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川岸の戦い(一)


谷底に降りたカイとシェルティは、廃材の家を目指し、走っていた。

川岸は恐ろしく静まり返っている。

水の流れはあまりにも緩やかで、飛沫の音ひとつない。

風は止み、葉擦れの音も、鳥や虫の声も絶えている。

不自然なほどの静けさに包まれた谷底には、二人の足音と、荒い息遣いだけが大きく響く。

家へ急ぐ二人の足取りに迷いはない。

しかしその目線は絶えず四方に振られている。

「いない、な?」

カイは後方を振り返りながら言った。

「ああ。こちらの方に来ていない、と思いたいところだけど……」

シェルティは岩陰を注視しながら眉間に皺を寄せる。

二人は家に急ぎながらも、谷底に残っているはずのノヴァと黒衣の男を警戒していた。

自分たちがまた谷に戻ったことを知れば、まず間違いなくまた襲いかかってくるだろうからだ。

「まさか、もう谷から出たとか?」

カイは崖の上に視線を向けながら呟く。

それはカイにとって最も望ましくない状況だった。

もしなんらかの方法でノヴァと黒衣の男が谷底を出たとして、危険が及ぶのは上に一人残ったアフィーだ。

「大丈夫、だよな……?」

カイは最悪の可能性を握り潰すように、腰に巻いたオーガンジーを握りしめる。

「心配はいらない」

カイの焦燥を察したシェルティは、励ますように、しかし眉間の皺はそのままに、言った。

「ケタリングでもない限り、そんな短時間でここから出ることはできないよ。それにノヴァは手負いだ。まだきっと下にいるだろう」

シェルティは前方に見えてきた廃材の家を睨みつけながら続ける。

「とにかく武器だ。きみの王杓と、それほど多くはないが睡薬も出そう。それだけあればすぐに決着をつけられる」

言いつつも、シェルティの表情に余裕はない。

カイとは別の懸念を、シェルティは抱えていた。

それは谷に残った二人が、家に入り込んでいるのではないかという懸念だ。

敵を逃し、すぐにあとを追えないとなれば、まず態勢を立て直すことに時間を割くだろう。ノヴァの傷の処置も急ぐはずだ。

このなにもない谷底で、自分たちの拠点を利用される可能性は高いと、シェルティは考えていた。

家まであと十メートルと迫ったところで、シェルティはカイの肩をつかんだ。

「家の中に二人がいるかもしれない」

「……!」

カイは焦りを強くする。

「でも……中にはいらないと」

「ああ。武器がないことには話にならない。とにかく慎重に行こう」

二人は無言で頷き合い、その場で軽く息を整えると、忍び足で裏口へ向かった。


壁にぴたりと身体をつけ、窓からそっと、家のなかを覗き込む。

窓は朝に四人が家を出たときのまま、開け放たれている。

家の中は静かで、物音ひとつしない。

カイはシェルティに目配せをする。

シェルティは頷き、裏口から家の中にそっと入りこむ。

家の中には、誰もいなかった。

シェルティはほっと息をつき、壁に立てかけられていた王杓をカイに投げ渡した。

「杞憂だったよ」

カイも肩の力を抜き、急ごう、と言った。

「待って、いま睡薬をとってくるから」

シェルティはそう言って、土間に一歩踏み出した。

そして気づいた。

土間に、布の切れ端がひとつ、落ちていることに。

まだ色鮮やかな血がしみ込んだ、その切れ端を目にした瞬間、シェルティの心臓は大きく跳ねた。

