短調・桃源郷
〇
日はすっかり空高く昇ぼっていた。
午前十時。ちょうど谷底に日が差し込み、最も明るくなる時間帯だ。
心地の良い初秋の風に吹かれながら、四人は連れ立って、川沿いを歩いていた。
「いい天気だなあ」
「そうだね。……もう少しはやく起きればよかったかな。洗濯には絶好の日よりだった」
渓谷に日が差し込む時間は短い。
四人は朝食の果物を採りにいくところだったが、今からでは布団を干すまでに日は陰ってしまうだろう。
「まあいいじゃん。昨日はぐずぐず雑魚寝しちゃったしさ。今日はのんびりしようよ」
「そうは言っても、そこの二人と違って、この一週間ぼくは全然働かなかったから……」
カイに寄り添うばかりで、家周りのことをアフィーとレオンに任せきりだったことを、シェルティは気にしていた。
けれどアフィーとレオンはあっけらかんとしていた。
「問題ない」
「ああ。別にどうってことねえよ」
シェルティは照れ臭そうに俯き、小声でありがとうと言った。
「礼を言う必要はない。わたしたちは、なにもやってない」
「……うん?」
しかし続くアフィーの言葉に、シェルティは表情を固くする。
「なにもしてない?」
「うん」
レオンもああ、と応じる。
「おれらは必要最低限のことしかやってねえよ」
二人はそれぞれの得意とする狩りや畑、家畜の世話は行っていたが、掃除や洗濯といったものはおざなりにしか行ってなかった。
「家の中、よく見なかったのか?はっきりって汚いぞ」
「……じゃあ掃除をすればよかっただろう」
「洗濯は、したけど、あんまりきれいにならなかった」
「……洗い方の問題だ」
シェルティは呆れた表情でため息をついた。
「やっぱりのんびりはしていられないな」
「まあまあ。おれも手伝うからさ、明日からがんばろ」
「そうは言ってもね、カイ。不衛生な場所で病気にでもなってごらん?今は医者も薬もないんだよ」
「それは――――」
カイは言葉を詰まらせ、足を止めたが、ちょうどそこは目当ての場所だった。
「ここ」
アフィーはそう言って、崖の上を指さした。
「あれが、そう」
アフィーの差した先には、渓谷の岩壁が抉れるように崩れてできた、瓦礫の山があった。
そこはかつてアフィーの暮らした集落のあった場所だった。
災嵐時に崩れた岩壁の下敷きとなり、今では瓦礫の隙間から家屋の材木が覗く以外は、跡形もなくなっている。
アフィーは瓦礫の山を迷いなく、軽やかに登っていった。
カイはシェルティの手を借りながら、そのあとを追っていく。
「――――なあ」
「うん?」
「いま、朝廷とかって、どうなってんの?」
「どうしたんだい、急に」
「いまさらだけど気になってさ」
シェルティは躊躇いを見せたが、レオンがその背を小突いて促した。
「隠すことでもねえだろ」
「……どういうべきか考えていただけだ」
シェルティは咳ばらいをし、カイに向き直った。
「以前よりずいぶんと形は変わったが、きちんと機能しているよ」
「そっか。……ノヴァが、いまは皇帝なんだろ?」
「名目上はね。皇帝というよりは、若い朝廷のまとめ役、といったかんじだけど」
「若い朝廷?」
「ああ。災嵐を生きながらえたのは、運がよかった者や庇護者を得られた者をのぞいては、ほとんどが若者だった。それも体力と知恵があって、かつ冷静な、人材として有能な者が多かった。行政がすぐその機能を取り戻せたのは、彼らと、彼らを指揮するノヴァの功績だよ」
「そいつらは――――」
おれを憎んでいるか?
