ディンゴとノヴァ
***
災嵐が明けて一年。
ディンゴがノヴァと密約を交わし、秘密裏に朝廷に協力するようになってしばらくのことだった。
「ケタリングに乗る方法を教えてほしい」
ノヴァはそう言って、ディンゴに頭を下げた。
理由を訊ねると、有事の際に必要になるかもしれないから、という答えが返ってきた。
ディンゴは殺意を抱いた。
他ならぬラサが、ウルフの力を堂々と利用しようとしているのだ。
それもウルフである自分に頭を下げてまで。
ディンゴは腸の煮えくり返る思いで、嫌だね、と拒否した。
「ただ足として使いたいなら、口の中に収まってればいいだろ。それともケタリングに咥えられるなんて屈辱だってか?皇帝陛下様は」
挑発的なディンゴの言葉を受けても、ノヴァは姿勢を崩さなかった。
「ただ運ばれるのと、騎乗するのは違うだろう。ケタリングの口内に収まることができるのはせいぜい二人だが、騎乗は十人でも二十人でも可能だろう。もしレオン・ウルフのケタリングと交戦状態に陥るようなことがあれば、上空での戦闘要員にもなれるかもしれない」
「なれるわけねえだろ」
レオンと自分の間に入れるものなどいるはずがない。
空はウルフだけのものだ。
ディンゴはノヴァの申し出を拒絶したが、しかしノヴァは食い下がった。
ディンゴがどれだけ拒絶しようとも、邪険に扱おうとも、しつこく頼み込んできた。
カイ達との戦闘を予期していたわけではない。
そのときのノヴァは、まだカイが生きていることを知らなかった。ラウラが療養中であることを信じて疑っていなかった。
しかしノヴァは、ケタリングという存在に対して懸念を抱いていた。
レオンのケタリングだけではない。もしまた野生のケタリングが集団で襲い掛かってくることがあれば、今度こそ人類は滅びてしまう。
壊滅したエレヴァンで、ノヴァは使えるものはなんでも使わなければ、と考えていた。
ノヴァがあまりにもしつこいので、ディンゴはついに根負けした。
ノヴァと、そしてノヴァが推薦したマヨルカの二人に、ケタリングへの搭乗を指導してやることにした。
ノヴァとマヨルカは、二人とも並以上の霊能力を持ち、体幹も強かった。
また災嵐をへてなお、ケタリングに対して強い恐怖心を抱いていなかった。
それでもケタリングに搭乗できるようになるまでは、レオンの言う通り数か月の時間が必要だった。
ディンゴは自分が苦労せず乗りこなせた分、悪戦苦闘する二人を、はじめは心中で嘲笑していた。
義務感でケタリングに乗ることなどできないと決めつけてさえいた。
ディンゴにとってケタリングは自由の象徴であり、自らの翼だった。
エレヴァンの平和のためにケタリングに乗ろうという二人の考えは、相容れないものだった。
ただ協力関係である以上、渋々応じてやっているだけだった。
――――そう、決めつけていたからだろうか。
実際に彼らが空を飛んだときの様子を忘れていたのは。
否、正確には忘れていたわけではない。
鮮烈な記憶として脳に刻まれていた。ただ向かい合わなかったのだ。
空を飛んだ彼らが、感動していたという事実に。
二人の顔つきが変わったのは、搭乗訓練を開始してしばらく、ようやく雲の上を飛べるようになったときだ。
それまではただ必死で、景色などまるで見えていないような様子だった。
雲上に出た時も、まだしがみつくようにしか乗れていなかったが、ノヴァとマヨルカはそこではじめて空を見た。
二人は目を見開いた。
そして輝かせた。
眼下の雲海に、その隙間から覗くエレヴァンの光景に、二人は息をすることも忘れたように魅入られていた。
その二人の表情は、今でもディンゴの目蓋に、はっきりと焼き付いていた。
「――――あっ」
ディンゴは驚きに、小さく声を漏らした。
その時の二人の顔を、あまりにも鮮明に思い出すことができたからだ。
ノヴァは災嵐後、皇帝の立場に立ってから、感情を表に出さなくなっていた。
マヨルカは怒りと悲しみ以外の感情を失ってしまったような少年だった。
そんな二人が、心を震わせていたのだ。
責務や過去を忘れ、ただ胸をいっぱいにしていたのだ。
空の中で。
自分と同じように。
ディンゴはわからなかった。
なぜ自分が、今までそんな二人の様子を忘れてしまっていたのか。
というより、気づかないふりをしてしまっていたのか。
あの瞬間、たしかにノヴァとマヨルカは、ディンゴと同じ感動を覚えていた。
彼と同じものを見て、同じ気持ちで、同じ場所にいた。
けれどディンゴは、それを知りながらも。認めようとしていなかった。
ウルフ以外の者が、空に心を震わせるはずなどないと決めつけ、目を逸らしてしまっていた。
「ち、ちがう……」
ディンゴは混乱した表情でかぶりを振る。
「アイツらは、ただ驚いていただけだ。ただ……」
「ビビんなよ」
「は?!」
「怖がるなよ」
