谷底の戦い(五)
〇
谷底で、男は瓦礫に埋まっていた。
身動きはとれなかった。身体の感覚もなかった。
なにが起こったのか、男は理解していなかった。
自分が瓦礫に埋まっていることさえ、気づいていない。
男はただ、空を見ていた。
瓦礫の隙間から、わずかにのぞく、小さな空。
薄い雲がかかる、ぼんやりとした青色は、伴侶と娘の瞳の色と同じだった。
男はふたりの名を口にしようとした。
けれど彼には言葉を発する力は残っていなかった。
必ず仇をとる。
男は心中で家族に誓う。
必ず復讐を成し遂げてやるからな、と。
やがて男は死んだ。
瓦礫の下で、その瞳は見開かれたままだった。
こと切れてなお、家族の瞳と同じ色の空を、彼は見つめ続けていた。
〇
土煙にまみれながら、シェルティとカイは谷底へと下降していく。
二人はそれぞれオーガンジーの両端を握りしめている。
オーガンジーは固く帆をはり、二人の落下をゆるやかな下降へ変えている。
とても二人の人間を支えられるとは思えない薄手の平織物だったが、アフィーの力強く繊細な霊操を受けることで、落下傘として機能することができた。
無事なのは、二人だけだった。
崖の上にいた十二人の復讐者たちは、崖と共に谷底へ落下していった。
土煙が収まると、カイは眼下に、崩れた崖が谷底で山と積み重なっている様子を捉えた。
瓦礫の上に、あらぬ方向に四肢が折れ曲がった老人と女の身体が見える。
それ以外の者たちはみな下敷きになったのだろう。
瓦礫の隙間から半身や足先が飛び出して見える者もいるが、多くは瓦礫に完全に押しつぶされてしまっていた。
カイとシェルティは瓦礫の脇に降り立った。
カイは着地と同時に崩れ落ち、蹲った。
「カイ……」
シェルティはカイの肩を支えようとするが、カイはだいじょうぶ、とそれを拒否する。
シェルティは頷き、カイが自ら立ちあがるのを待った。
カイは地面に額をこすりつけながら、必死に涙を、嗚咽をこらえていた。
彼はたったいま、はじめて、人を殺したのだ。
縮地を放棄したときとは違う。
自らの意志で、人を殺したのだ。
覚悟を決めていたとはいえ、落ちていく人びとの顔に浮かんだ恐怖が、絶望が、カイの心臓をかきむしった。
カイは今にも罪悪感に押しつぶされそうになる。
錯乱してしまった方が、気を触れさせてしまった方が、いっそ楽にも思えるほどの苦しみだ。
しかしカイは逃げなかった。
瓦礫から流れてくる血が、カイの指に触れた。
生温かいその赤を、カイは握りしめる。
小指と薬指が義指の左手は、握りこぶしをつくっても大きな隙間ができてしまう。
カイの握った血はそこからこぼれおちる。
(立て)
カイは汚れた手を地面に押し付け、上体を持ち上げる。
(生きるって決めたんだろ)
(みんなと生きるためならなんでもするって)
(まだ終わってない)
(立て!)
カイは立ち上がった。
「あとはノヴァともう一人だけだ」
「ああ。――――夕飯までには、すべて終わらせなくちゃね」
シェルティはそう言って、霊操の途絶えたオーガンジーをカイの腰に巻き付けた。
カイはありったけの霊力を地面に流しこむことで、崖を崩壊させた。
それはラウラの記憶で知った霊力の使い方だった。
碍子の原料であるいくつかの絶縁体を除き、この世界のすべての物質には霊が宿っている。
含量は物質ごとに異なり、例えば水や大気中には多量に含まれる。
それらを常時摂取する動植物の含有量も必然的に多くなる。
対して土石や金属などに含まれる霊はごく微量で、中には霊をよく吸収する蓄霊機能の高いもの、また霊力をよく通す通霊性に優れた物質もあり、それらは霊具の材料として重宝されている。
カイが立っていた崖は、霊含有量の低い、ありふれた土石で構成されていた。
通常、人がただ地面に霊力を流し込んでも、変化も与えることは出来ない。
しかしカイにはエレヴァンの総霊量を上回る膨大な霊力があった。
それをありったけ流し込まれれば、蓄霊、通霊性の低さなど問題にならない。
静電気を受けても地面は動かない。
けれど落雷を受ければ話は別だ。
それも柱のように太く、巨大な落雷だ。
土石は内側から大きく揺すぶられ、崩壊する。
そうしてカイは、霊力だけで、崖を崩落させた。
足場を崩すことで敵を一網打尽にする。
発案したのはカイだった。
雑木林の中に捕縛霊術が張られているのを発見したカイ達三人は、まずこれの破壊を第一とした。
そしてその後、聞き入れてもらえることはまずないとわかっていたが、話がしたい、とカイは言った。
降伏し、贖罪を乞おう、と。
アフィーとシェルティはこれに反対したが、カイは押し切った。
ほんのかすかでも、歩み寄る余地があるなら、暴力を用いずに解決できるならそうしたい、と。
その見込みのない賭けに、カイはやはり負けた。
選択の余地を失くしたカイは、力を行使する。
カイは自らを餌に、彼らを突き出した崖の際まで誘い出した。
もちろんカイは、彼らとともに心中する気はなかった。
命綱はオーガンジーだった。
カイとシェルティの二人なら、アフィーの霊操で谷底まで降りることができる。
アフィーは確実な霊操のため、雑木林の中に潜み、遠隔からオーガンジーを操作することで、二人を守った。
谷底へ降りたカイとシェルティはそのまま家へ向かい、カイの霊杖を回収する。
そしてまだ谷底にいるノヴァと黒衣の男と決着をつける。
