川岸の戦い(四)
〇
マヨルカは目を開けた。
「……?」
視界はぼやけていた。
色は曖昧で、風景は溶けてあっていた。
耳鳴がひどい。鼻がつまっている。喉が痛むほど乾いている。
うまく息をすることができない。
四肢の感覚がなく、指一本動かすことができない。頭も、身体も、ひどく痺れている。
「マヨルカ」
横たわるマヨルカを、誰かが覗き込む。
大きな瞳。柔らかで癖のある、短い髪。
「マヨルカ」
鈴の音のような、高く澄んだ声が、再び少年の名を呼ぶ。
「――――姉ちゃん」
少年はかすれた声で、少女の名を呼んだ。
「髪、どうしたの?」
ラウラはいつも、長い髪を三つ編みにしていた。
それが肩口で切り揃えられていることに、マヨルカは驚いていた。
「切ったの?」
「……」
「……姉ちゃん?」
少女はマヨルカの問いに答えなかった。
ただ黙って、マヨルカを見つめていた。
「姉ちゃん?」
「……うん」
「なんか、変だ。おれ――――身体が、動かない……」
「……痛む?」
「ううん。痺れてる」
「……よかった。薬は、ちゃんと、効いてるみたいだ」
「薬……?」
なんのことだろう、とマヨルカは思った。
どうして自分は動けないのだろう、とも。
「おれ、なんで――――」
マヨルカは小さく咳き込んだ。
少女はマヨルカの胸をさすり、もうしゃべってはいけない、と言った。
けれどマヨルカは続けた。
「災嵐が――――おれ、守護霊術、発動させにいかないと――――」
少女は首をふった。
「もう、おわったよ」
「おわったの……?」
「うん。ぜんぶ、おわったんだ」
「おれ――――おれは、思い出せない――――」
「忘れちゃったんだよ。君は、とても、がんばったから」
「ちゃんと、やった?おれ」
「うん。誰よりも、君はがんばった」
「……なら、よかった」
少年は短く安堵の息をはいた。
「みんなは?テネリファは?どこにいるの?」
「みんなは休んでるよ」
「怪我したの?」
「……眠ってるだけだよ」
少女はマヨルカの両目をそっと手で覆った。
「君も、眠ったほうがいい。人一倍疲れてるはずだから」
「おれ、謝らないと。テネリファに」
「起きてからにしよう」
「謝ろうと思ってたんだ。ずっと。でもできなくて。災嵐がおわったら、絶対謝ろうって、決めてたんだ」
「テネリファは怒ってないよ」
少女は宥めたが、マヨルカは聞き入れなかった。
「おれはテネリファが嫌いになったんじゃない」
「……うん」
「でもおなじ姓は嫌なんだ」
「うん」
「泣かせたくないんだ」
「いまの君を見たら、きっとまた悲しませてしまうよ」
「泣かないで、テネリファ――――」
「もうお休み」
少女は言った。
優しい声で。祈る様に。
「君が元気になれば、テネリファもきっと、笑ってくれるはずだから」
マヨルカは小さく頷いて、目を閉じた。
少女はマヨルカの目から手を離し、おやすみ、と囁いた。
やがてマヨルカは寝息を立て始めた。
血と泥にまみれたその寝顔は、付き物が落ちたように、穏やかなものだった。
〇
マヨルカが眠りに落ちたことを確かめると、カイは呻くように言った。
「これでよかったのかな」
シェルティはカイの肩を抱き寄せ、深く息を吐いた。
「アフィーなら、殺すだろうな。きみに危害を加えた彼を、彼女はきっと許さない」
「殺す方が、優しかったかもしれない」
「……うん」
「レオンはきっと怒るだろうな」
「そのときは、ぼくも一緒に殴られるよ」
「シェル」
「なんだい」
「ノヴァはまだ、生きてるか?」
シェルティは半壊した家に顔を向けた。
二人の位置からでは、下敷きになったノヴァの姿は見えない。
「もし、まだ、生きてるなら――――」
カイはほんのわずかに躊躇ったが、覚悟を決め、言った。
「ノヴァの記憶も、消してほしい」
ラサの一族に伝わる、三種のレガリア。
