美少女転生だ!
カイは目を覚ます。
「う……」
覚醒した瞬間、どっと冷や汗をかき、狼狽する。
「は……?」
口から出た声は、自分のものではない。
かすれているが、鈴の音のなるような、美しい声色だった。
「え?……あ、あー……」
カイは確認のためもう一度声を出してみる。やはりそれは本来の自分の声ではない。二十歳になったばかりの男の声ではなく、うら若い少女の声だ。
カイは上半身を起こし、手のひらを見つめる。
白く、柔らかく、しわの少ない、作りもののような手だった。そして実際に右手の小指と薬指は作りものだった。見た目にはほとんどわからないが、触れると固い、義指だった。
カイは頭、顔、腕、胸、腹部、脚、全身をくまなく触診する。
顔の肌はなめらかで、柔らかかったが、身体の皮膚はどこもひきつれていた。
服をまくりあげると、無数の傷跡があった。
よく見るとそれは傷跡ではなく、模様だった。
瘢痕文身。
無数の傷跡からなる模様が、カイの全身に刻まれていた。
「……ふむ」
カイは深呼吸をして、改めて自分の身体を見渡した。
華奢な身体だった。
清潔だが、骨ばっていて、いかにも不健康そうだった。
指通りのいい頭髪は腰まで伸びていたが、艶はまるでなかった。
一通りの観察を終えたカイは、もう一度深呼吸をして、股に手を当てた。
ない。
股間にあるべきはずのものが、きれいさっぱりなくなっている。
(――――『目が覚めたら息子が家出していた件』)
カイは混乱したままそう思ったが、もう一度自分の胸部に触れて、わずかだがある、男のものではない膨らみを確かめる。
(うん、違うな)
(――――『見知らぬ場所で目を覚ましたら性別が変わっていたし身体も縮んでいたんだけど、もしかしてTS転生しちゃいました?』)
(……)
(……うん。これだな)
(いやちょっと長いか?)
(っていうかふつうにさむいか?)
(おれこういうセンスないんだよなあ……)
カイは頭を抱える。
(……いやばかまじで、現実逃避してる場合じゃない!)
(なにが起こった!?)
カイは寝台の上にいた。
ゆうに五人は横になれる、とてつもなく大きな寝台だ。瀟洒な飾りが施された天蓋に覆われている。シーツは純白で、上質な絹の手触りだ。横たわる身体にかけられた織物も同様の滑らかさで、おまけに複雑で華やかな刺繍が施されている。
明らかに病院の寝台ではない。
カイはさらに周囲を見渡す。
そこは礼拝堂を思わせる荘厳な造りの空間で、見れば、石の壁にも高い天井にも天蓋同様見事な細工が施されている。
また床には一面生花が生けられている。
花は西洋薄雪草によく似ているが、花弁が宝石のように透き通り、僅かに発光している。
(わあ)
幻想的で美しい薄雪草の花畑に、カイは思わず感嘆の息を漏らす。
(とってもきれぇ)
そしてすぐに頭を抱える。
(って呆けてる場合じゃねえ!)
(ほんとどこなのここ!?)
(なにもわからん!)
カイは一度目を閉じて深呼吸する。
そしていくらか気を落ち着けると、思考を再開する。
(夢を見てるって考えるのが一番現実的だけど、それにしても意識がはっきりしすぎてるし質感がリアルすぎ)
(……もしかしておれ死んだのか?)
(ここ、天国だったりして?)
カイは自身の股と胸にそっと触れてから、うん、と大きく頷いた。
(それにしたってなんで女になってんだよ!?)
(まさかまじで本当にTS異世界転生!?)
思考はまたも散らかり、カイはぐるぐると目を回しながら、一人苦悶を続ける。
(いや、やっぱ夢だ)
(きっとそうだ。超リアルな明晰夢。それ以外ありえないだろ)
(……でも仮に明晰夢だとすると、おれ女になりたい願望があったってことになっちゃうのか?)
(そんなの、あるはずが――――)
(――――……)
(……いや、なくはないか?)
(美少女転生して異世界無双するなろう系、けっこう好きだったしな)
(……)
(だめだ、冷静になんなきゃいけないのに、しょうもねえことしか考えられない!)
