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川岸の戦い(三)

「――――っ!?」

マヨルカの姿が消えると同時に、カイの腹部に、衝撃が走った。

呼吸が止まる。

視界が暗転する。

カイは気づくと、身体をぐしゃりと折り曲げた姿勢で、膝をついていた。

なにが起こったのか、理解するのに時間を要した。

呼吸はすぐに戻ったが、上澄みをすくうような、浅いものしか行えない。

視界も開けていったが、すべての景色が、双眼鏡を覗き込んでいるように遠く、そして狭い。

「うっ―――――」

カイはその場で嘔吐した。

ほとんどは胃液だったが、未消化だった桃も、わずかに吐き出された。

「おれは生きる」

口を拭う暇もなく、カイはマヨルカに顎を蹴り上げられる。

「生きるために、お前を、殺す」

舌こそ噛まなかったものの、脳震盪を起こし、カイは倒れ込んでしまう。

「そうしないと、おれは笑って明日を迎えられない」

マヨルカはさらにカイを蹴りつけようとする。

カイは倒れたまま王杓を振り上げる。

王杓はマヨルカの膝を砕く。

マヨルカはカイの上に覆いかぶさるように倒れる。

「ぐっ――――く……ころ、して、やる――――」

マヨルカはなおも呻き続ける。

「テネリファが、姉ちゃんが、望んでなくても、おれは、仇を討つ――――お前を殺すんだ。おれは、おれのために。そうしないとおれは――――おれを、許せない――――」

マヨルカは激痛に耐えながら片膝を立て、カイの首に手をかけた。

「最初は、死のうと、思った」

マヨルカはカイの首を絞める。

「でも、みんなの無念を少しでも晴らさなきゃいけないって言われて、お前はもう死んでたけど、お前の仲間を殺すことで、その代りになるからって言われて、そのために生きていくことにした」

マヨルカの力は弱く、カイが苦痛を感じることはなかった。

「復讐には力がいる。おれは強くなった。時間をかけて」

緩やかに頸動脈同を圧迫され、カイの頭は白んでいく。

「おれみたいなやつはたくさんいた。でもみんな時間が経つにつれて、復讐のことは考えなくなっていった。忘れていった。死んだ人のことも、憎しみも、過去に変えていった」

カイはマヨルカの手首をつかみ、抵抗する。

圧迫が弱まり、カイの頭に血が巡る。

「君自身は、そうは、できなかったのか……?」

カイはマヨルカに注霊する。

マヨルカの手はいるみるうちに腫れあがっていく。

けれどマヨルカは、カイの首から手を離そうとしない。

「……できたかもしれない」

マヨルカは操身霊術による反動で、すでに体内の霊流、血流が乱れていた。

カイの霊力は、すでに破裂寸前だったマヨルカの身体を、蹂躙していく。

「忘れかけてた。薄れていってた。ほかのやつらと同じように――――でも」

マヨルカの目と耳は、ほとんど潰れてしまっていた。

暴風雨の中にいるように、物体の影しか見ることができない。

轟音で耳が塞がれている。

雨で激しく叩かれているように全身が痺れている。

「でも、お前が、生きてた」

マヨルカの耳には自分の声すらも遠かった。

そのために彼は、自分の声が泣いているようにか細く震えていることに気づいていなかった。

「お前が生きてると知って……姉ちゃんが死んでたと知って……おれは、思い出した。みんなが、見てることを。凍ってく、弟妹たちの目が、ずっとおれを、見てるんだってことを」

沸騰するようだった身体の腹の奥は、心臓は、いつの間にか冷え切っていた。凍りついてしまっていた。

カイの首に触れた手だけが、ただ、燃えるように熱かった。

「テネリファの血も、まだ落ちてないんだ。ずっと熱いままなんだ。熱さに慣れて、忘れかけてたけど、でも思い出した。お前のせいで――――お前のおかげで――――」

そんな状態でなお、マヨルカは、カイの首を絞め続けていた。

カイが触れる手首は、表皮がどす黒く変色していたが、その手は決して、カイの首を離そうとしなかった。

「おれは、炭になったんだ」

マヨルカは緩く、けれど確実に、カイを死に追いやっていた。

「雨に当たっても、日を浴びても、おれはもう、もとには戻らない」

それはある人に言われたことだった。

お前は炭だ、と。

すでに死んでいるようなもので、このまま生きていても、生木のように育つこともなければ、なにを残すこともできない、と。

ただしもう一度火を灯せば、やがては灰になって消えるが、敵を焼き尽くすことができるだろう、と。

「おれをこうさせたのは、お前だ」

マヨルカは暗やみの中で、沈黙の中で、カイを焼き尽くそうとする。

「おれだけじゃない。ノヴァ様も、あいつも、先生も、みんなそうだ。みんな、お前が生きてたから、こうなっちゃったんだ。お前が死んでいれば、忘れられたかもしれないのに。ラウラ姉ちゃんが生きてれば、許せたかもしれないのに」