代々皇帝がその証として継承してきたその三つの霊具は、もとはひとつの術具だった。
その術具が実際にどのような力を持っていたのかは不明である。
それは秩序と平和をもたらす、世界を統べるためのものであったということだけが伝えられている。
なぜ術具が三つに分けられることになったのか、その理由も明らかではない。
今ではレガリア、皇帝の象徴としてだけ、人びとに広く認識されている。
もとは時計の形をした術具だった。
それは針と留め具、文字盤の三つに分解され、王杓と宝玉、王冠へと作り変えられた。
分解はされたものの、それぞれ霊具としての機能も有している。
もちろんひとつであった頃のものとは異なるが、レガリアの名にふさわしい、現代の技術では再現不可能な、特別な機能だ。
カイの持つ王杓は、絶対の耐久性を持っていた。
物理的にも、霊的にも、壊すことが不可能な代物だ。
災嵐時に一度折れたが、折れたのは加工時に付け加えられた、いわば持ち手の部分に過ぎない。
今カイの手元にあるものさえ、骨を囲う肉である。
王杓の核心はカイの膨大な霊力の放出にも一切揺らぐことなく、今日まであり続けていた。
そしてシェルティが耳飾りとして肌身離さず持っていた者が、三つ目のレガリア、宝玉だった。
宝玉は人間の記憶を消すことができた。
霊力を込め、対象の人間の額にかざすことで、脳のある一部が破壊される。
失われる記憶の量はこのときの力加減によって決定されるが、微調整は困難であり、特定の期間や事項だけを消すことはできなかった。
それは枝を先端から燃やすようなもので、現在から過去のある地点まで、まるごと消すことしかできなかった。
シェルティはマヨルカに宝玉を使用した。
マヨルカは過去に戻った。
災嵐も、大切な人や妹弟の死も、怒りも憎しみも悲しみも絶望も、彼は知らない。
彼はまだなにも知らない、十歳の少年に戻っていた。
けれど状況はなにも変わっていない。
彼が失ったものは、なにひとつ戻ってきてはいない。
(次に、目が覚めたとき、おれはこの子に、なんて声をかけたらいいんだろう)
半壊した家の片隅で、深く寝入るマヨルカを見つめながら、カイは思った。
(目が覚めても、この子が独りなことに変わりはない)
(むしろ、忘れた分、苦しみは大きくなるかもしれない)
(おれはこの子を救いあげたんじゃなくて、違う谷底へ突き落しただけだ)
マヨルカは、シェルティが半壊した家からどうにか持ち出した睡薬で、眠りについていた。
カイは眠ったマヨルカを引きずるようにして家まで連れ帰り、傷に簡単な手当てを施した。
といっても、目立つ傷口を拭いてやることくらいしかできなかった。
家にあったものは睡薬と、樹脂でつくった止血剤が少量だけだった。
砕けた膝と、折れた肋骨。損傷の計り知れない内臓と脳には、どのような処置も施すことはできなかった。
このまま放っておけば、マヨルカはやがて死ぬだろう。
それだけ状態は悪かった。
けれど彼の寝顔は穏やかで、呼吸も落ち着いていた。
そのために、カイはマヨルカに命の危険はないと思い込んでいた。
だからこそ、ただ彼が目覚めたあとのことばかりを思い悩んでいた。
(目が覚めたこの子に、おれは会うべきか?)
(おれの口からもう一度、真実を伝えるべきか?)
(それとも、騙すべきか)
(シェルたちがおれにそうしたように……)
(……)
(無理だ)
(そんなことは、できない)
(レオンも、アフィーも、きっと許さないし、なにより)
(おれ自身が耐えられない)
(それにもし、おれみたいに、この子が過去を知るようなことがあれば――――)
カイはそこではっとする。
(そうだ)
(おれは、おれだって、忘れてたけど、ノヴァが記憶を開いたんだ)
(おれのは、ラウラの記憶だったけど)
(この子の記憶だって、ノヴァは戻すことができるんじゃないのか?)