カイは立ち上がろうとするが、脚に力が入らず、よろけてしまう。
「――――うわっ」
上掛けをはぐと、小枝のように細く、病的に青白い足が現れた。
カイはため息をつき、項垂れた。
(やっぱ夢じゃないよな)
(この身体の違和感とかだるさは、どう考えても現実だろ……)
カイは身体をよじり、どうにか広い寝台の縁まで移動する。
支柱につかまり、もう一度起立を試みるが、やはりうまくいかない。
むしろたったそれだけの動きで息が上がり、疲労困憊してしまった。
(ほんとまじどうなってんの、この身体……)
(ガリガリだし、なんか傷だか模様だか、入れ墨みたいなのいっぱい彫ってあるし)
(しかも指ないし……昭和のヤクザかよ……)
カイはふと、寝台の縁に置かれた手鏡に気がつく。
それを手に取り、中を覗き込むと、そこには見知らぬ少女が映っていた。
「……え?」
そして呆気にとられた。
「……ふぁ」
無意識に口から出た音は、小さな鈴を小突いたような、それは可愛らしいものだった。
「……び」
そしてその透明感のある少女の声で、カイは叫ぶ。
「美少女転生だー!!」
カイは飛び跳ねようとするが、力の入らない身体が持ち上がるわけもなく、その場にだらしなく倒れ込むことしかできなかった。
しかしカイは構わず、興奮のままに、寝台の上をごろごろと転がり回った。
(『転生したら美少女でした』じゃんこれ!!)
(絶対そうだこれTS異世界転生だよ!!)
(おれ異世界で美少女として人生やり直すかんじでしょこれ!!!)
カイはもう一度手鏡で自分の顔を眺める。
みずみずしい、絹のような手触りの肌。ふわふわとしたくせのある黒髪。葡萄色の瞳は、やや目尻が下がっていて愛嬌のある形をしている。鼻も口も耳も小ぶりで、それぞれバランスよく配置されている。
カイは鏡に向かって百面相をする。笑ってみたり、頬を膨らませたり、顔全体を顰めてみたりする。
そしてそのたびに呟いた。
「すごい、どんな顔してもかわいい……」
(そんで声までかわいいって、もう無敵じゃん)
(最強の美少女に転生しちゃったじゃんおれ……)
カイは浮かれ、興奮しながら、鏡にさまざまな表情を映し続ける。
しかし悲し気に目を伏せてみた表情をつくったところで、ふと気がつく。
(――――あれ?)
(おれ、この子知ってるな?)
カイは真顔に戻り、頬を撫でながら、鏡をまじまじと眺める。
(絶対そうだ。どっかで見たことあるぞ、この顔)
しかしそれがどこであったか思い出すことはできない。
(うーん……もしかして物語世界に行くタイプの異世界転生、ってことだったり?)
(ゲームとかアニメの世界に転生したやつなのか?知っている物語のキャラクターに転生したんだったら、この顔に見覚えあるのも頷けるけど……)
カイは長い時間考えたが、答えはわからなかった。
(見覚えがあるのは確かだ。でもどの作品の誰なのかは……)
カイは鏡を置き、枕に顔を埋める。
(――――っていうか、なんにも思い出せないな)
それに気づいたとき、強烈な寒気に襲われる。
(おれ死んだのか?)
(起きる前のこと、よく思い出せないな)
カイは令和の日本で生まれ育った男だった。
中規模の不動産会社を経営する裕福な両親と、ふたつ離れた弟と共に暮らす、二十歳の大学二年生。
容姿も学力も平凡で、通っている大学も中堅の、ふつうの男だった。
一方年子の弟は優秀で、国立大学に通っており、容姿も人望も、カイよりずっと優れていた。そのため会社の後継者に見込まれているのも弟の方で、カイは自由で束縛のない学生生活を謳歌していた。
恵まれた環境で、起伏の少ない人生を送っていた。
そういう自分の生い立ちを、カイはしっかり思い出すことができた。
しかし直近の出来事を思い出そうとすると、どうも曖昧になってしまう。
(大学二年で、たしか夏休みは終わってた。就活の説明会とかが増えてきて、おれらみたいな文系の私大通ってると、なんの仕事したらいいかわかんないよな、特に行きたい業種もないから意欲もわかない、みたいな話を友だちとして――――)
(それで――――)
(――――ダメだ、やっぱよく思い出せない)
(大学のグループ課題だか、友だちとの約束だか、おれなんか大事なことやんなきゃいけなかった気がするんだけどなあ)
カイは唸りながらその場で寝返りをうった。
(……こんなわけわからん状況におかれても課題の心配してるって、おれ自分で思うより真面目な学生だったのかもな)
考え事をしながら寝台の上を転がっていたカイは、気づかぬ間に縁まで移動していた。
そして寝返りの勢いがあまって、寝台から転がり落ちてしまう。
「あっ」
カイは息を飲み、目をきつく閉じた。
寝台はかなりの高さがあった。