喉元までこみ上げた疑問を、カイは無理やり飲み込んだ。
それは聞くまでもないことだった。
南都でカイに暴行を加えた者たちも、多くは若者だったからだ。
「……ノヴァには言わなかったんだな。おれが生きてるってこと」
「悩んだよ。明かすべきかどうか――――彼の協力を得られれば、今だってこんなにこそこそする必要はなかっただろうから」
「でも、やっぱり、言わなくて、よかった」
アフィーは足を止めて振り返った。
「あいつ、カイに、すごく、怒ってた。許さないって。憎いって」
「……当然だろ。ノヴァはラウラを、誰よりも大切にしてたんだから」
「でも、カイは、なにも悪くない」
アフィーは前を向き、再び進み始める。
「また、カイに手を出したら、今度は、殺す」
カイはなにも言わず、アフィーの後を追った。
レオンとシェルティも、それに続く。
「追ってくるか?」
「さあ。どうかな」
「尋常な様子じゃなかったんだろ?」
「……まあね」
レオンの問いに、シェルティは苦々しい表情で答えた。
本来の、冷静なノヴァであれば、わざわざあの場からカイを追ってくるような真似はしない。
災嵐から五年がたち、復興もかなり進んだとはいえ、まだ道半ばにも至っていない。
瓦礫の海から生まれた新たな朝廷は、秩序は、まだ柔く脆い。ノヴァという指針がなければ、簡単に瓦解してしまうだろう。
彼が朝廷を離れることはない。
ましてや今四人がいる場所は、深い渓谷の下だ。
放棄された北都と東都の中間地点にある、山岳地帯の谷間。
そこが四人の所在地であることを探し当てるだけでも相当の年月がかかるだろう。
おまけに渓谷にはケタリングのような飛行手段がなければ降り立つことができない。
例え発見されたとしても、手を出すことは不可能だ。
いざとなれば四人はケタリングに乗って、すぐ逃げ去ることもできる。
その追跡には、さらに膨大な時間と手間がかかるだろう。
復讐のためだけに、ノヴァがそれだけの行動起こすとは、とても考えられなかった。
しかしそれはあくまで、平時の、冷静で聡明なノヴァであれば、の話だ。
「真実を知れば取り乱すことはわかっていた。だからこそ、彼にはなにも明かさなかったわけだが――――こうも最悪の形で暴かれるとはね」
シェルティは深いため息をついた。
「彼の抑止がなくなったとなれば、亡者共もまた息を吹き返すかもしれない」
鬱屈としたシェルティに、弱気になるな、とレオンは鼻を鳴らす。
「あんな雑魚ども、ものの数に入らねえよ」
カイが亡くなったとされた後も、人びとのカイに対する憎しみは消えなかった。
特に過激な者たちは徒党を組み、西方霊堂へ襲撃をしかけてくることもあった。
彼らが矛先を向けるのは、シェルティ、アフィー、レオン、そしてラウラを含めた四人だ。
異界人に与する者として、四人は標的にされていた。
エレヴァンを裏切った異界人、カイの一派は残らず吊るし上げるべきだと、憎悪にかられた彼らは声高に叫んだ。
しかし奮闘もむなしく、彼らはレオンとアフィーによって返り討ちにされ続けた。
ノヴァの説得と厳しい弾圧により、災嵐から二年ほどですっかり息をひそめるようになっていた彼らだが、カイの生存が明かされた今、いつ動き出してもおかしくはない。
それをまるで意に介さない、危機感のないレオンの発言に危機感のない発言に、シェルティはまたため息をつく。
「たしかに彼らではお前ににかすり傷ひとつ負わせることもできないだろう。ぼくが心配しているのは、お前がもたらす損害のほうだ」
「今まで一人残らず追い払ってきただろ。ちょっとのことで文句言うんじゃねえよ」
「ちょっとだと?ふざけるなよ。追い払えばいいってものじゃないんだ。お前の戦い方は荒すぎる」
「殺し合いに荒いもくそもあるか」
話しにならないと言わんばかりにシェルティはレオンから視線を背けた。
そして背けた先にあったカイの表情を見て、三度ため息をつく。
「カイ、一理ある、みたいな顔してるけど、西方霊堂があそこまでぼろぼろになっていたのは、災嵐じゃなくてこいつのせいだからね」
「えっ」