(それじゃあ、結局――――)
「終わったよ」
カイの隣で、ノヴァに宝玉を使用していたシェルティが、言った。
「どこまで消えたか、定かではないけど――――ずっと、深くまで、使ったから、君を知らない頃には戻ってるはず――――」
シェルティは言葉の途中で倒れ込んだ。
「シェル!」
カイはシェルティの頭を抱える。
「シェル!しっかりしろ!」
「――――だい、じょうぶ」
シェルティは肩で息をしながら、言った。
「霊力を、使いすぎただけだ」
「霊切れか?いま霊力送るから―――」
「いや、いい。いま送られても、きっと受け止められない。しばらく休めば落ち着くから、少し、横にならせてくれるかい」
カイは頷いて、背の傷に触れないように、そっとシェルティを横たえた。
シェルティは睡薬を軽く吸い込むことで麻酔代わりとし、どうにか痛みを誤魔化していた。
重症の身体を酷使して、下敷きになって気絶したノヴァを引っ張り出し、宝玉を使用していた。
厳戒は、とうに超えていた。
「ごめんな、無理言って」
項垂れるカイに、シェルティは微笑みかける。
「これじゃあ今日の夕飯は、また君にお願いすることになりそうだ」
「……あの泥みたいな鍋でいいなら」
「味はおいしかったよ」
「それはシェルが整えてくれたからだ」
「味見くらいならできるから――――ああ、それよりほら、彼がお目覚めだ」
シェルティは視線をノヴァに送る。
気を取り戻したノヴァは、ぼんやりとした表情で、空を見つめている。
「ノヴァ……?」
カイが声をかけると、ノヴァは力の抜けた表情をカイに向けた。
「きみは――――」
ノヴァが口を開いた、そんときだった
「カイ!!」
渓谷に、叫び声が、響き渡った。
「カイ!!」
再び響いたその声は、上空から、渓谷に響き渡るものだった。
「レオン!?」
上を見上げたカイの目に、谷間に落下してくるレオンの姿が映った。
落下するレオンは脇にディンゴを抱え込んでいた。
周囲にケタリングは見えない。
「カイ!!」
レオンは三度、カイの名を呼ぶ。
そのときにはもう、落下する二人の身体は渓谷の中に入っていた。
地面に衝突するまで十秒とない。
カイは咄嗟に立ち上がり、レオン目がけて、王杓を投げる。
レオンは腕を伸ばし、それをつかむ。
ぐん、と、レオンの身体が揺れる。
水の中入ったかのように、レオンとディンゴの落下は速度を急速に失う。
二人は王杓にぶらさがったような状態で、ゆっくりとカイの元へ引き寄せられる。
カイは王杓を操作し、半壊した家の上に、二人を着地させる。
「――――び、びっくりした……」
二人が降り立つと、カイはそれまで止めていた息を一気に吐き出した。
レオンは横たわる三人と、脱力するカイを見て、一瞬驚きに目を瞠った。
が、すぐに大声で笑いだした。
「はははは!」
レオンはカイに王杓を投げ返す。
受け止めたそれは、生温かく濡れていた。
「っ!」
王杓は血に塗れていた。
それはレオンの血だった。
カイが放った王杓を素手で受け止めたレオンの左手は、削られたように皮膚が削げてしまっていた。
しかしレオンはまったく痛がるそぶりを見せず、ひとしきり笑ったあと、ディンゴを足元へ放り捨てた。
そして高揚を露わに言った。
「戻ってきたぞ!カイ!」
「……ああ」
カイは掌についたレオンの血を握りしめ、笑って頷いた。
レオンは満足そうに破顔する。
その足元で、ディンゴも、力なく笑った。
「はは……嘘だろ……?ほんとうに助かっちまったよ……」