落ちたら相当の衝撃がかかるのは間違いなかった。
「……?」
しかしカイの身体はすぐに浮かび上がった。
「だいじょうぶ?」
誰かが優しく彼を抱き上げたのだ。
「間に合ってよかった」
カイはおそるおそる目を開ける。
そこには驚いた顔をした美しい青年の顔があった。
「――――目が覚めたんだね」
礼拝堂の大きな観音扉が、いつの間にか開かれていた。
青年は扉を開くと同時に寝台から落ちかけているカイを目にしたらしい。そして瞬きの間に、カイのもとへ飛び、その身を受け止めたのだ。
「まったく、油断も隙もないんだから」
青年の跳躍によって生けられた薄雪草の花弁が舞い、花吹雪となってふたりの上に降り注ぐ。
「きみからは少しも目が離せないね」
青年は真冬の氷雪をも溶かしてしまいそうな、暖かい眼差しをカイに向ける。それからそっと、カイを寝台に降ろす。
縁に腰かけたカイは、呆然と、青年を見つめる。
絶世の美青年だった。
今のカイも美しい容姿をしているが、それに負けず劣らない。長身痩躯、鼻筋の通った、彫刻のように整った顔立ち。柔らかそうな金色の髪の隙間から覗く瞳は、色素が薄く、光が入ると虹彩が金色を帯びた。
青年は慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。カイは思わず目を逸らす。
カイの顔は耳まで赤くなり、熱をもった耳の中は己の心音でいっぱいだった。
(――――なんだこのイケメンは!?)
(突然現れたと思ったらお姫様抱っこされるし!なんかすげえ見つめられるし!)
(おれぜんぜんそっちの気ないのに、やばい、なんでこんなドキドキしてんだ!?)
青年はカイの前に跪き、壊れ物に触れるようにそっと、その両手を包み上げる。
「――――ぼくのことがわかる?」
青年はまっすぐにカイを見つめる。
「えーっと……?」
カイは狼狽して視線をさ迷わせる。
(全然わからん、誰だよこの人)
カイは思った通り口にしようとするが、青年があまりにもまっすぐ自分を見つめているため、言葉を紡ぐことができない。
(なんなんだよ、その熱烈な視線は……)
(目が潰れる)
(至近距離のイケメン、庄がすごい……)
(……え、おれたち知り合い?)
(違うよね?こんなイケメン一回見たら一生忘れないと思うけど、全然記憶にないんだけど――――)
(――――いや)
(この身体の子と同じで、考えてみればどっかで見たことあるかもしれない)
(なんとなく見覚えがある……程度だけど)
(やっぱりこれ物語世界なのか?そんでこのイケメンも登場人物のひとりだったりするのか?)
苦悩するカイに、青年は再び問う。
「わからない?」
カイはおそるおそる頷く。
自分の返事如何では青年の態度が豹変するかもしれない、という不安があったが、青年はむしろ安堵したようにその微笑みを深めた。
「よかった。――――じゃあ、もうだいじょうぶだ」
(……なにが?)
(覚えてないんだよ?なにもだいじょうぶじゃなくない?)
状況を掴めないカイが首を傾げると、青年はカイの手を包む力を少しだけ強めて言った。
「目が覚めて本当によかった。混乱していると思うけど、無理もない。きみは今記憶を失っているんだ。おまけに長い間眠っていたから、身体の自由も効かないだろう」
青年は顔から笑みを消し、眼差しを鋭く力強いものに変える。
「でもだいじょうぶ。ぼくがきみを助けるから」
青年はカイの手の甲にそっと口をつけた。
主君に忠誠を誓う騎士のように。
「なにものからもきみを守るよ。そして安穏と平穏の日々を約束しよう。――――ぼくはきっと、きみを幸せにしてみせる」
顔をあげた青年は、またもとの柔和な笑みを浮かべる。
「だから安心して。身体と、心を、ゆっくり慣らしていくといい」
カイはそれに対して笑みを返し、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
(……いやなにが「ありがとう」なの?!)
しかし頭の中では混乱が深くなるばかりだった。
(ますますわけがわからん!このイケメンはなんなんだ!?)
(というかすごく嫌な予感がするんだけどもしかしておれ)
(乙女ゲームの世界に転生しちゃった?)
(『転生したら美少女だった件』じゃなくて、『転生したら乙女ゲームのヒロインだった件』だった?)
(……)
美形の青年は一向にカイから手を離そうとしない。カイは笑顔をひきつらせながら、心の中で叫ぶ。
(おれを転生させたのが神さまなのかなんなのかしらんが、間違えてる!)
(人選ミスだよ!)
(頼む、今すぐ、チェンジで!!)
しかしこの世界に神はいない。
カイの叫びを、懇願を聞くものは、どこにもいなかった。