レオン・ウルフ(二)
*
出会う前、レオンはカイのことを、傀儡のようなものだと思っていた。
朝廷がそうであったように、縮地の動力源とだけ考えていた。
降魂術の概要は知っていたが、他人の身体にはいった魂の意志など薄弱なものだろうと思っていた。
現にカイは、無理やり連れてこられたこの地で、望まないまま与えられた責務を懸命に果たそうとしていた。
そんなモノは人ではないと、レオンは思っていた。
しかしカイはモノではなかった。
正真正銘の人間だった。
意志があり、青臭いが信念も持っていた。
レオンは拍子抜けしてしまう。
カイは人間で、世間知らずの若造だった。
考えの全てが浅はかで、甘い、楽天家だった。
けれど根拠のない自信にだけはあふれていた。
レオン自身にも覚えがあるその青臭さは、夢を抱く若者の誰もが持つものであった。
カイはレオンと同じ人間だった。
おまけに空を飛ぶことができた。
*
はじめ、レオンは身を投げたのだと思った。
脅しをかけるために立たせた絶壁の上から、カイは二人の仲間をその手に抱いて飛び降りた。
レオンはすぐカイの姿を追った。絶壁の下に咲いているであろう赤い血肉の花が頭によぎった。
けれど覗き込んだ崖下の雪は白いままだった。
カイは落下などしていなかった。
カイは飛んだのだ。
レオンは目線を上げた先で、二人を抱え、泳ぐように空を飛ぶカイの姿を見た。
強風にあおられながらも、カイはしっかりと前を見据えて滑空していた。
レオンはその場から動くことができなかった。
今すぐにでもケタリングで追いかけなければならない。それはわかっていたが、しかしカイの姿がみえなくなるまで、目を離すことができなかった。
自分以外にも、空を知る人間がいるのだ。
レオンの胸に、再び火が灯る。
本人も気づかないほど、小さな種火だった。
やがてレオンを暖かく包み、孤独からも焦燥からも解放するその火は、カイが灯したものだった。
*
自分の分の睡薬までラウラに与えようとするカイを、レオンは愚かだと罵った。
自傷できないよう縛り付けておけば、芙蓉の副作用、激しい幻痛で死ぬことはない。
しかし精神が壊れてしまうことはある。
ラウラが眠りに落ちた後も薬を飲もうとしないカイに、レオンは意地を捨てろと言った。
強がってもお前は弱い、と。
おれは縮地のためにお前とこの女を攫った。
お前が使い物にならなくなったとき、この女も価値を失う。
そのときおれはこの女を殺すだろう。
それでもお前は選ぶのか。
誓えるのか。
睡薬なしで、幻痛に耐えきることができる、と。
レオンの問いに、カイは笑って答えた。
「おれは死なない。正気も失くさない」
「災嵐をはらうって……ラウラを傷つけないって、約束したから」
「絶対に耐えてみせる」
レオンはその言葉を信じなかった。
そして言った。
賭けてもいい、お前は絶対に耐えられない、と。
しかしカイもまた、一歩も引かなかった。
「じゃあおれは、おれが耐えきれることに賭けるよ」
レオンはカイの説得を諦めた。
放っておいても、どうせすぐにも音をあげるだろうと思ったからだ。
レオンは自傷を防ぐためカイを縛り上げた。
芙蓉が切れてから二十四時間以内に、幻痛は最も強く現れる。
その痛みを、レオンはよく知っていた。
ラプソの青年、キースたちと小競り合いを起こしたときに、レオンは芙蓉を吸ってしまい、同じ幻痛に耐えたことがあった。
レオンでも死を覚悟した痛みだった。
カイにはとても耐えることはできないだろうと、レオンはカイが音を上げたとき、すぐに眠らせてやれるように、睡薬をとっておいた。
ラウラが自ら飲み込んだ睡薬によって目を覚ますまで一日半ある。
その一日半に、カイが耐えることができなければ、当初の予定通りラウラに残りの苦痛を耐えさせればいい。
最初の二十四時間に比べれば、あとの苦痛は大したものではない。
細身のラウラでも耐えることはできるだろうと、レオンは考えていた。
しかし予想に反して、カイが音をあげることはなかった。
脂汗にまみれ、痙攣と瞬きの失神を繰り返すカイに、レオンは何度も睡薬を差し出した。
あきらめろ、と。
お前には無理だ、と。
楽になれ、と。
しかしカイは鉄の意志でそれをはねのけた。
レオンにはわからなかった。
カイがなぜそこまで頑なになるのか。
レオンは知りたいと思った。
この男のことを、すべて。