「カイッ――――!」

シェルティは叫ぶと同時に、裏口にいたカイに飛びついた。

「っ!?」

カイの小さく細い身体は、当然シェルティを受け止めることなどできず、背中から地面に倒れてしまう。

「うっ――――!」

激しく背を打ったカイは、シェルティに覆いかぶされたまま、呻く。

「くっ――――」

シェルティもまた、くぐもった声で呻く。

「――――?」

カイは下腹部に熱を感じ、手を這わせる。

腹部は濡れていた。

熱く、どろりとした液体で。

カイは息を飲み、腹部から手を引き抜く。

手は赤く濡れていた。

しかしカイの腹部に痛みはない。

カイの全身から、血の気が引く。

「シェル!」

カイは叫び、シェルティの下から這い出す。


「っ――――」


カイは絶句する。

倒れたシェルティの背には、深々と、一本の矢が突き刺さっていた。

カイは家の中に目を向ける。

裏口の対面にある窓の外に、弓をつがえたノヴァの姿が見える。

カイと視線が合うと同時に、ノヴァは矢を放つ。

カイは咄嗟にシェルティに覆いかぶさった。しかし矢は狙いを大きく外れ、窓枠に突き刺さる。

ノヴァは苦痛に表情を歪め、左手をだらりと下げる。

布をきつく巻き付けた左手から、血が滴り落ちる。

これ以上弓をつがえることはできないと判断し、ノヴァは弓矢を捨て、駆けだした。

「シェル!」

カイは起き上がり、シェルの肩を揺する。

「う……」

シェルティの返事はおぼつかない。

カイはシェルティの脇に腕を入れ、持ち上げようとする。

しかしカイの細腕では、半身を起こすことだけで精いっぱいだった。

「あっ」

カイはシェルティの血で足を滑らせ、転倒してしまう。

「っ!」

転倒したカイの上を、すさまじい速度で、なにかが通り過ぎる。

「――――運のいいやつめ」

カイは反射的に、声のした頭上へ王杓を向ける。

霊力をこめたカイの王杓は、振り下ろされた長杖の一撃を弾いた。

「――――っ!」

長杖を振り下ろしていた黒衣の男は、反動で数メートル後方へ飛ばされる。

同じように霊力をこめた杖の衝突だったが、カイの圧倒的な霊力と、その出力に耐える王笏は、男の一撃など意にも介さなかった。

山羊と犀が角をぶつけ合うようなものだ。

長杖が折れなかっただけ幸運と言えるだろう。

「カイ!」

息つく間もなく、ノヴァがカイに突撃してくる。

ノヴァは窓枠から家に入り、土間を突っ切って、カイのもとへ駆け寄ってくる。

両手にひとつずつ、矢が握られている。

ノヴァは右手に持った矢を振りかぶる。

その切っ先が向けられているのは、カイではなく倒れ伏すシェルティだった。

「や、やめろ!」

カイ両手を広げ、シェルティの盾になろうとする。

ノヴァはためらいなく矢を投擲する。

放たれた矢の勢いは弱い。

しかし狙いは正確だった。

矢はカイの髪をかすめ、シェルティの肩を浅く抉った。

「ああっ!」

シェルティは短く悲鳴をあげる。

「シェル!」

カイはシェルティに視線を向ける。

「カイ、まだ――――」

シェルティは震える指で、カイに迫るノヴァを指さす。

カイはノヴァへ視線を戻す。

ノヴァはもう一本の矢を振りかぶっている。

狙いはやはりシェルティだ。

「やめろって――――言ってんだろ!」

カイはありったけの霊力をこめた王杓で、廃材の家を殴りつける。

バンッ!

