アフィー・ライカ(二)
*
転機が訪れたのは、アフィーが十三歳になる年の春だった。
朝廷が技官候補生の招集をはじめたのだ。
災嵐に向けて人員拡充を図るため、出自に問わず、高い霊能力を持つ者が西方霊堂に集められた。
アフィーはこれに選抜された。
村の中で選ばれたのはアフィーだけだった。
アフィーはすぐに村から出された。
義母と父はアフィーを西方霊堂に送り届けた際、お別れだ、とアフィーに言った。
今生の別れだ、と。
もうお前は二度と村に戻ってきてはいけない、と。
そう言い残し、二人は去っていった。
アフィーは悲しまなかった。
憤ることも、喜ぶこともなかった。
ただ呆然と立ち尽くし、二人が去っていく背中を、いつまでも眺めていた。
霊堂に入ってからも、アフィーの境遇は変わらなかった。
貧村出身で、礼儀も教養もない。
それでいて人目を惹く容貌のアフィーは、すぐに目の敵にされてしまった。
候補生の多くは名家の出身だった。
高慢で自尊心の強い者ばかりだった。
彼らにとって、なにひとつ修練を積んだことのない、才能だけで選ばれてきたアフィーの存在は、受け入れがたいものだった。
彼女の目を惹く容貌が輪をかけて、とくに女性には、妬まれ、嫌われてしまった。
アフィーはやはり、なにも悪くなかった。
けれどここでも、アフィーは虐げられた。
無視され、陰口をたたかれ、暴力を振るわれることもあった。
アフィーは動じなかった。
生きる場所が変わっても、害虫は害虫のままなのだと思い知るだけだった。
けれど、平気だったわけではない。
自分にとっては、生きている限り他人に嫌われているのがふつうで、よくなることは決してない。
唯一自分を愛してくれたかもしれない母でさえ、しょせんは夢の中だけの存在だ。
もうどこにもいないのだ。
頭を撫でてくれる人も、抱きしめてくれる人も、現れない。
自分は一生、ひとりぼっちなのだ。
そう考えると、アフィーの心はざわついた。
喉の奥に小骨が刺さったような、胸になにかがつかえているような、苦しみがつきまとうようになった。
村にいたころ、アフィーは布団にくるまるたびに夢想した。
このまま蚕のように、繭になってしまえたらいいのに、と。
目が覚めたら自分は繭のなかにいて、まったく違う形に生まれ変われたらいいのに、と。
母のように、蚕のように、宝物として扱われるものに代わりたいと、アフィーは毎夜願い、眠りについていた。
霊堂で眠りにつくアフィーは、繭になることさえもはや願わなくなっていった。
二度と目を覚まさなければいいのに、と、ただそれだけ、ぼんやりと考えていた。
朝が来なければいい。ずっと眠っていたい。
消えてなくなってしまいたい。
それが霊堂にきて間もない頃のアフィーが持つ、唯一の望みだった。
それを変えたのが、カイとラウラだった。
*
はじめは、他の人と同じだと思っていた。
親切なふりをして、掌を返されることは、これまでにもあったからだ。
アフィーはなにも期待していなかった。
心を閉ざし、どんな言葉にも耳を傾けなかった。
自分がいままでそうされてきたように、冷たく突き放した。
けれどカイとラウラは諦めなかった。
毎朝、会うと必ずおはようと挨拶をした。
昼食に誘い、断られても、アフィーの近くで食事をとった。
修練の最中も、なにかと近寄ってきた。
アフィーをいつも輪の中にいれようとした。
修練の終わりに、必ずねぎらいの言葉をかけてきた。
そしてまた明日、と笑いかけてくれた。
アフィーは戸惑った。
人に嫌われないのははじめてのことだった。
誰かに優しくしてもらうのははじめてのことだった。
胸のしこりは、いつの間にかなくなっていた。
カイとラウラが伸ばしてくれた手に、アフィーは時間をかけて、少しずつ触れていった。
挨拶を返すようになった。
昼食の誘いに応じるようになった。
修練でわからないことがあると、訊ねるようになった。
アフィーの変化を二人は喜んだ。
カイとラウラ以外の人間も、アフィーの変化に気づき、態度を改めるようになった。
丙級の青年たちも、アフィーに話しかけるようになった。
彼らはアフィーを嫌ってこそいなかったが、いつも一線を引いていた。
同じ丙級の落第生でも、アフィーはまだ十三歳の少女で、候補生としては最年少だった。
おまけに無口でとっつきにくいとなると、彼らが近づくのを躊躇うのも無理はない。
しかしカイの尽力あって、垣根は取り払われた。
彼らはアフィーを丙級の仲間として受け入れた。
そうしてアフィーに、生まれてはじめて、居場所ができた。
*
アフィーは丙級の外に出ると、変わらず侮蔑の対象で、むしろ丙級の仲間と親しくなった分、虐待は激しさを増した。
