夢(三)
◎
暗闇の中で、カイはひとり、佇んでいた。
足元はひどくぬかるんでいる。長らく動かずにいると、次第に沈み始めてきた。
(歩かないと)
カイは歩き出した。
ぐちゃぐちゃと、ぬかるみを蹴散らしながら、暗闇のなかを進んでいく。
(ここはどこだ?)
前も後ろもわからない暗闇の中だったが、カイはなにかに追い立てられるように、速足で歩いた。
(ここは、井戸の底だ)
カイはふとそう思った。
井戸の底にしてはあまりにも広大な空間だったが、根拠のない確信があった。
上を見ると、空色の月が浮かんでいた。
(……いや、ちがう)
(あれは空だ)
(井戸の口だ)
満月のようにぼんやりと光る口を、カイはじっと見つめた。
ふいに、なにかが、井戸の底へ落ちてきた。
バチャンッ!
そのなにかはすぐに暗闇に紛れてしまったが、どうやら人のようだった。
カイは着地音のした方へ向かおうとするが、いつの間にはふくらはぎまでぬかるみに浸かってしまい、動くことができない。
カイは声を出した。
「おーい」
するとすぐに返事が返ってきた。
「おーい」
耳馴染みのない声だった。
けれどカイはその声をとてもよく知っているような気がした。
ばちゃばちゃと、ぬかるみをかき分ける足音が近づいてくる。
「あっ」
二人は顔を合わせた。
カイは驚きに目を見開いた。
目の前に現れたのは、自分だった。
「……カーリー、じゃないよな?」
「そっちこそ、ラウラじゃ、ないよな?」
二人は同じカイだったが、それぞれ違う身体をしていた。
「お前、誰だよ」
「おれはカイだよ」
「いや、カイはおれだよ」
バチャンッ!
また、なにかが、井戸の底へ落ちてくる。
ぱしゃぱしゃと、軽やかな足取りで二人の前に現れたのは、またしてもカイだった。
(おれ……?)
(おれだ……)
今度は疑いようがなかった。
なぜなら二人の前に現れたカイは、三渡カイの現世での姿かたちで現れたからだ。
中肉中背の、二十歳の青年。
人のよさそうな顔に、苦笑いを浮かべて、カイは言った。
「えっと、おれこそがカイだと思うんだけど……あんたたちは誰だ?それでここはどこだ?なんだってこんなところにいるんだ?おれたち」
「それは……」
「えーっと……」
二人は答えにつまる。
沈黙が流れる。
しばらくして口を開いたのは、もとの姿をしたカイだ。
「ところであんた、いまにも沈みそうだけど、だいじょうぶ?」
ラウラの姿をしたカイは、そう言われてはっとする。
彼は今になってようやく気付いた。
自分が、もう胸のあたりまで沈んでいることに。
しかし不思議と、恐怖も苦しみもなかった。
ぬかるみの中は生暖かかった。
以前見た悪夢のように、亡者たちが絡みついてくることもない。
むしろどこかほっとするような気持ちさえあった。
「うん、だいじょうぶ」
カイは自分を心配そうに見つめる二人のカイに向けて、笑ってみせる。
「おれは、これでいいんだ」
すると、ふいになにかがカイの足をひっぱった。
とても強い力で。
「あっ!」
カイはぬかるみに引きずり込まれてしまう。
先ほどまで温かかったはずのぬかるみが、顔まで浸かった途端、刺すように冷たく感じられる。
――――いいわけないだろう。
誰かの声が、カイの頭に鳴り響いた。
――――そんなところに、お前が、いられるはずはないだろう。
カイは両足を何者かにつかまれていた。
それは黒い手だった。
手は焼け焦げたように黒く、ひび割れ、ひきつっていたが、しかしその見た目とは裏腹におそろしいほどの力でもって、カイを底へ引きずり込んでいく。
以前のように、無数の亡者がとりついているわけではない。
たった一人の誰かによって、カイは沈められていく。
――――安らぎなどあると思うな。
カイはもがいた。
冷たさから、息苦しさから、逃れるため。
もがいて、もがいて、もがいて、気づくと、なにかに縋りついていた。
――――お前はここだ。
それはラウラの足だった。
白く細いラウラの足を、カイは必死につかんでいた。
(……!)
カイは慌てて手を離す。
ラウラの身体はゆるやかに浮上していく。
代わりに、カイは、沈んでいく。
なにかに引かれていくのではなく、自身の重みで、どこまでも落ちていく。
カイは気づけば亡者になっていた。
先ほどまで自身を沈めようとしていた亡者に、カイは移り替わっていた。
亡者の身体は冷たく、傷だらけで、そして脆かった。
水圧に耐えきれず、表層から潰れ、砕けていく。
カイはそれらを繋ぎ止めようと、わが身を抱きしめた。
(ごめん)
カイは泣いていた。
その身は沈む一方だが、涙だけは、上へと昇って行く。
気泡のように、ゆらゆらと。
(ごめん)
カイが泣いたのは、痛みのためでも、恐怖のためでもなかった。
ただ、ただ、カイは悲しかった。
涙を流す資格がないことはわかっていても、カイはそれを抑えることができなかった。