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夢(三)




暗闇の中で、カイはひとり、佇んでいた。

足元はひどくぬかるんでいる。長らく動かずにいると、次第に沈み始めてきた。


(歩かないと)


カイは歩き出した。

ぐちゃぐちゃと、ぬかるみを蹴散らしながら、暗闇のなかを進んでいく。


(ここはどこだ?)


前も後ろもわからない暗闇の中だったが、カイはなにかに追い立てられるように、速足で歩いた。


(ここは、井戸の底だ)


カイはふとそう思った。

井戸の底にしてはあまりにも広大な空間だったが、根拠のない確信があった。

上を見ると、空色の月が浮かんでいた。


(……いや、ちがう)

(あれは空だ)

(井戸の口だ)


満月のようにぼんやりと光る口を、カイはじっと見つめた。

ふいに、なにかが、井戸の底へ落ちてきた。


バチャンッ!


そのなにかはすぐに暗闇に紛れてしまったが、どうやら人のようだった。

カイは着地音のした方へ向かおうとするが、いつの間にはふくらはぎまでぬかるみに浸かってしまい、動くことができない。

カイは声を出した。


「おーい」


するとすぐに返事が返ってきた。


「おーい」


耳馴染みのない声だった。

けれどカイはその声をとてもよく知っているような気がした。

ばちゃばちゃと、ぬかるみをかき分ける足音が近づいてくる。


「あっ」


二人は顔を合わせた。

カイは驚きに目を見開いた。

目の前に現れたのは、自分だった。


「……カーリー、じゃないよな?」

「そっちこそ、ラウラじゃ、ないよな?」


二人は同じカイだったが、それぞれ違う身体をしていた。


「お前、誰だよ」

「おれはカイだよ」

「いや、カイはおれだよ」


バチャンッ!


また、なにかが、井戸の底へ落ちてくる。

ぱしゃぱしゃと、軽やかな足取りで二人の前に現れたのは、またしてもカイだった。


(おれ……?)

(おれだ……)


今度は疑いようがなかった。

なぜなら二人の前に現れたカイは、三渡カイの現世での姿かたちで現れたからだ。

中肉中背の、二十歳の青年。

人のよさそうな顔に、苦笑いを浮かべて、カイは言った。


「えっと、おれこそがカイだと思うんだけど……あんたたちは誰だ?それでここはどこだ?なんだってこんなところにいるんだ?おれたち」

「それは……」

「えーっと……」


二人は答えにつまる。

沈黙が流れる。

しばらくして口を開いたのは、もとの姿をしたカイだ。


「ところであんた、いまにも沈みそうだけど、だいじょうぶ?」


ラウラの姿をしたカイは、そう言われてはっとする。

彼は今になってようやく気付いた。

自分が、もう胸のあたりまで沈んでいることに。

しかし不思議と、恐怖も苦しみもなかった。


ぬかるみの中は生暖かかった。

以前見た悪夢のように、亡者たちが絡みついてくることもない。

むしろどこかほっとするような気持ちさえあった。


「うん、だいじょうぶ」


カイは自分を心配そうに見つめる二人のカイに向けて、笑ってみせる。


「おれは、これでいいんだ」


すると、ふいになにかがカイの足をひっぱった。

とても強い力で。


「あっ!」


カイはぬかるみに引きずり込まれてしまう。

先ほどまで温かかったはずのぬかるみが、顔まで浸かった途端、刺すように冷たく感じられる。


――――いいわけないだろう。


誰かの声が、カイの頭に鳴り響いた。


――――そんなところに、お前が、いられるはずはないだろう。


カイは両足を何者かにつかまれていた。

それは黒い手だった。

手は焼け焦げたように黒く、ひび割れ、ひきつっていたが、しかしその見た目とは裏腹におそろしいほどの力でもって、カイを底へ引きずり込んでいく。

以前のように、無数の亡者がとりついているわけではない。

たった一人の誰かによって、カイは沈められていく。


――――安らぎなどあると思うな。


カイはもがいた。

冷たさから、息苦しさから、逃れるため。

もがいて、もがいて、もがいて、気づくと、なにかに縋りついていた。


――――お前はここだ。


それはラウラの足だった。

白く細いラウラの足を、カイは必死につかんでいた。


(……!)


カイは慌てて手を離す。

ラウラの身体はゆるやかに浮上していく。

代わりに、カイは、沈んでいく。

なにかに引かれていくのではなく、自身の重みで、どこまでも落ちていく。


カイは気づけば亡者になっていた。


先ほどまで自身を沈めようとしていた亡者に、カイは移り替わっていた。

亡者の身体は冷たく、傷だらけで、そして脆かった。

水圧に耐えきれず、表層から潰れ、砕けていく。

カイはそれらを繋ぎ止めようと、わが身を抱きしめた。


(ごめん)


カイは泣いていた。

その身は沈む一方だが、涙だけは、上へと昇って行く。

気泡のように、ゆらゆらと。


(ごめん)


カイが泣いたのは、痛みのためでも、恐怖のためでもなかった。

ただ、ただ、カイは悲しかった。

涙を流す資格がないことはわかっていても、カイはそれを抑えることができなかった。

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