腹の底まで触れてみたいと思った。
そして一日半がたった。
最も痛みの強い期間を、カイは正気を保ったまま脱することができた。
しかし無事ではない。
すでに目も当てられないほど消耗してしまっている。
満身創痍である。
あと一日半、少しずつ和らいではいくものの、痛みはまだ続く。
それまでカイが待つかどうか、確率は五分だった。
カイは脱水状態にあった。
水分はレオンが無理やりとらせていたが、ほとんどを吐き出してしまっていた。
レオンは最後にもう一度だけ睡薬を差し出した。
けれどやはりカイは拒んだ。
「ラウラに同じ苦しみを味わってほしくない」
「いまそれを飲んだら、おれは一生、おれを許せなくなる」
レオンはもう何も言わなかった。
そして宣言通り、カイは三日間の幻痛に耐え抜いてみせた。
賭けに勝ったカイがレオンに求めたものは、対話だった。
*
レオンがカイを知りたいと思ったように、カイもまた、レオンのことを知りたがった。
二人はたくさんのことを話した。
互いのことなる生活を。
過ごしてきた人生を。
そして共有して持つ、空を飛ぶことへの憧れを。
カイにとってケタリングは空想上の生き物だった。
幼いころアニメで見て憧れたドラゴン。それにそっくりな見た目のケタリングに、カイは羨望の眼差を向けていた。
はじめてケタリングに相対したときのレオンと同じように、感動と興奮で言葉を失い、震える拳を握りしめていた。
カイとレオンには、なんら共通点がなかった。
生まれも育ちもまるで異なる。なにひとつ重なるところはない。
けれど二人は、分かちあうことができた。
喜びを。感動を。
また二人は、対話を通して、互いを認め合うことができた。
レオンは芙蓉の幻痛に耐え抜いたカイに一目置き、異界人でも縮地のための道具でもなく、対等な人間として認めていた。
しかしカイは自分を認めないだろう、と思っていた。
なぜならレオンには親殺しの、同族殺しの過去がある。
それを知ったカイは拒絶するだろうと思っていた。
自分の過去を知った誰もがそうであったように、非難と侮蔑を投げ返してくるだろうと。
けれどカイは否定しなかった。
決してレオンの行いをよしとしたわけではないが、頭ごなしに否定することもなかった。
カイは考えた。
自分がレオンだったらどうするか、と、立場を置き換えて。
「おれがもしパイロットで、兵器にもなるような飛行機を持っていたとして」
「空を飛び回るのが大好きで、その飛行機をすげえ大事にしてたとして」
「その飛行機で戦争しろって言われたら、そんなの絶対に嫌だ」
「嫌だけど……従うんだろうな」
「親とか先生とか、近くにいる人たちに囲まれたら、おれは拒否できないと思う」
「うだうだ悩んで、結局は同調するんだ」
「みっともないよな」
月夜だった。
二人で酒を飲み交わしていた。
レオンは問うた。
おれのしたことが正しいと思うか、と。
カイはしばらく考えこみ、やがて首を振った。
「わからない」
大きな満月を、レオンのケタリングが横切る。
カイはその影を見つめながら、言った。
「でもケタリングは復讐の道具じゃない」
レオンはなにも答えず、酒をすすった。
飲みなれたはずの酒だった。
けれどそれは、これまでの人生で最高の美酒だった。
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こいつと共にありたい。
レオンはそう強く思った。
内にあった焦燥は、孤独は、すでに消え失せていた。
いまやその場所には、カイと共にあり続けたいという切実な願いだけがあった。
*
そしてカイはレオンの願いに答えるように、命をかけてケタリングを守ろうとした。
結果的に、レオンはなによりも大切だと思っていたケタリングを失うこととなる。
けれどレオンは大きく動揺することはなかった。
悲しみは深かったが、カイがそれを共に担ってくれた。
失ったものは大きかった。
けれど得たものは、それ以上に大きかった。
レオンはケタリングを守ろうとしたカイに対して、感謝を言わなかった。
ケタリングを守り切れなかったことを、カイが詫びることも許さなかった。
二人は肩を並べ、光の雨となったケタリングを眺めながら、誓い合った。
「いつか二人で空を飛ぼう」
レオンにとって、カイは、無二の存在となった。
カイが記憶を失った今でも、それは変わることがなかった。