ、当時十八歳だったノヴァが、サハリを庇い許したというのに、いつまでもサハリを糾弾することは、懐の狭さを露呈するようなものだった。
ノヴァに倣うように、人びとはサハリを許容していった。
彼女に対する軽蔑は、嫌悪は、誰の胸にも残っていたが、少なくとも態度や行動に出すことは憚られるようになっていった。
そういった状況の中で、サハリはある男と親交を深め、子をなした。
その男は、災嵐直後、最も強くサハリたちを糾弾した、東方の技師だった。
「災嵐は、そりゃあ、無い方がよかったですけど、でも災嵐がなきゃ、あの子は生まれませんでした」
サミーはノヴァの視線を避けるように、視線をあちこちへさ迷わせながら説いた。
「サハリの子だけじゃないです。災嵐のあとに生まれてくる子は、みんな、災嵐がなきゃ、生まれてきませんでした」
「災嵐が去った後にできた友だちも、恋人も、伴侶も、みんなそうです。わたしだって、災嵐がなきゃ、ノヴァ様の傍で働けるなんて、絶対ありえませんでした」
「まあ、そういうの全部足しても、災嵐でなくなったものの方が全然多いですし、やっぱり、ないにこしたことはなかったと思いますけど、でも」
「なにもかもが悪かったってことはないと思うんですよ」
「なんていいますか」
「月並みですけど、人生はやり直せるっていいますか」
「意外と人って、図太いといいますか」
「いや、そりゃ、サハリは随分葛藤してましたけどね?」
「自分なんかが子ども産んでいいのかって」
「でも結局生んだわけで」
「ノヴァ様に救ってもらった命を無駄にできないとかなんとか言って――――いやまあそれも本心なんでしょうけど、結局は、自分自身で望んだんですよ」
「家庭を持って、ふつうに暮らすことを」
「幸せになることを」
「……」
「……まあ、みんなけっこう、白い目で見てますよ」
「わたしなんかも、すみません、正直どうなのって思ってますよ」
「あ、もちろん、だからって、あの二人の仲を認めないとか、ましてや子どもをどうこうしようなんて、そんなことはしませんけど」
「思うところは、ありますよ、やっぱ」
「まあそれでも、子どもが産まれたことはめでたいですし、キリないですから」
「潔白な人しか幸せになれないなんてこと、ありませんからね」
「どんな悪人だって、幸せになるときは、なりますよ」
「百人殺した人間が、生涯誰に咎められることもなく、大往生することだって、あるかもしれません」
「いや、あってほしくはないですけど」
「なるときはなっちゃいますよ」
「それは誰にもとめられません」
「全部きれいに清算することはできませんから」
「それでもなんとなく、丸く収まっちゃうもんなんだなって――――わたしはサハリ見て思いました」
「サハリだけじゃないです」
「たぶんみんな、十年二十年したら、自分の子どもたちに、自慢げに語る様になると思うんです。自分が災嵐をどう生き延びたかって」
「中年すぎると、みんな昔のこと、語りたがるじゃないですか」
「うちの父なんかは、まあ愚痴ばっかりで仕方なかったですけど。兄弟子なんかは、まあ誇張してるんでしょうけど、若いころの無茶とか、人助けとか、しょっちゅう口にしてましたから」
「失敗とか、過ちも――――例えそれが人を傷つけたことであっても、喉元すぎればなんともないんでしょうね、それどころかなんでか美化して、自慢げに語るんですよ」
「だから今生きてる人たちも、きっとそうなります」
「適当なもんなんですよ、人間って」
「……」
「……いや、みんながみんなではないですけど」
「皇族の方々はそりゃあきちんとされていたんでしょうし、というかノヴァ様の誠実さがなければ、いまの我々はありませんから、ほんと、感謝と申し訳なさでいっぱいですが……」
「でも、正直、そうなんです」
「わたしたち民衆は、そんなもんなんです。ズルいんです。すぐ忘れるし、棚上げにするし、矛盾だらけだし……流されやすいんです」
「そんな適当なわたしたちが、世界がこんなふうにめちゃくちゃになったあとでも生きてこれたのは、やっぱりノヴァ様のおかげです」
「ノヴァ様がいなかったら、絶対もっと、ひどいことになってました」
「いがみ合ってばっかりいたでしょうね」
「サハリのことだって、絶対に許してはいませんでした」
「いま私たちが穏やかに暮らせているのは、サハリたちを許せているのは、食べ物や寝床に困っていないからです」
「余裕があるからです」
「そしてその余裕は、ノヴァ様が与えてくださったものです」
「ノヴァ様がみんなを励まして、すぐに生活の基盤を整えてくださったから、いまこうやって落ち着いていられるんです」
「幸せになった人たちがいるんです」
「……」
「……わたしも、まあ、毎日目の回る忙しさでなんの不満もないと言えば嘘になりますけど、でも、いまの生活は、けっこう気に入っていますよ」
「走り回るしか脳のないわたしが、陛下の傍で働けるなんて、災嵐以前では考えられないことでした」
「光栄に思ってます」
「……」
「……だからって、やっぱり、災嵐があってよかったとは思いませんけど、でもわりといま楽しく暮らせています」
「災嵐、辛かったですけど」
「本当に大変でしたし、悲しかったですけど」
「でもわたし、生きててよかったって思ってます」
「忘れたいとは思いません」
「災嵐があって、今がありますから」
「それにわたしが忘れたら、災嵐で死んだ人たちは、本当に戻ってこれなくなっちゃうじゃないですか」
「いなかったことになっちゃうじゃないですか」
「そんなの嫌です」
「だからわたし、今でも毎日祈ってます」
「母を、兄姉たちを、同門の人たちの名前を、毎日呼んでます」
サミーは信じていた。
災嵐が明け、消沈する人びとを励ますためにノヴァが口にしたでまかせを。
災嵐に連れ去られた死者たちの魂は、外地の彼方、永久凍土の中に閉じ込められ、二度戻ってくることはないとされている。
しかし生者がその名を呼び続ければ、再びこの地に呼び戻すことができる。
新たな生を、再び受けることができる。
なんの根拠もないノヴァの発言を、しかしサミーは心の支えとして、今日まで祈り続けてきた。
「ノヴァ様もそうしているんじゃないですか?」
サミーはそれまでずっとさ迷わせていた視線を、はじめてまっすぐ、ノヴァに向ける。
「災嵐で死んだ人たちのために、祈り続けているんじゃないんですか?だからずっと、髪が短いままなんですよね?」
確かにノヴァの髪は、カイを弔うために切り落としてから、ずっと短いままだった。
しかしサミーの指摘は外れていた。
ノヴァは今日まで、たった一人のためだけに、祈り、髪を捧げ続けていた。
サミーはそれとは知らず、大衆に尽くすノヴァに感服していた。
「そんなノヴァ様だからこそ、幸せになってほしいんです。っていうか、なってくれないと困るんですよ。私たちノヴァ様のおかげで人並みの暮らしを取り戻せたのに、そのノヴァ様が人並み以下の生活してるなんて、さすがに気が引けますから……」
「人並み以下の生活をしているつもりはないが」
「大切な人のお見舞いひとつ行けないなんて、人並以下ですよ!」
サミーは半ば呆れたように言った。
「ノヴァ様がわたしたちの幸せを願ってくださるように、わたしたちも、ノヴァ様の幸せを願っているんですよ。ですから――――」
ノヴァはいたたまれず、サミーに背を向けた。
彼女の優しさを、真心を受け入れるだけの余裕は、いまの彼にはなかった。
「気持ちはありがたいが、決めつけないほしい。――――それは私の幸せではない」