「たった数人相手に、ケタリングを容赦なくけしかけた結果があれだよ」
西方霊堂は、カイが目覚めたとき半壊状態にあった。
それは災嵐のせいではなく、レオンの手によるものだったのだ。
「派手にやった方が牽制にもなるだろ」
「逆上させるの間違いだろう。すこしはアフィーを見習うべきだったな」
レオンが派手に迎え撃つのとは対照的に、アフィーは襲撃者を静かに落とすことが常だった。
オーガンジーで罠をはり、相手が気づかないうちに捕らえ、縛り上げる。
「カイを、起こしたら、ダメだったから」
アフィーはシェルティと同じ、呆れた表情をレオンに向ける。
「それに、あのとき、わたしたちの住みか、まだほかになかった。……霊堂が壊れたら、野宿」
「結果壊れてねえんだからいいだろ」
「……壊してた」
「全壊してないだけだ」
レオンの屁理屈に、アフィーとシェルティーは声を揃えて反論する。
「片付け、大変だった」
「まったくだ。修繕する方の身にもなれ」
レオンは舌を打ち、反省しているとは思えない声色で詫びる。
「悪かったよ」
「ここで同じことをしたら許さないからな」
「襲撃があれば手を抜いてる余裕はねえ」
カイは慌ててレオンの袖を引いた。
「え、ちょ、まじ、ここ壊すのはやめてよ」
「ああ?」
「だってここは、おれらの家だろ?」
レオンはわずかに頬を緩めたが、勘違いすんな、とにべもなくカイの手を振り払った。
「ここだってしょせんは借り住まいだ」
「えっ、そうなの?」
信じられない、とカイは目を丸くする。
「家、建てたのに?畑とか、家畜とか、いろいろ整備されてるから、おれてっきりここにずっと住むんだと思ってたよ……」
「おれらは当面、どこにも居つけねえよ」
惜しむカイの額を、レオンは軽く小突いた。
「ほかにもいくつか、隠れ家は用意してある。当面はここにいるつもりだが、それでもひと月は居られないだろうな」
「……おれがカイだってバレたからか?」
「いや、お前の正体がバレなくても、おれたちはいずれ行方を晦ませるつもりだった」
ノヴァの制止によって抑えられていたとはいえ、復讐者たちの憎悪はすさまじいものだった。
単体ではレオンの敵ではないが、居所がつかまれている以上、いつ急襲をうけるかもわからない。
寝首をかかれるような事態を防ぐためにも、四人は身を隠す必要があった。
「しょせん復讐なんてくだらねえもんに飲まれちまう雑魚どもだ。なんの脅威でもねえが、念のためにな」
「でも、しつこい」
アフィーの言葉に、レオンを同意する。
「ああ。潰しても湧いて出る害虫だ。完全に駆除するためには巣穴を叩く他ねえ」
巣穴とはつまり、朝廷のことだった。
カイに恨みを持つ者は、特に災嵐前から彼の存在とその意義を知っていた若手の官吏に多い。
彼らの多くは生き残り、現在の朝廷の基幹となっている。
彼らを抹殺すれば、カイたちが追われることもなくなるだろう。
しかしそれは、世界を滅ぼすことも同義だった。
いまや貴重な人材となった彼らを消すことは、ようやく機能を取り戻した人間社会を、もう一度、手ずから叩き潰すということに他ならなかった。
「きみはそれを望まないだろう」
シェルティはカイの心情を代弁する。
「戦うか、逃げるか。――――きみが選ぶのは後者だろう?」
「……うん」
「ラウラも、きっと、おなじ。あの人と、カイが対立するの、すごく、いやなはず」
「……だろうな」
「だが逃げると決めたからには、戦う以上の覚悟がいる」
レオンはカイに現実をつきつける。
自分たちはもう二度と、人間社会に関わってはいけないのだ、と。
「追手を逃れるためだけが理由じゃない。以前のおれたちは、お前をお前の過去から遠ざけるために、姿を晦まそうと思っていた。――――朝廷に、社会に接近ば、いずれお前は気付いただろうからな。自分のしたことに」
「おれを守るために、か」
「そうだ。いまは状況が変わったが、結論は変わらない。おれらはこれから、人目を忍んで生きていく。人間社会との関りを断つんだ」
「うん」
「カイ。お前は二度とおれたち以外と関わるな」
