空上の戦い(四)
稲妻のような悪寒が、ディンゴの背を駆け抜ける。
ディンゴは硝子の剃刀を突き出しながら、背後を振り返る。
だが、遅かった。
背後の光景を目にする前に、彼の視界は暗転する。
――――ゴッ!
やや遅れて、鈍い音と、衝撃が、ディンゴの身体を襲う。
「……っ!?」
ふいを突かれた。
黒曜石は陽動だった。まるで瞬間移動でもしたかのように、レオンはディンゴの気が逸れたわずか数秒の間に彼の背後に立ち、その眉間を血まみれの拳で打ち抜いた。
「ぐっ……!」
ディンゴは意識を飛ばしかけたが、どうにか堪え、踏みとどまる。
しかし身体は突然の衝撃に耐えきれず、倒れるように、キズモノの背から滑り落ちてしまう。
レオンもまた躊躇うことなくキズモノから飛び降り、空中でディンゴを捕えようとする。
ディンゴは狭窄した視界のまま、半ば本能的にレオンへ硝子片の狗鷲を飛ばす。
狗鷲はレオンに向かおうとするが、ワカモノが翼を大きく広げ、それを阻む。
狗鷲は翼に衝突し、崩壊する。
ディンゴは崩れた狗鷲、硝子片を激しく明滅させる。
素早くキズモノが反応し、ディンゴをその背に乗せる。
足場を得たディンゴは、硝子片を自らの周囲に膜のように広げる。
次の瞬間、ディンゴは血飛沫を浴びる。
「ぐっ……!」
それはレオンのものだった。
またいつの間にかキズモノの上に移動していたレオンが、ディンゴに拳を突き出したのだ。
しかし拳は硝子の膜に阻まれる。
レオンの拳はディンゴの眼前まで伸ばされたが、硝子に纏われ、引き裂かれ、止まってしまう。
「は……?」
今度はレオンの拳を食い止められたディンゴであったが、やはり瞬間移動をしたとしか思えないレオンの動きのからくりがわからず、ただ唖然としてしまう。
「どうなってんだよ……!」
ディンゴの呟きに答えることなく、レオンは硝子の膜から拳を引き抜き、ディンゴに背を向けて駆け出す。
ディンゴは慌てて硝子片をレオンへ飛ばす。
キズモノの尾へと向かうレオンを追わせる。
硝子片があと数センチに迫ったところで、レオンは、尾根から飛び降りる。
目標を失った硝子片は靄のように広がる。
ディンゴは慌てて硝子片を円形にまとめる。
硝子片の総量ははじめより明らかに減っている。
少しずつ、ただの硝子片として空に散ってしまっているのだ。
ディンゴは舌を打ち、尾根まで駆ける。彼の立っている場所からは、落ちたレオンの行方がわからなかったのだ。
幸い、今度はレオンの姿を見失わずに済んだ。
レオンはまだ落下している最中だった。
ワカモノがレオンを受け止めようと動いているのも見えた。
ディンゴは全身全霊をこめて、硝子片をレオンに叩きつける。
間に合う、そう思って、ディンゴは唇についた血飛沫舐めとった。
ワカモノより、硝子片がレオンを捉える方が早いと、ディンゴは確信していた。
落下するレオンは無防備で、硝子片を避ける手立てはない。
「とった!」
ディンゴは口に広がる鉄の味を噛みしめながら、叫んだ。
それを聞いたレオンは、不敵に笑って見せた。
「はやるなよ」
レオンは耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。
「そんなことしたって防げねえよ!」
勝利を確信したディンゴは嗤った。
「ははははは―――――っ!?」
が、その声は、かき消されてしまう。
ケタリングの咆哮によって。
ガァアアアアアア!