カイの殴った壁は、乾いた破裂音と共に砕け散る。

壁と共に梁も砕け、屋根の一部が落ちる。

「っ―――――」

ノヴァは倒壊に巻き込まれ、下半身が屋根の下敷きになる。

「――――まだ――――だ――――」

ノヴァはカイに手を伸ばそうとするが、痛みと衝撃に耐えきれず、気を失ってしまう。

「ノヴァ!」

カイは青ざめ、ノヴァを助け起こそうと一歩踏み出す。

「――――っ」

しかしすぐに思い留まり、ノヴァに背を向け、シェルティに向き直った。


「シェル!」

「カイ……」

シェルティは閉じていた目蓋をわずかに持ちあげる。

「怪我は……?」

「おれより自分の心配しろ!」

「ぼくは、平気だ……」

「そんなわけないだろ!」

カイは瞳を潤ませて怒鳴る。

シェルティは二本の矢に抉られていた。

一本は刺さることもなく、肩を浅く裂くに留まったが、右の肩甲骨の下に刺さった一本は深く、鏃がほとんど肉に食いこんでしまっていた。

「い、いま抜くから――――いや、抜かない方がいいのか……?」

「……抜いてくれ」

「わ、わかった」

カイはそっと矢を引き抜く。

鏃と共に血が噴き出し、シェルティはびくりと痙攣する。

「シェル……!」

「……いいからっ、抜いて」

息を荒げ、脂汗を流しながら、シェルティはカイに指示する。

「一気に引き抜くんだ。抜いたら、傷口を、固く縛ってくれ」

カイは頷いたが、その手は大きく震えていた。

矢を抜いた瞬間、今以上に血が吹き出したら。

シェルティが死んでしまうようなことがあったら。

カイは恐怖で、すぐに動くことができなかった。

「カイ」

そんなカイに、シェルティは微笑みかける。

それは眼尻も唇の端も痙攣した、ぎこちない笑みだった。

「ぼくを死なせたくないなら、やるんだ」

カイは目を瞠った。

「……死なせるかよ」

カイは深く息を吐き、矢を握った。

「抜くぞ」

「ああ」

シェルティは自らの服の袖を噛んだ。

カイは矢を抜いた。

背が大きくのけ反る。

鮮血が飛び散る。

「……っ」

シェルティは糸が切れたようにぐったりと倒れ込んだ。

呼吸は浅く、震えもわずかだ。

カイは腰に巻いたオーガンジーを、その背に急いで巻き付けてやる。

矢を抜いたあとにできた穴は親指の爪ほどの大きさしかなかったが、血は勢いよくあふれ出し、瞬く間にオーガンジーを赤く染めあげる。

「シェル!」

「……だいじょうぶだ」

シェルティはかすれた声で答え、起き上がろうと肘をつく。

「動いちゃだめだ!しばらくはこのまま――――」

言いかけて、カイははっと顔をあげる。

その目に、一度弾き飛ばした黒衣の男が、カイたちのもとへ駆け寄ってくる姿が映る。

「くそっ……!いい加減にしろよ……!」

カイは王杓を握りしめ、立ち上がる。

「シェル、動くなよ!」

カイはそう言い残すと、男の方へ向かって駆け出す。

黒衣は片足を引きずっていた。

額から血も流れている。

カイに弾き飛ばされた衝撃で、全身を強く打ち付けたのだ。

しかしその目は未だ憎悪に燃え滾っていた。

指を失くしてなお、弓を握ったノヴァと同じだった。

怒りで、目も耳も塞がってしまっているのだ。

彼らには自身を冷静に見つめることはおろか、身体の悲鳴さえ聞こえなくなっていた。

「ふざけんなよ!」

そしてカイもまた、今では同じ怒りに燃えていた。

「おれが憎いんだろ!?じゃあおれだけを狙えよ!」

カイは王杓を投げつける。

王杓は長さ一メートル、重さ一キロにも満たない小ぶりな杖だった。

しかしカイの霊力を伴った状態で放たれたそれは、砲弾のような破壊力を持っていた。

先の一撃で王杓の脅威を思い知っていた男は、安易に受けることはせず、ほとんど地に伏せる様にして、大げさにそれを避けた。

彼は理解していた。

王杓にかすりでもすれば、再び吹き飛ばされてしまうだろうということを。


ガンッ!