「うん。それで、いいよ」
「本当か?」
レオンは念を押す。
「シェルティが言った通り、これからは病気をしても医者にはかかれねえ。家も服も道具も、なにもかも自分たちで拵えなくちゃならねえ。酒や甘味、調味料の類だって、自分たちで手に入れられるものしか口にはできねえ。どれだけでかい祭りがあっても、おれたちは参加できねえ。――――おれらが社会のものに手を出すことは、これからすべて略奪行為になる。社会の枠組みの外にいるおれたちには、対価を払う権利すらない。舗装された道を歩くことでさえ、侵略だ」
それはウルフ族として、社会の末端で生きてきたレオンだからこそ持つ懸念だった。
その疎外感を、孤独を、彼は誰よりもよく知っていた。
例えそれしか選択肢がなかったとしても、生半可な覚悟では到底耐えうるものではないと、レオンはカイに教唆する。
「社会の外側で生きるってことは、そういうことだぞ」
「上等だよ」
カイは背伸びをして、レオンの肩を抱いた。
「なんにもなくても、どんなに大変でも、お前らといられるなら、おれはそれだけで十分なんだから」
「……まあお前が根をあげるようなことはないだろうけどよ」
カイはにっと歯を見せて笑った。
「おれがお前らに楽させてやるよ。狩りの腕も料理の腕も磨いて、霊操も、前よりもっとうまくなって……絶対、誰にも、手出しさせない。病気とも怪我とも、縁を切らせてやる」
レオンは鼻を鳴らし、カイの肩を抱き返す。
「おれらで、だろ?」
「……!ああ!」
二人は拳を突き合わせる。
「まずは霊操からだな。せめて前くらいできるようになれば、空だって飛べるし、狩りももっとうまくいくだろうし。杖だけじゃなくて、オーガンジーとか、硝子とかも操れるようになりたいなあ」
「そりゃ高望みだな」
「やってみなきゃわかんないだろ」
「ラウラじゃねえんだ。なんでもかんでもはできねえよ」
「そう言われると逆にやってのけたくなる……けどまあ、とりあえずはあの杖をマスターしてやるか……」
「折るなよ。あれは代えがきかねえんだ」
「うん」
家や什器とちがって、霊具はさしものレオンでも自作はできないのだろう。
カイはそう思って返事をしたが、一瞬の間をおいて、あっと目を見開いた。
「まって、今さらだけど、あれって王杓……!?」
「気づいてなかったのか」
「いやだっておれついこの前記憶取り戻したばっかだし――――」
カイは家に置いてきた自身の霊仗を、記憶の中の自分が持っていたものと比べ、にやけ顔になる。
「ずいぶん変わったなあ」
「前の方がよかったか?」
「あ、やっぱレオンが作り変えてくれたんだ」
カイが目覚めてから使用していた霊仗は、ラサ秘伝の王杓だった。
暴徒に襲われる中で折れたそれを、レオンが短く整えたものを、カイはずっと使用し続けていたのだ。
「いまさらだけど、ありがとう。めちゃくちゃいいよ。大きさもちょうどいいし、彫刻も、前のよりぜんぜんかっこいい」
レオンは鼻を鳴らし、折るなよ、と繰り返した。
「折らないよ!」
「杖だけじゃねえ。霊操しくじって、そのへんのもん壊したりするなよ。これからは材料の調達も生半可じゃねえんだから」
「いやケタリングで霊堂ぼこぼこにしたやつに言われてもな……。ってか、レオンこそ、光球つくるのにめちゃくちゃ硝子消耗すんじゃん。あれこそやばくない?硝子瓶拾ってくるのだって限界があるでしょ」
「代替品がないことはない。硝子に比べて能率は落ちるがな。――――それより問題は酒だ」
「たしかに。でも酒って、なんか発酵させたりすればできるんだろ?シェルが作ってくれるんじゃない?」
カイのそのなにげない一言に、シェルティは笑顔を引きつらせる。
「……作ったよ」
「え、そうなの?」
「ああ。ひでえ代物をな」
レオンはシェルティのこめかみに青筋が浮かぶのもおかまいなしに、遠慮のない、辛辣な批評を述べる。
「山羊の乳で作ったもんだったが、くせえし、酸味が強すぎて、とても飲めたもんじゃなかったな。酒っつうよりは腐った乳だった」
「黙れ酒狂い」
シェルティは足元の小石を拾いあげ、レオンに投げつける。