それが三人の立てた作戦だった。
「アフィーを一人にしないで済む方法があればいいんだけど……」
カイは最後まで、谷の上、雑木林に残されるアフィーの心配をしていた。
もしカイが崖崩しに失敗し、上に敵が残るようなことがあれば。
あるいはまだどこかに残党がいて、アフィーと遭遇するようなことがあれば。
懸念は尽きなかった。
ここにきて、レオンに続いてアフィーとまで離れることを、カイは受け入れきれなかった。
「だいじょうぶ。わたし、二人をちゃんと、下まで届ける」
「いや、そっちの心配はしてないよ。アフィーがいるから、おれたちには傷ひとつつかない。だろ?」
信頼を寄せるカイに、アフィーは力強く頷いた。
「心配なのはアフィーだよ。おれらが降りたら、アフィーはここに一人だ。しかも丸腰で。どこに敵が残ってるかもわからないのに……」
オーガンジーの操作は目に見えぬ糸で行っているようなもので、距離が離れるほどその精度は落ちる。
ましてや崖の上からでは谷底は視認できない。
アフィーはふたりを下ろすだけなら手探りでも行える。しかし谷底へ降りたオーガンジーを再び手元に戻すことはできないだろうと踏んでいた。
「だいじょうぶ。オーガンジーがなくても、わたし、戦う力、ある」
「なにか武器があるのか?」
「武器は無い。でもわたしは、戦える」
「そんな、どうやって――――」
「戦うな」
まるで叱責するように、シェルティが口を挟む。
「もし残党と遭遇するようなら、迷いなく逃げろ。いいか、力は、逃げるためだけに使うんだ」
シェルティはオーガンジーと並ぶ、アフィーのもうひとつの力を知っていた。
その凄まじさを。
そして払う代償の大きさを。
「……敵は、ぜんぶ、倒す」
「いずれはな。だがいま最も優先すべきはケタリングとノヴァだ」
シェルティはアフィーが無茶をしないよう、言い聞かせる。
「ケタリングが暴れて、もともと崩れていた崖がさらに崩れただろう。もしかしたら下まで降りてこられるようになっているかもしれない。いいか、ぼくたちを降ろしたら、お前もすぐに下にくるんだ」
「でも……」
「アフィー」
シェルティは自身の小刀をアフィーの手に押し付ける。
「ぼくだけではカイを守り切れるかわからない。その力は、逃げるためか、カイを守るために使うんだ」
「……わかった」
アフィーは誓うように、胸の前で小刀を掲げる。
「すぐに、追いつく」
シェルティは頷き、待っている、と答えた。
しかしカイの表情はまだ暗かった。
「カイ」
アフィーはカイの眉間によったしわをそっと撫でた。
「……カイは、おなか、へった?」
「えっ?」
突拍子もないことを言うアフィーに、カイはぽかんと目を丸くした。
「もうすぐお昼。けどきっと今日は食べれない」
気付けば日は空高く昇っていた。
空の中央に座す天回と、ほとんど重なっている。
二重の黒円をその内に抱いた太陽を、眩しそうに見つめながら、アフィーは言った。
「お昼が、食べれないから、夕食は、豪華にしよう」
「夕食って……」
「カイはなにが食べたい?わたしは、ひき肉の、包み焼きがいい」
アフィーはそう言って、シェルティを見た。
「……よりによって、時間のかかるものを」
シェルティはため息をついた。
「まあ、いいだろう。特別に肉は多めに、生地もうんと甘くしてやる」
アフィーは目を輝かせるが、しかし、とシェルティは付け加える。
「ことが日暮れまでに済めば、だ。四人が家に揃うのが日没後なら、今日の夕飯はありあわせのスープだけだ」
アフィーはむっと唇を尖らせ、それは嫌、とぼやいた。
カイは気が抜け、小さく声をあげて笑う。
「そうだな。おれもそれはおれも嫌だ」
「カイは、なに食べたい?」
「包み焼き。それもめちゃくちゃでっかいやつ!」
シェルティはやれやれと肩をすくめながらも快諾する。
「食べきれないくらい作ってあげるよ」
「よっしゃ!やる気出てきた!」
カイの胸にはまだ不安が残っていたが、それ以上に、きっとどうにかなるだろうという希望が満ち溢れていた。
「アフィー、待ってるからな」
アフィーは力強く頷き、カイの鼻を軽くつまんだ。
いつか、ラウラと約束を交わした時のように。
「うん。待ってて。すぐに行くから」
〇
オーガンジーの霊操が途切れ、アフィーはゆっくりと息をはいた。
アフィーは潜んでいた木の上から降り、崩れた崖の縁に立った。
突き出した崖からでは、崩れてなお、谷底の様子を見ることはできない。
土煙と、積み重なった瓦礫がわずかに見えるだけだ。
作戦通り、この場にいた全員が谷底へ落ちた。
なんの備えもなかった復讐者たちは、全員が即死している。
アフィーの気がかりは、カイとシェルティの安否だった。
霊操が途切れる直前、オーガンジーを通してカイの霊力を感じとったアフィーは、少なくとも二人が無事に降り立ったことは確信していた。
しかし下にはまだノヴァと黒衣の男が残っている。
どちらも上にいた復讐者たちに劣らず、カイに深い恨みを抱いている、敵だ。
降下直後に襲われてはいないが、アフィーは気が気でなく、どうにか下の様子がうかがえないかと、崖から身を乗り出した。
そのときだった。
「――――っ!」
直感だった。
アフィーは横へ飛んだ。
断崖絶壁の縁を、滑るように転がった。
アフィーはすぐさま立ち上がり、小刀を鞘から抜いた。
「おまえ……」
隙をついて襲い掛かってきたのは、一頭の狼狗だった。