「な、なにをだよ」
「他人と繋がることを」
「……!」
「無理はねえか。お前がそうなったのは、おれのせいだからな。……おれはお前ほど差別されてきたわけじゃねえ。朝廷に捕まったことはねえし、そもそも同族を捨てて独りになること自体、てめえで選んだことだからな。お前と違って、最初からたった一人の同族しか、そばにいなかったわけじゃねえからな」
レオンはディンゴの拘束を解き、立ち上がった。
「そのおれにまで裏切られて、お前が誰も信頼できなくなるのは、当然だな」
ディンゴは横たわったまま動かない。
逆転の好奇でもある状況で、ただ身体を小さく振るわせるだけだった。
「たしかにおれたちふたりにしか分かちあえないものはある。だけど、それが全てじゃねえ。他の奴らとだって、分かり合えるものはあるだろ」
そんなもんねえよ、とディンゴは弱々しく否定する。
あるんだよ、とレオンは力強く返す。
「おれたちは、ウルフである前に人間だからな」
「ただの人間とおれたちじゃ、狗鷲と羊ほどもちげえ」
「二分するな。ウルフの中にも羊はいたし、お前が羊と思い込んでるもんの中には狼狗いる。熊や虎や魚や、いろんなもんがな」
「翼をもつのはオレたちだけだ」
「翼があろうがなかろうが、大した違いじゃねえ」
「生きる世界が違う」
「お前が降りてやればいい。それか、ここまで連れてきてやればいい」
「羊が――――いやそいつが狼狗だったとして、空で生きられるわけじゃねえろ。それともオレに地上で、翼を腐らせろってか?」
「てめえを曲げる必要はねえよ。交わることを覚えろって言ってんだよ」
「下らねえ。じゃあアンタ、狗鷲が狼狗の毛繕いをすると思うか?」
「どうだろうな。案外一緒に置いとけば、するようになるかもしれねえぞ」
「ありえねえ」
「お前が思ってるより、あいつらは近い存在だぞ。同じ野兎を追うこともあるくらいだ」
「……見たことねえよ」
「おれはある。あいつらの狩りは似てるよ。空を、大地を、自由に駆けまわって、楽しんでいるようにしか見えねえんだ。それだけじゃない。あいつらはどちらも誇り高いし、仲間思いだ。生涯つがう相手を変えることはない。子を深く慈しむ。空を、大地を、同じように自由に駆けまわる。それにどっちも繁殖期であろうがなかろうが、必ず小さな群れを作って生活する。独りでは、生きていけないことを、互いに、よく知っているんだろうな」
「生物としての共通点に過ぎないだろ、そんなの」
「じゃあどこまで一緒なら気が済むんだ?」
「それは――――」
「ディンゴ、自分とまったく同じ存在なんていねえんだ」
「……」
「おれと、お前は、他の奴等より近いが、それでも同じじゃあない」
ディンゴの顔に、怒りと悲しみがこみ上げる。
けれど彼の口から出たのは、乾いた笑い声だった。
「ははは……ああ、そうだな。アンタの言う通りだ。同じだったら、こんなに言葉を交わす必要ねえもんな。……同じだったら、今頃はとっくに、二人で並んで空を駆けてたろうからな……」
でもそうはならなかった、と、ディンゴは脱力して呟いた。
「アンタとさえ、オレは並び立つことができなかった。それなのに他の誰と――――他の誰が――――」
ディンゴの声は風前の灯のように小さかった。
「いるだろ」
それでもレオンが聞き逃すことはなかった。
「もう気づいただろ。お前のすぐそばに、お前を受け入れてるやつらがいるってことに」
ディンゴの脳裏に、ノヴァとマヨルカの顔が浮かぶ。
二人は一度としてディンゴを蔑ろにしなかった。
素顔を晒しても臆することはなかった。
どのような偏見も持たず、躊躇うことなく寝食を共にし、話しかけてきた。
ディンゴとケタリングに対して、一切の警戒が無かったわけではない。
危険な存在であるという認識はあった。そしてそれを隠すこともなかった。
ノヴァは冠の誓約という鎖でディンゴを縛った。
マヨルカはディンゴの監視役として始終傍を離れなかった。
北方霊堂に監禁され、実験体としての扱いを受けてきたディンゴにとって、それは耐えがたいものだった。
はじめは反発もしていた。けれど時と共に、気持ちは変わっていった。
鎖にも、マヨルカが傍にいることにも慣れていった。
自由とまではいかないが、少なくとも不自由を感じることはなかった。
***
ノヴァはディンゴとケタリングの存在を容認し、彼を自分の部下として朝廷に招き入れた。
生活を保障し、社会的な立場を与えた。
その代りにディンゴに枷をはめた。
三種のレガリアのひとつ、茨の冠。
強い暗示作用を持つその霊具によって、彼には二つの縛りが設けられた。
ひとつは、冠を外すことができるのは皇帝、ノヴァ・ラサだけである、というもの。
冠を自由につけ外しすることができれば、冠は鍵の無い枷となってしまう。
これによって冠は施錠され、またディンゴは現皇帝であるノヴァに手を出すことができなくなった。