王杓は男の後方にあった岩を直撃する。

地面が揺れ、岩が砕ける。

男は怯むことなく立ち上がり、この機を逃すまいとカイに突撃する。

「死ね!」

男は叫びながら、長杖をカイに振り下ろす。

カイは見えない紐を手繰る様に腕を引く。

岩を砕いた王杓が吸い寄せられるように、カイのもとへ跳ね返ってくる。

キンッ――――

男の振り下ろした長杖を、間一髪のところで、王杓は受け止める。

引き戻したばかりで霊力を充分こめられていない王杓は、長杖を弾くことができない。

カイは脆弱な腕力を振り絞り、どうにか男と鍔競り合う。

「くっ――――!」

じりじりと、カイは押されていく。

押し返すためには王杓に再び霊力を込めなければならないが、注霊に力を割くだけの余裕が、いまのカイにはなかった。

少しでも力を緩めれば一気に畳み掛けられてしまう状態で、カイはただ、歯を食いしばって耐えることしかできない。

「この――――!」

黒衣の男も長仗にあらん限りの力を込めていたが、カイを簡単に押し切ることは出来なかった。

カイが腕力だけで抵抗していたのであれば、赤子の首を捻るよりも容易く、男はカイを叩き伏せることができただろう。

男が膠着状態を余儀なくさせられる理由は、長杖と王杓の強度の差にあった。

不十分とはいえ、王杓にこめられたカイの霊力は、男が長杖にこめたものをはるかに上回る。

例えるなら王杓は巨大な鉄柱だった。

おまけにそれはただ太く頑丈なだけの鉄柱ではない。

刃物のように鋭く、表面が赤くなるほどの熱を放っている代物だ。

対する男の長杖はせいぜい木刀といったところだった。

ただ衝突するだけでは簡単に折れてしまっていただろう。

だが男には卓越した霊操能力があった。

男は長杖を通して王杓に霊力を流し込み、カイの霊操を妨害していた。

カイの霊操を乱すことで、どうにか男の長杖は、王杓と渡り合っていた。

「お前さえ―――――」

男は震える声でカイに悪態をつく。

「――――お前さえいなければ、テネリファは――――みんなは――――!」

「テネリファ……?」

どこかで聞き覚えのある名前だった。

しかしそれが誰の名か、カイはすぐに思い出すことができなかった。

「殺してやる」

一筋の涙が、少年の頬を伝う。

「ずっと悔やんでた。お前をあの場で殺さなかったことを。おれはこの手で、みんなの仇をとらなきゃいけなかったのに、お前は他のやつらに殺されて、おれは、おれは、みんなの無念をこの手で晴らすことができなかったから。――――でも」

少年は目を大きく見開く。

「でも、お前は生きてた」

濃い灰色に、少女となったカイの姿が映る。

「最悪だ。仇を討てると思ったのに、それなのに、お前は――――」

ぱきっ、と長杖にひびが入る。

少年はそれに気づいていながらも、長杖にさらに力を加え、カイを一歩後退させる。

「――――ラウラ姉ちゃんまで奪うなんて!」

それを聞いたカイは、後頭部を殴打されたような衝撃を受ける。


ラウラを姉と呼ぶ人間。

それは彼女と同じ、西方霊堂の学童である子どもたちだけだ。




カイはラウラの記憶で、彼らをよく知っていた。

多くが捨て子か孤児だった。

特別霊操の才があったために、西方霊堂に引き取られ、技師として育てられていた。

遊ぶことも贅沢も許されず、修練に明け暮れる毎日だったが、彼らはみな前向きだった。

いつか人の役に立てるようになりたいと、みなが口を揃えていた。

そんな子供たち中で、最も霊能力が高く、努力家で、仲間思いだったのが、彼だった。

幼いころは寂しがり屋で、よくラウラに甘えていたが、学童の中で自分が年長になると、年下の子どもたちの面倒をよく見る、よき兄となっていた。

彼は誰よりも、きょうだいたちを大切に思っていた。

しかし災嵐で生き残ったのは彼だけだった。

他の子どもたちはみな災嵐の渦中に死んでしまった。

彼はなにもできなかった。

むしろ助けられてしまった。

テネリファ、自分より二つ年上だが、臆病で泣き虫な少女によって。

彼にできたことは、子どもたちの死体を守ることだけだった。


カイの脳裏に、ラウラの記憶が蘇る。

荒廃した南都。

その中央、かつて鍾塔が立っていた場所に、一列に並んで座る子どもたち。

その中で、ただ一人だけ生きていた少年。

絶望に打ちひしがれたその表情は、五年たった今でも、なにひとつ変わっていない。


「――――マヨルカ」


カイは膝を折り、大粒の涙をこぼして、呟いた。

学童の、たった一人の生き残り。

それが黒衣の男の正体だった。

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