もうお前を殺すしかないんだ、とマヨルカは言った。

「解放されるためには。お前を殺すまで、おれたちは生きることも死ぬこともできない。お前が死ねば、救われるんだ。たくさんの人が――――」

カイは朦朧としながら、それを聞く。

「今度こそおれたちを、救ってくれよ。救世主様」

カイは半ば意識を失っていたが、少年の懇願は、その頭に響き渡った。

カイは揺らいだ。

自分が死ぬことで、救われる人たちがいるなら、そうするべきかもしれない、と思った。

「――――できない」

けれどカイは拒絶した。

自分が死ぬことで救われる人たちより、自分が死ぬことで悲しむ人たちのほうが、カイはずっと、大切だった。

カイはすでに選んでいた。

だから迷いはなかった。


「おれは生きる。君を殺してでも」


カイは少年の手首から手を離し、そっと、その胸に触れた。

マヨルカは一度大きく痙攣し、カイの上に覆いかぶさるように、倒れた。

カイはマヨルカを抱きしめた。

マヨルカの身体は小さな痙攣を何度か繰り返し、やがて収まった。

心臓はまだ動いていたが、その動きはあまりに小さかった。

カイは殺すつもりで注霊を行った。

けれどマヨルカは、かろうじて、まだ生きていた。

その手は、まだカイの首にかかったままだった。

力こそこめられていなかったが、固く硬直してしまっていた。

カイはマヨルカを抱きしめ、今度こそ止めをさすつもりで、注霊しようとした。

(――――できない)

胸に抱えたマヨルカの頭は、冷たかった。

その口から溢れる血は熱く、カイの胸を赤く焦がしていく。

(――――殺せない)

カイは嗚咽をもらした。

涙があふれてとまらなかった。

(なんでこうなったんだ?)

(どうしてこんなふうになっちゃったんだ?)

(復讐以外になかったのか?)

(生きていく理由なんて、ほかにいくらでも、見つけられるだろ)

(理由がなくたって、ただ生きているだけでも、悪いことなんて、ないのに――――)

心音と同じく、ひどくかすかなマヨルカの呼吸が、カイの胸を揺らした。

胸に抱えた少年は、泣き疲れて眠った子どものような顔をしていた。

(――――そうだよな)

(できるわけ、ないよな)

(まだ、こんな、子どもなんだ)

(おれは、おれには、みんながいた)

(みんなが生きてたから、おれはなにも恨まずにいられた)

(生きていこうって思えた)

(でも)

(でもこの子は、独りだ)

カイの胸に染み込んだマヨルカの血が、冷えて、固まり始める。

カイの服は、自らのものではない血で汚れきっていた。

(独りじゃ、耐えきれないよな)

自分を庇って、シェルティはその背を矢で穿たれた。

シェルティの血を浴びて、カイは目の前が真っ暗になった。

シェルティの死が頭をよぎり、底のない暗闇に落ちていくような感覚を味わった。

(あの瞬間シェルが死んでたら、おれは、二度と地に足をつけることができなくなってた)

(マヨルカは、できなかったんだ)

(五年前からずっと、落ち続けてたんだ)

カイには一緒に落ちようとしてくれる人がいた。

手を差し伸べてくれる人が。

ひき上げてくれる人が。

(でも、この子には、いなかった)

(そんなの、復讐に縋るしかないよな)

(無理だよな)

(ただ落ち続けるだけなんて)

カイは空を見上げた。

夕刻がすでに近かったが、初夏の日は長く、空はまだ一面澄んだ青色をしていた。

その中を、巨大な入道雲が、ゆっくりと流れていく。

「たすけて」

カイは祈る様に、呟いた。

「誰か、この子を、たすけてくれ……」


「――――いいよ」


そう答えたのは、シェルティだった。


「シェル……」

手負いのシェルティは、這いつくばって、カイのもとまでやってきた。

「聞いていたよ、きみたちのやり取り」

シェルティはカイの首からそっと、マヨルカの指を外していった。

どちらも傷つくことがないよう、ゆっくりと、丁寧に。

「彼は、辛い思いをしたんだね」

「ごめん、おれ――――おれ、お前らとのことを第一に考えるって決めたのに、そのためならなんだってできるって言ったのに――――」

「わかってるよ」

シェルティは微笑んだ。

「きみは底抜けに優しいからね。きっとこうなると思っていたよ」

彼を殺せないんだろう?と、シェルティは優しく訊ねた。

「救ってやりたいんだろう?」

カイは頷いた。

「でも、どうすればいいのかわからないんだ」

カイは笑おうとしたが、顔に皺がよるだけで、口角を持ち上げることもできなかった。

「わかんないよ。どうしたら、この子は救われる?また笑える?」

「やり直せばいい。またいちから、すべてを始めればいいんだ」

「それができれば……」

「できるよ」

「え……?」

シェルティはマヨルカの身体を、その膝のうえに抱きかかえた。

そしておもむろに、右の耳についた玉盤の装具を外すと、マヨルカの額に押し付けた。


「きみが殺せないのなら、ぼくがこの子を、殺してあげる」

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