彼が死ねばディンゴは死ぬまで枷を外すことができなくなるからだ。
もうひとつの制約は、エレヴァンの上空以外でケタリングを飛ばすことは出来ない、というものだった。
そもそもエレヴァン、天回をその中心に据えたエレヴァンの上空の外は、高度一万五千メートルに及ぶ巨大な積乱雲の壁に囲われている。
ケタリング単体ではまだしも、生身のディンゴは到底飛行することは出来ない。
ディンゴはもとよりエレヴァン、人類の生存権である盆地の外に出ることはできないのだ。
この制約には含みがあった。
二つ目の制約はディンゴに謀反を起こさせないためのものであった。
ディンゴとケタリングによる革命を禁ずるもためのものであった。
『エレヴァン』の飛行を禁ずるという文言で、なぜ縛りが成立するのか。
それはこの地をエレヴァンと名付けたのがラサであるからだ。
エレヴァンとはラサがこの地に作った、社会そのものの名前である。
社会の名が支配者によって変わる様に、現朝廷が失われれば、エレヴァンの名もまた失われる。
つまりラサが打倒され、現朝廷が瓦解すれば、ディンゴは二度と空を飛ぶことができなくなってしまうのだ。
「だけどよ、オレがまたこの地にエレヴァンって名付ければ、意味ないんじゃねえのか?」
誓約を立てる前、ディンゴはその内容に疑問を呈した。
「正直、オレは別に一生冠を外せなくてもいいんだぜ。オレに必要なのは空を飛ぶ自由だけだからな。お前を殺して、朝廷をぶっ壊して、新しい世界にエレヴァンと名付ければ、それで済む話だ」
なぜもっとわかりやすい制約を設けないのか。
絶対服従を命じない理由なにか。
それを強要されても従う気は毛頭なかったが、ディンゴはノヴァに理由を訊ねた。
「文言に含まずとも、君の中に今のエレヴァンがラサによって成るものであるという認識があればいいんだ」
ノヴァは嘘偽りなくディンゴの疑問に答えた。
家宝でもあるこのレガリアの持つ力を、誓約の真意を、包み隠さずディンゴに明かしていた。
冠を着けるにあたって、ディンゴの合意を、納得を得ようとしていた。
ノヴァはディンゴに、誠意を示そうとしていた。
「いいのかよ?」
しかしディンゴはノヴァの誠意を退けた。
制約こそ受け入れたが、ラサを、皇帝を、ウルフではないふつうの人間である彼を、決して信頼はしなかった。
「アンタ、ウルフのオレに玉座を奪取されたくないからってそんな縛りを設けたんだろうが、オレは正直、この地を牛耳りたいだなんて、微塵も考えちゃいねえんだぜ。――――やろうと思えば、オレとケタリングだけで、いまのちんけな朝廷なんざ簡単にぶっ壊せるけどな」
「そうだろうな」
「……その余裕はどっからくんだよ」
ディンゴは淡々と頷くノヴァに苛立ちを隠せなかった。
「わかんねえのか?こんなちっぽけな鎖じゃあ、おれはなにひとつ縛られねえぞ。オレは今すぐにでも、空を捨てて朝廷をぶっ壊したっていいんだ。朝廷を壊さないまでも、気に食わねえ奴をかたっぱしから殺すとか、都市を更地に戻してやることだってできるんだぜ」
「だが君はそれをやらないだろう」
ディンゴの脅しを、ノヴァは意にも介さなかった。
それどころか、きっぱりと断言した。
「君が空を捨てることは決してない」
ノヴァは理解していた。
ディンゴが空を、空を飛ぶことをなによりも愛しているということを。
だからこそ、空を人質にしたのだ。
またディンゴが殺戮や破壊の願望を持っていないことも見抜いていた。
災嵐によって、最も憎んでいた北方霊堂の技師は死に絶えた。
さらに空を知ったディンゴは、復讐などどうでもよくなっていた。
ただ空を飛ぶ自由と、安楽な生活があればそれで満たされていた。
ディンゴがそれを直接ノヴァに語ることはなかったが、しかしノヴァはそれを言葉や態度の節々から感じ取っていた。
もちろん、彼の抱える孤独も。
しかしそれを埋めようなどとは考えなかった。
同じものに、ノヴァはディンゴよりずっと前から、蝕まれていたからだ。
胸に空いた穴を、年々広がるそれをどうすればいいのか、ノヴァ自身もわかっていなかったからだ。
「アンタそんなんで、よく皇帝が務まるな」
ディンゴは、そんなノヴァの心中など知ろうともしなかった。
ノヴァの提示した制約を受け入れ、枷を身に着けたが、それは安定した衣食住を得るための打算にすぎなかった。
ケタリングを持つ自分を手の内に納めておきたいのだろうと、篭絡するために甘言を吐くのだと、決めつけていた。
ノヴァの誠意を、真心とさえいえるそれを、ただ袖にするだけだった。
レオンに諭されて、ディンゴはようやく気が付いた。
ノヴァははじめから、ディンゴのことを受け入れていたのだということに。
違いを理解した上で歩み寄り、共生する道を模索してくれていたということに。