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雑林の戦い(二)


木の根元で燻っていた火が、ようやく幹を焦がし始めた、そのときだった。

「ようやくお出ましか」

枝葉の隙間に隠れていたアフィーが、ラリュエの前に姿を現した。

煙に巻かれ、その顔色はわからない。

けれど首をがっくりと項垂れさせた様子から、アフィーがもう限界に近いものだと思い、ラリュエは唾を飛ばした。

「そこで死なれてはわしもこやつらも腹の虫がおさまらない。もう限界だろう?さっさと落ちてこい!」

ラリュエの言葉に従うように、アフィーは足場の幹を蹴った。

落ちた。

ラリュエははじめ、そう思った。

けれど次の瞬間に、それが過ちであることに気づいた。

落ちたのではない、跳んだのだ、と。

なぜならば炎の燃え盛る木の根元へ落ちるはずだったアフィーの影が、煙を突き破り、まっすぐラリュエのもとに向かってきたからだ。

「っ!?」

ラリュエは声をあげることもできなかった。

示せた反応は、精々目を見開くことくらいだった。

木から跳んだアフィーは、大砲のごとくラリュエに体当たりをした。

ラリュエがもし地面に立っていたならば、その一撃で絶命していただろう。

アフィーにはそれだけの勢いがあった。

しかしラリュエは狼狗に跨っていた。

他の四頭とは異なり、人を乗せるために訓練された個体だ。

人を見ても涎を垂らすようなことはなく、大人しく順順なその狼狗は、主人の危険を察知し、咄嗟にその身を捻った。

狼狗のおかげで直撃は免れたラリュエだったが、狼狗の咄嗟の動きに体勢を崩し、またアフィーの身体が肩を掠めたことで、狼狗の背から転がり落ちてしまう。

「な、な、なんだい……!?」

地に這いつくばったラリュエは、相対するアフィーの姿を見て、全身に鳥肌を立てた。

歯をむき出しにし、目を血走らせ、全身に血管を浮き立たせたその姿は、正気を失った狼狗よりよほど獣じみている。

アフィーは両手で短刀を握りしめ、腰の位置に構える。

そしてラリュエに向かって突撃する。

獣のように低い姿勢で。

獣のような速度で。

それは老いた女に反応できる速度ではなかった。

代わりに動いたのは、やはりラリュエを乗せていた狼狗だった。

狼狗はラリュエの前に出て、アフィーに牙を剥いた。

アフィーは倒れるように狼狗の懐へ滑り込み、その上腕へ短刀を突き立てる。

狼狗は短く喉を鳴らし、片足をついた。

アフィーはすぐさま短刀を抜き、体勢を崩した狼狗を蹴りつける。

体長二メートル、足の太さだけでアフィーの腰ほどもある狼狗は、いとも簡単に倒されてしまう。

「バケモノ……」

とても人の身とは思えないその力に、ラリュエは思わず恐怖をもらす。

残りの四頭の狼狗も、いっせいにアフィーに襲い掛かった。

仲間の血を見て、彼らの興奮はさらに高まっている。

しかしアフィーは襲い来る四頭をも圧倒した。

狼狗たちは頭に血が上りすぎていた。

攻撃性は高く、獰猛だったが、冷静さを完全に失っていた。

アフィー同じく、彼らも肉体のタガが外れた状態にあった。

しかし彼らの力が最も本領されるのは、集団での狩りだ。

標的を定め、全員で追いこみ、確実に仕留める。

そこに必要なのは力ではなく、連携と頭脳だ。

長時間獲物を追い回すことで相手を疲弊させる。自分たちの有利な場所へ追い込む。ひとりが相対している間に囲い込み、一斉攻撃を仕掛ける。

狼狗はそれができるからこそ、熊や虎をも仕留めることができる、エレヴァンにおける大地の王者だった。

彼らの強さは個ではなく集団であることにあった。

だがアフィーに襲い掛かる狼狗たちには、すこしの連携もなかった。

彼らはただアフィーを食うことしか考えていなかった。

違いを押しのけ合いながら大口を開けて迫ることしかできなかった。

一方のアフィーは、冷静だった。

獣のような見た目と戦い方ではあったが、頭は冷え切っていた。

アフィーは狼狗を最小限の動きで避けた。

決して距離を取らず、混戦状態を維持したまま、その爪を、牙を、躱していく。

そして躱しながら、狼狗の急所を傷つけていった。

目を、鼻を、口を、足のつけ根を。引き裂き、突き上げ、抉った。

繰り返し、何度も。


一人と四頭はもつれ合う。

足元にはやがて血だまりができる。

そのほとんどは狼狗の血だが、少なからずアフィーの血も混ざっている。

彼らの背後では木がごうごうと燃えている。

熱気の中で、血と、汗のにおいが膨れ上がる。

狼狗でなくとも嗅ぎ取れるほど、強烈な臭いだ。

炎と、その臭いのせいで、殺し合う彼らのもとに近寄ってくる生き物は、羽虫の一匹いない。

しかし殺し合うアフィーと狼狗はもちろん、ラリュエもまた、嗅覚が麻痺しているかのように、臭気のためには眉ひとつ動かせなかった。

ラリュエは目の前で繰り広げられる殺し合いのあまりの惨たらしさに、けしかけた当事者でありながら、呆然自失として、震えていた。

アフィーも狼狗も全身が真っ赤に染まっていた。

短刀は刃がこぼれ、血にまみれ、すでにものを切ることができなくなっていた。

アフィーは今では短刀を鈍器として用いていた。

狼狗の骨を砕き、傷口を抉り、広げるための得物に使い方を変えていた。

狼狗は一頭、また一頭と倒れた。

死んだものはいないが、立ち上がることのできるものもまたいなかった。

最後の一頭は、口が裂け、顎がだらりと落ちた状態で、アフィーに噛みつこうとする。

アフィーはそれを避けず、むしろ大きく開いた狼狗の口に、獲物ごと腕を差し入れた。

狼狗に、アフィーの腕を噛み千切る力はない。

喉の奥に短刀を突っ込まれた狼狗は、アフィーに覆いかぶさるようにして倒れる。

倒れた勢いで、短刀はさらに喉の奥へと押し込まれる。

アフィーは短刀を手離し、狼狗の口から腕を引き抜く。

泡を吹く狼狗の下から這いずりだし、ゆっくりと立ち上がる。

「ひっ!」

ラリュエは尻餅をついたまま後ずさる。

もはや彼女を守るものはなにもない。

血に塗れたアフィーは、獣のように荒い息遣いをしている。

致命傷には至らなかったものの、アフィーの全身は、狼狗の爪や牙で何か所も引き裂かれていた。

乱れた髪と両腕をだらりと垂らしながら、アフィーはじっとラリュエを睨み付けた。

「く、く、くるな!」

ラリュエは裏返った悲鳴をあげる。

アフィーは躊躇うことなく、ラリュエに突撃する。

――――ヴォンッ!