レオンと硝子片に向けて、ワカモノは咆哮を浴びせかけた。
硝子片はレオンの目前まで迫っていたが、咆哮がもたらす衝撃波によって弾き飛ばされてしまう。
もちろんレオンもただでは済まない。
爆風に等しい方向をまともに受けて、レオンも硝子片と同じように吹き飛ばされる。
「捨て身かよ……!」
ディンゴは硝子片をかき集めようとするが、あまりにも広範囲に散らされてしまったため、すでに操作は不可能だった。
やむを得ず、ディンゴは手元に残した最後の硝子を砕き、光球を作る。
そしてキズモノにレオンを捕らえるように命じる。
キズモノは口を開き、レオンに飛びかかる。
が、またしても、キズモノより早くワカモノが動いた。
ワカモノはレオンの下へと潜り込んだ。
しかしその背にレオンを乗せることはなかった。
ワカモノはその場で宙がえりをし、長い尾の先端で、レオンを打った。
「――――は?」
ディンゴは上ずった声を漏らす。
ワカモノに打ち据えられたように見えたレオンが、瞬きの間に、ディンゴの頭上まで昇っていたからだ。
「はあ!?」
ようやく状況を理解したディンゴは、驚愕でさらに声をあげる。
レオンは空を飛んだわけでも、ましてや瞬間移動をしたわけでもない。
ワカモノに、尾で、投げさせていたのだ。
レオンは股でディンゴの頭を挟むようにして、キズモノの上に着地する。
「がっ……!」
受け身をとることもできず、ディンゴは背を強打する。
「とったぞ」
ディンゴに馬乗りになったレオンは、自らの勝利を宣言する。
ディンゴは苦痛に歪んだ表情で、むちゃくちゃだ、と呻く。
「正気じゃねえ――――あんなの――――ちょっとでもズレたら死ぬじゃねえか」
ケタリングが振り上げる尾を蹴り、その勢いを利用して跳躍する。
失敗すれば尾にその身を砕かれる、死と隣り合わせの妙技だった。
ディンゴは呆れと敬服の入り混じった眼差しをレオンに向ける。
「勝ったと、思ったんだけどな」
「百年はええよ」
「百年どころか、千年あったって勝てる気がしねえけど」
ディンゴはそう言いながらも、光球を操作し、背後からレオンにぶつけようとする。
「その諦めの悪さがあるなら、可能性はあるぞ」
レオンはワカモノの操作に用いていた光球をそれにぶつける。
二つの光球は衝突し、花火のように広がり、消える。
「ちぇ、ダメか。――――でもこれでお互い、もう後がなくなったなあ?」
二人の手元にはそれぞれ、刃物として用いている黒曜石と硝子の剃刀が残されるばかりである。
砕いて光球にすることもできるが、ケタリングを操るには不足な、持続性のない、ごく小さなものになってしまうだろう。
操れたとして、ごく単純な指示を出すことがせいぜいだ。
互いに条件は同じだったが、なおも圧倒的優位にあるのはレオンだった。
レオンはディンゴに馬乗りになり、完全に制圧している。
ディンゴからの指示がない以上、キズモノも大きく動くことはない。
しかしレオンはディンゴを抑え込む以上のことはせず、深く息を吐き、緊張を緩めた。
レオンの目から殺気が消えたのを見て、ディンゴは目をすがめた。
「殺さないのか?」
「お前が二度とおれたちに手を出さないと誓うならな」
「……はは。アンタ本当に変わったなあ。それとも相手がオレだから特別甘いのか?」
「さあな」
「ずるいなあ、アンタ。思わせぶりなこと言って、異界人の方が大事なくせに」
この期に及んで軽口を叩くディンゴに、レオンは呆れて鼻を鳴らす。
「誓えないなら、本当に殺すぞ」
「できるのか?アンタに」
レオンは黙って、ディンゴの首に黒曜石を押し付ける。ディンゴは喉を鳴らし、冷や汗を垂らしながらも、嘲笑う。
「――――ああ、そうだな。アンタはやるといったらやる男だ」
「わかってるなら今すぐ誓いを立てろ」
「立ててもいいけど、オレはそれを破るぜ」
「お前は破らない」
レオンは断言する。
「おれへ誓う言葉を、お前は絶対に破らない」
「……自惚れすぎだろ」
ディンゴはどこか泣き顔にも見える笑みを浮かべ、そうだな、と呟いた。
「アンタにつまんねえ嘘はつきたくないからな。――――でもおれは誓わねえぜ。おれはアンタと一緒にいたい。だけど異界人とお仲間ごっこはごめんだ」
「死ぬよりもか」
「ああ。ここでアンタに殺された方がずっとマシだ」
ディンゴ顎をあげ、自らレオンに首を差し出すような仕草をする。
「生き方も死に方も自分で決める。――――アンタが教えてくれたことだろ」
「自暴自棄になれとはいってねえ」
「オレは常々、派手に逝きてえと思ってたんだ。本望だよ。アンタとこんだけやりあえて、アンタの手で死ねるなら――――それも空の上で――――これ以上ない有終の美だね」
「勝手に終わらせようとしてんじゃねえよ」
「じゃあアンタ、オレの方にきてくれるか?」
「……」
「ほら堂々巡りだ」
問答はもういいだろ、とディンゴは嗤う。
「オレにはアンタしかいないってのに、アンタはオレを選ばない。不毛だよなあ。やってらんねえよ。この先一生一人なんて冗談じゃねえや。だったらオレはここで、潔く死にたいね」
「一生一人とは、決まってねえだろ」
「独りだよ」
ディンゴは言い切った。
「独りだよ。孤独だ。ウルフはアンタとオレ、二人っきりしかいねえんだから」
「ウルフ以外のやつがいるだろ」
「別の生き物じゃねえか」