「ぼくが苦心して作ってやったというのに、もう少し言葉を選べないのか?」
「全部飲んでやっただろ」
レオンは次つぎ投げられる小石を手で払いながら言った。
「下手な世辞を言ってあんなクソ不味いものをもう一度飲みたくはねえからな」
「嘘をつけとはいってない。言葉を選べと言ったんだ」
「くそ不味い以外に表現しようがねえよ、あれは」
「……その語彙の乏しさは脳まで酒に浸ったせいかな?」
「そこまで不味かったの?逆に飲んでみたいな」
呟くカイに、レオンは本気の声色で注意する。
「やめとけ。ろくでもねえから」
「いや、シェルが作る不味いもんって逆に貴重じゃない?話のネタに――――」
「カイ?」
シェルティは石を投げる手をとめ、カイの肩をつかむ。
「ぼくはこの酒狂いのために作ったんじゃない。きみのために作っていたんだよ?きみに試作品の不味いものを飲ませたくなかったから、わざわざこいつを味見役にして」
シェルティの笑顔はやはり引きつったままで、こめかみの青筋も浮き出たままだ。
カイはまずい、と思って後悔したが、もう遅かった。
「けれどきみがそういうなら――――いいよ」
「シェル、待って」
「まだ試作段階だったけど、飲ませてあげようじゃないか」
「ちがうんだ。聞いてくれ。おれはイジリのネタを見つけて喜んでたわけじゃ――――」
「自白かい?」
「ちがうって!」
「任せてよ。樽いっぱい作ってあげるから。きみのためだけに」
「た、樽いっぱい……」
カイはレオンに視線を送り、助けを求めるが、レオンは無言で首を振るだけだった。
「シェ、シェル、あの、気持ちは嬉しいんだけど……」
「遠慮はいらないよ。でも絶対に残しちゃだめだよ」
「あっ、あー!アフィー、もうあんなとこまで行っちゃってる!」
カイは無理やり話を打ち切り、いつの間にか開いていたアフィーとの距離を詰めるため、駆け出した。
カイが追いつくと同時にアフィーは足を止めた。
「あれが、そう」
二人の眼前、瓦礫の山を対面にやや下ったところに、一本の木が生えていた。
生えていた、というよりは、飛び出していた、といったほうが正確だろう。
半身は瓦礫に埋まり、すでに倒れているようにしか見えない低木だったが、しかし瓦礫の外に飛び出た枝には葉が生い茂り、さらには大きな果実まで実らせている。
「これが、アフィーの言ってた、秘密の樹?」
「うん。崩れて、秘密の場所は、なくなったけど、樹は生きてた」
アフィーは身を乗り出し、人数分の果実をもぐと、三人に投げ渡した。
カイはそれを胸と両手で抱きかかえるように受け止める。
「うわ、すごい、いい匂い」
「よくこんな状態でこれだけの実が生ったものだね」
「こんな岸壁に桃の樹が生えてたこと自体珍しい」
レオンはさっそく桃にかぶりついた。
果汁があふれ、周囲に漂う芳香はより強くなる。
「……甘い」
「うまい?」
「うまい」
アフィーは得意げに頷き、瓦礫の上に腰を下ろした。
三人もそれに続いて、輪を描いて座り込み、熟れた桃の実に舌鼓を打つ。
「うっま……!」
「うん、おいしいね。見事なものだ」
「染みわたるわあ……。のど乾いてたけど水分いらないな、これ」
「もっと食おう」
「わたしが、とる」
アフィーはさっと立ち上がり、また人数分の桃を採ってくる。
三人は口々に礼を言った。
アフィーは目を細め、頬を緩める。
「機嫌いいな」
レオンが言うと、アフィーは素直にうんと返した
「朝ごはん、うれしい」
「……ふ。寝ぼけてカイを食うぐらいには腹空かしてたしな」
「おなか減ってた、からじゃない」
アフィーはカイをじっと見つめる。
「本当は、ラウラにも、食べてほしかった」
カイははっとして、顔をあげる。
「……!約束か!」
いつか故郷にある、秘密の場所に案内する。
それはアフィーとラウラが交わした約束だった。
ラウラも故郷もなくなった今では、果たしようのない、約束だった。
「でも、樹、生きてた。カイと、レオンと、シェルティと、食べられた。……だから、わたし、うれしい」
風に、アフィーの髪が揺れる。