しかしまたも、アフィーは狼狗に阻まれる。

アフィーに上腕を貫かれた狼狗は、力を振り絞り、三本の脚で地面を蹴った。

「うっ!」

アフィーは狼狗の体当たりを避けることができず、血だまりの中へ突き飛ばされる。

「ううっ……!」

アフィーは受け身も取ることができず、全身を強打し、動けなくなる。

「……?」

ラリュエはおそるおそる立ち上がり、倒れたアフィーに近づいた。

アフィーは仰向けに倒れたまま、ほとんど白目を剥いて、激しく痙攣している。

時間切れだった。

アフィーはもう、自分を見下すラリュエに、拳一つあげることもできなかった。


「――――はっ」

ラリュエは未だ顔に冷や汗を流しながらも、口角をあげた。

「ははははは!」

ラリュエはアフィーの顔を蹴りつける。

「どうした、バケモノ!終わりか!?」

老女の蹴りは遅く、大した威力は無い。

しかしアフィーはそれを避けることも、歯を食いしばることもできず、口の端に血を滲ませる。

「思い出した、そうだ、お前はダルマチアの門下だったな。だがいくら操身霊術といえど、あれだけバケモノじみた動きをすれば、ただではすむまい」

ラリュエはアフィーの胸に足を置き、そこについた傷を踏みにじる。

「ブリアード・ダルマチアめ。厄介なことをしおって。おかげで狼狗がみんなダメになってしまった」

言葉とは裏腹に、ラリュエは笑顔のままだった。

勝利を確信した彼女は、それまでの恐怖から一転、もとあった憎悪と加虐心を取り戻していた。

「おい、まだ生きているんだろう。異界人はどこに逃げた?」

ラリュエはアフィーの胸を踏みつけながら問う。

「崖を崩したのはお前ではないんだろう?異界人か?ケタリングか?他の連中はどこに行った?」

アフィーは口を開くが、そこから漏れるのは短い嗚咽だけだった。

「知らないのか?――――ああ、お前、捨てられたのか」

ラリュエは声をあげて笑う。

「まあそうだな、お前のような女は、こうやって使い捨てにするくらいしか手元に置いておく理由は無いか!」

ラリュエの言葉に、アフィーもまた笑った。

声こそたてなかったが、それまで苦痛に震えていた口角は、たしかにもちあげられていた。

「……ない」

かすれた声を、アフィーは絞り出す。

「カイは……わたしを……見捨てない……」

ラリュエは笑いをぴたりととめ、ではどこへ行った?と言った。

アフィーはもちろん答えない。

不敵に笑みを浮かべ続けるだけだ。

「こやつめ……!」

ラリュエは怒りにわななく。

「このっ、ケダモノめ!厄病ものめ!恩知らずめ!恥知らずめ!居場所はどこだ!?言え!!死にたくなければ、吐け!!」

「おまえに……わたしは……殺せない……」

「そのざまでなにを言うか!」

ラリュエはアフィーの顔を再び蹴りつける。

「ぐっ……!」

「どうした!?さっきまでの威勢はどこへいった?!死にかけの鼠でも猫を噛むぞ?!」

ラリュエはアフィーの髪をつかみ、顔を無理やり起こさせる。

アフィーは痙攣し、震える目蓋をどうにか持ち上げ、ラリュエを睨み付ける。

「やはり獣だな!どんな人間でもこれほど死に様の醜いものはいまい。――――だがまだ殺しはしないぞ。私の本命はお前じゃないからな」

「……!」

「見捨てられたのではないのだろう?ならお前は、いい生餌になる」

ラリュエは笑みを深め、アフィーの耳に口を近づけた。

アフィーが聞き漏らすことのないように、大きな声ではっきりと、言った。

「お前を餌に異界人をおびき出してやる。そしてお前の目の前で、やつを嬲り殺してやる――――」

お前を殺すのはそのあとだ、ラリュエはそう続けようとしたが、声に出すことは出来なかった。


ラリュエの口から漏れたのは、声ではなく、血だった。


「――――あ?」

ラリュエは自身の首から熱湯が噴き出たような感覚を覚える。

「あ、あ――――」

ラリュエの首から出たのは、当然、熱湯ではない。

彼女自身の血だ。

「ああああ!」