「全員が全員、お前を差別したわけじゃねえだろ」
「まあな。座長がいたし――――ノヴァの野郎も、アイツも――――オレの肌の色なんかなんとも思ってない連中はいる。でも、ただそれだけさ。連中はオレに石を投げないだけで、オレと同じ目線でものを見れるわけじゃない」
「同じもんを見てえのか」
「そりゃそうだろ。共有して、共感して、そうやって人は連れ合うんだ。――――けどよお、ウルフ以外の誰が、ここにこれるんだよ」
朱色と紺色が鮮やかな諧調を織りなす空。
夕日に照らされた大地。
エレヴァンと外界を隔てる、山脈と雲の厚い壁。
すべてを一望できるのは、ケタリングを得たウルフだけだった。
「誰もいねえよ。ここにはオレたちしかいないんだ。オレたちにはオレたちしかいねえんだよ。レオンだって本当はわかってるんじゃないのか?異界人はたしかに他のやつらとは違ったかもしれねえ。でも結局は、異界人の身体はふつうの人間のもんなんだろ?あいつの考え方は、ものの見方は、オレたちより他のやつらに近いんじゃないのか?」
「……どうだろうな」
「分かりあうことなんてできねえよ、絶対。いまはよくても、そのうちうんざりするはずだ。自分との違いに。見た目も考え方も違うやつと、長く一緒にいることなんて絶対にできない。本当はヤツだって、アンタの肌の色を気持ち悪いって思ってるはずだ。空ばかり見ているアンタを、イカれてるって内心バカにしてるはずだ。誰も受け入れやしないのさ、オレたちのことなんか」
ディンゴ笑いながら話しているが、声色はひどく痛切だった。
彼の喉にはこれまで味わってきた孤独が、差別が、まだ痛むほどこびりついているのだ。
「オレたちはウルフだ。空を駆ける、この世界で最も強く、自由な存在だ。地を這うことしかできねえ他のヤツらのことなんかは、なあ、きっとアンタ、そのうち置いてっちまうぜ。見失っちまうぜ。そんときアンタは、オレと同じ本当の孤独に苦しむことになるんだ」
ざまあみろ、といって、ディンゴはレオンに唾を吐きかけた。
「は……」
血の混ざった、ピンク色の唾だった。
「ははは!」
頬にべとりと張り付いたそれを、レオンは拭いもせずに、笑い出した。
腹の底から声を出して。快活に。
「ディンゴ、忘れたのか。おれはウルフを滅ぼしたんだぞ。おれを理解しなかったからという理由で」
「ウルフとは名ばかりの連中だったからだろ」
「どうだろうな。おれはそう思ったが、おれが殺した中には肌の黒いのもいたし、胸に刻印があるやつもいた」
「見た目がそれでも、空を知らねえんじゃ、半端者だ」
「空を知っていればいいのか」
「なにが言いてえんだ?」
「カイは空を知ってるぞ」
「……ああ、そういえば、異界人は空を飛べるんだったな。だけど、なあ、オレの言う空は、もっと観念的なもんなんだよ。ただ浮かびあがればいいってもんじゃねえ」
ディンゴの言葉を、レオンは笑い飛ばす。
「はは!ディンゴ、やはりお前はこっちにくるべきじゃねえな」
突然掌を返すレオンに、ディンゴは呆気にとられる。
「おれに固執するのは、もうやめろ。おれもお前を傍に置こうとは、もう考えねえから」
「……は?」
「お前がそうなったのは、おれのせいだ。だからなにをいう資格もねえと思ってたが、むしろおれのせいだからこそ、言うべきだった」
「いきなりなんだよ」
「孤独が嫌なんだろ?」
「……」
「おれもそうだった。空を飛ぶために、自由のために独りを選んだ。だが独りは窮屈だ。独りで飛ぶ空は、狭い。おれはそれを、カイと飛んで知った」
「気のせいだ、そんなのは」
「お前も誰かと飛べば分かる。――――なあ、おれと飛ぶ空はどうだった?」
「……」
「最高だっただろ?なあ、これで殺し合ってなきゃ、もっといいもんだぞ、誰かと飛ぶってのは」
「それは、アンタとオレだからだ。ウルフ以外のやつじゃ――――」
「いいや、おれ以外と飛んだって、同じように感じるはずだ」
「オレも異界人と飛べってか?御免だね。アンタを絆したやつとなんか」
「別にカイである必要はねえよ」
「異界人以外に誰が空飛べんだよ」
「飛んでたじゃねえか。お前谷底に、誰とどうやって降りてきたんだよ」
「……あいつらは、ただケタリングに乗っただけだ。足としか思ってねえやつと飛んだところで、なにを分かち合えるってんだ」
「本当にそうだったか?」
「あ?」
「モノじゃねえんだ、二人とも心を持った人間だろ。ケタリングに乗って、やつら本当に、なんとも感じていなかったか?」
「……あいつらは復讐しか頭にねえよ」
「今はな。だがあいつらだって、今日いきなり乗れるようになったわけじゃねえだろ?数か月は訓練が必要だったはずだ。その間、少しでも、心を揺らすことはなかったか?」
「……あるわけない」
「本当か?よく思い出してみろ」
ディンゴは否定しようとして、言葉を詰まらせた。
レオンはほらな、としたり顔になる。
「アフィーとシェルティだって、我を忘れるくらいだったからな。もしもの時のために、おれアイツらにケタリングの乗り方を教えたが、はじめて飛んだ時は――――ふ、カイにも見せてやりたかった。ガキみてえに興奮したアイツらの顔を」
レオンは思い出し笑いを噛み殺しながら、ディンゴに訊いた。
「あの二人だって、そうだったんじゃねえか?」
問われ、ディンゴは思い返す。
無自覚に封じていた記憶の蓋を、開いてしまう。