日差しに舞う髪は、川の水面のように、流星群のように、きらきらと瞬いた。
眩しいと感じながらも、カイはアフィーから目を逸らさなかった。
「……おれもうれしいよ。みんなで、朝飯食えるの」
大きな瞳いっぱいに、アフィーの輝きを映しながら、カイは笑った。
「そういや揃って朝飯なんてはじめてだよな」
「……そう、かも」
「半年も一緒にいたのに、おれら全員揃うことって意外と少なかったよな」
「おれは隠れ家の設営があったからな」
「ぼくとアフィーも、それぞれやることがあったし、夜間の見張りも必要だったからね」
カイはため息をつく。
「見張りかあ。やっぱこれからも必要だよなあ」
「早々にここが見つかるとは思えねえが、気を抜くわけにはいかないからな」
「だいじょうぶ。カイに、危険なことは、させない」
「いや、もちろんおれだってやるよ。みんなだけにやらせたりはしない。――――けどちょっと、残念だなって」
「残念?」
「これからは毎日みんなで一緒に寝起きして、一緒に飯食えると思ったからさ」
カイの言葉に、レオンは鼻を鳴らし、シェルティは微笑み、アフィーは目を輝かせた。
カイは三人の反応を見て、次第に顔を赤くする。
照れ隠しで慌てて残りの桃を頬張り、それを飲み込みもしないうちに捲し立てる。
「な、なんか見張りの代りをたてられたらいいのにな?ケタリング……は目立つから無理か?なんか狼狗みたいなやつ飼いならして番犬にできればいいのにな?それかほら、なんか罠になるような便利な霊具ないの?ほら、おれにつけてたアクセサリーも、なんかの霊具だったんでしょ?危険を察知して相手を吹っ飛ばす、みたいな。罠代わりに使えないかな、おなじやつ」
カイの提案に、シェルティは肩を竦める。
「それはちょっと難しいね。あれはカーリー・シュナウザーが作った特別な品だから」
「そういえばそうだった」
カイはラウラの記憶で、防御霊具の実験に付き合わされたときのことを思いだした。
被験者はラウラとノヴァだった。
防御霊具を身につけたラウラに対してノヴァが攻撃をしかけ、霊具の効果を試す、という実験だったが、霊具の攻撃力が非常に高く、ノヴァは何度も吹き飛ばされていた。
「――――実験でも、さんざん吹き飛ばされたのにな」
カイはノヴァを哀れんでしまいそうになり、慌てて首を振った。
「いや、でも、まさか一回使っただけで壊れちゃうとはな。ラウラが試してた時は、何回も繰り返し使えてたみたいだったけどなあ」
「きみの霊力に耐えきれなかったんだろう」
「そっか。それにしても、本当にラウラの兄ちゃんはすごいな。だいぶクレイジーな人だったみたいだけど、マジの天才発明家だよ」
「そうだね。西方霊堂には防具の他にも、さまざまな霊具や霊具の設計図が残っていてね。きみに作った指輪もその中の――――」
シェルティはそこでふと言葉を切る。
カイは小首を傾げ、口についた果実を左手で拭った。
その指には、シェルティの作った、四人揃いの指輪は無い。
「――――カイ、きみ、指輪はどうしたんだい?」
「え?――――ああ、森で落としちゃったんだよ」
シェルティは顔を強張らせる。
レオンとアフィーも、同様に険しい表情を浮かべる。
三人がノヴァに捕らえられたカイを見つけ出すことができたのは、互いの所在のおおよその位置を知らせることができる、発信機代わりの指輪があったからだ。
指輪を辿った先に、カイがいた。
そのため三人は、カイが指輪を持っているものだと思い込んでいた。
「お前、あれ、拾ったんじゃなかったのか?」
「うん。見つけたけど――――」
カイはそこで思い出し、はっとする。
「そうだ。あれ、ノヴァが拾ってくれたんだよ」
三人の顔に緊張が走る。
そして、まるでそれを察知したかのように、轟音が襲い掛かってくる。
ガァアアアアアア!
それはケタリングの咆哮だった。
「っ!?」
四人は目を疑った。
ケタリングが派手な水飛沫をあげて、谷底に降り立つ。
しかしそれは見慣れた、レオンの従える個体ではない。
突如として現れたのは、見たこともないケタリングだった。