ラリュエの喉を引き裂いたのは、噛み千切ったのは、アフィーだった。

限界を迎え、虫の息だったはずのアフィーのどこにそんな力が残されていたのかはわからない。

アフィーは噛み千切ったラリュエの肉片を吐き出し、再びその場に倒れ込んだ。

そして歯も舌も真っ赤に染まった口を大きく開いて、吼えた。

獰猛で、残忍で、獣という言葉がぴったりな咆哮だった。


「ああ……!」

ラリュエは自身の喉を押さえるが、出血は止まらない。

「ああ……」

ラリュエはアフィーに折り重なる様にして倒れる。

狼狗とアフィーのつくった血だまりに、ラリュエの血が混ざる。

「……」

ラリュエは呪いの言葉を吐こうとする。

怒りを。憎しみを。嘆きを。

しかしなにひとつ言葉にすることはできない。

その喉からは、皺にまみれた枯れ木のような身体から出ているとは思えないほど、鮮やかな血が流れ出るだけだ。

「……!」

そんなラリュエの傍に、彼女をずっと乗せていた狼狗が、すり寄ってきた。

右前足に力の入らない狼狗は、顎を地につけ、みっともなく這いずりながら、主人のもとへ寄った。

クゥ……。

ラリュエは大きく目を見開く。

狼狗は主人の顔に鼻を摺り寄せ、仔狗のような声で鳴いた。

「……ああ」

ラリュエの顔から、力が抜けた。

その瞳を深い悲しみに揺らしながら、老いたラプソの女は、静かに目を閉じた。







アフィーは目を開いた。

視界は霞んでいた。空の青さと、初夏の木々の緑が、ほとんど溶けてしまっている。

左耳は聞こえず、燃えるような痛みがあった。

胸や腹、背も同様に、焼き鏝を押し付けられているかのような痛みがあった。対して手足は冷え切っていた。

動かすことはできず、ひどい痺れを感じるばかりだった。

鼻は血で塞がり、呼吸は口からしかできなかった。

喉がひどく乾いていた。

そんな状態でも、アフィーは動いていた。

仰向けのまま、地面をゆっくりと這い進んでいた。

「おまえ、なんで……?」

アフィーがかすれた声を出すと、狼狗はアフィーの襟首からそっと口を離した。

アフィーを動かしていたのは、三本足の狼狗だった。


ラリュエがこと切れると同時にアフィーはその場で気を失ってしまった。

木は燃え盛り、血だまりの上にも火の粉が降り注ぎはじめていた。

三本足の狼狗は、火の手からアフィーを遠ざけようとしていた。

「なんで、わたしを……?」

狼狗は虫の息とはいえまだ生きていた四頭の兄弟ではなく、主人の亡骸でもなく、敵であるはずのアフィーを選んで助け出していた。

血だまりに残った者たちは、すでに炎に巻かれている。

「なんで……」

狼狗は言葉を持たない。

狼狗はただじっとアフィーを見つめ、その顔を舐めた。

頬についた泥を、鼻に詰まったアフィーの血を、額についた兄弟の血を、口に着いた主人の血を、狼狗は丁寧に舐めとった。

アフィーは涙を流した。

「おまえは、強いな」

狼狗を抱きしめたがったが、身体が動かなかったので、その鼻先を甘噛みした。

「強くて、やさしい。――――おかあさんに、そっくり――――」

アフィーはそう呟くと、再び意識を失った。


狼狗は再びアフィーの襟首を咥え、さらに火元から離れようとする。

しかしふいに立ち止まると、耳を立て、茂みのある一点を睨み付けた。

しばらくすると、茂みをかき分けて、一頭の馬が現れた。

小柄で、足の太い馬だった。

「これは……!」

馬の背から男が飛び降り、狼狗のもとへ駆け寄ってくる。

狼狗は警戒をとき、男に引き渡すように、アフィーの傍から離れた。

「やはり二手に分かれるべきではありませんでした――――ケタリングはすぐに見失ってしましましたし、やはり私も、騒ぎが聞こえた時点で一緒に戻れば――――しかし――――」

男はアフィーにまだ息があることを確かめ、それから嬉しそうに言った。


「――――これはいい人質になりますね」

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