女子寮では暴行を加えられることもしばしばだったが、しかしアフィーは、なにをされても平然としていた。
その態度は火に油だったが、アフィーは水をかけられようが釘を踏まされようが、髪を切り刻まれようが、泣き言ひとつ言わず耐えた。
アフィーはなにをされた日でも、眠る直前、はやく明日が来ないか、と思うようになっていた。
目覚めなければいい、などとは、もう思わなかった。
アフィーは毎日が楽しくて仕方なかった。
はやく明日を迎えて、カイに、ラウラに、丙級の仲間たちに会いたいと思った。
自分には居場所がある。
それだけで、アフィ―は辛いことをすべて忘れられた。
「それじゃだめだ」
カイは、そんなアフィーを強く叱った。
*
「なにもしてないのに、黙ってやられたままでいるなんておかしい」
買ってもらった飴を、女子寮の裏手にある下水に捨てられてしまった日、カイはそう言って怒った。
「嫌なことは嫌っていわなくちゃだめだ」
アフィーは、本当に久しぶりに、人前で涙を流した。
カイに、嫌われたと思ったのだ。
カイが怒っているのは、自分が、買ってもらった飴を台無しにしたからだと思ったのだ。
けれど違った。
カイの怒りは、アフィーの飴を捨てた女たちにあった。
カイはアフィーに怒ったのではない。
アフィーのために、怒っていたのだ。
耐えちゃだめだ、とカイは言った。
「黙っていじめられるなんて、そんなの絶対にダメだ」
「嫌って言わなきゃだめだ。我慢しちゃだめだ。逃げなきゃだめだ。誰かに助けを求めなきゃ、だめだ」
アフィーは泣きじゃくった。
心に、無数に刻まれていた傷跡が、一斉に開き、血を流した。
アフィーはずっと我慢していた。
我慢していることさえ、忘れてしまうほど、長い間、耐えていた。
本当は嫌だったのだと、アフィーはようやく気づいた。
アフィーはあふれ出したその思いを、カイに伝えた。
家族に入れてほしかった。
友だちがほしかった。
ふつうに口をきいてほしかった。
投げられた石は痛かった。
一人の食事は寂しかった。
名前を呼んでもらいたかった。
誕生日を祝ってもらいたかった。
抱きしめてもらいたかった。
誰かに助けてほしかった。
でも助けてくれる人なんて誰もいなかった。
自分は害虫だった。
嫌われるのがふつうだった。
ずっとひとりぼっちだった。
たすけてと言ったところで、誰も手を差し伸べてくれないのは、わかっていた。
「おれが助けるよ!」
カイはアフィーを抱きしめた。
涙をこぼしながら、力強く。
「だから自分のこと、害虫なんて言っちゃだめだ」
「誰がなにを言おうと関係ないだろ」
「自分で自分をいじめるなよ」
「お前をいじめてるやつらの方がよっぽど人間じゃねえよ」
「そんなやつらの言うことを真に受けちゃだめだ」
「自分を、もっと、大切にしろよ」
アフィーはカイの胸に涙をこすりつけながら、首を振った。
誰にも大切にされたことのないアフィーに、自分を大切にする方法など、わかるはずもなかった。
「おれが教えるよ!」
カイはアフィーの頭を、大きな手で、包みこむように撫でた。
「おれはアフィーが好きだよ」
「がんばりやで、照れ屋で、ばかがつく甘党で、天然のツンデレで、けっこう子どもっぽい遊びが好きで、仲間のことめっちゃ好きで、大事にしてて……一緒にいてすげえ楽しいよ」
「アフィ―はどう?おれのこと、好き?」
アフィーは頷いた。
アフィーはカイのことが大好きだった。
世界中にいる、誰よりも。
「おれがアフィーと同じ目にあってたら、いじめられてたら、いやじゃないか?」
アフィーはまた頷いた。
カイが誰かに虐げられているところを想像しただけで、はらわたが煮えくり返るようだった。
「おれもいやだよ」
「友だちが、好きなやつがいじめられてるなんて、耐えられない。許せない」
「だからもう、自分をいじめちゃだめだ」
「おれの好きな子のこと、大切にしてあげてくれよ」
「おれを好きなように、自分のことも、好きになってくれよ。大切にしてくれよ」
「すぐにじゃなくていい。ちょっとずつでいいからさ」
アフィーは涙を拭って、わかった、と答えた。
「わたし、自分を、好きになる。大切にする」
この日、アフィーは生まれ変わった。
もう自分を虫とは思わなくなった。
自分を大切にするようになった。
嫌のことは嫌だというようになった。
アフィーはもうひとりではなくなった。
寂しい夜はあっても、孤独に震えることはなかった。
アフィーは自分を、世界を、好きになった。
消えたいという願いはなくなり、代わりに、夢を抱いた。
いつかカイの一番大切な人に、宝物になる、という夢を。
〇
「生きて」
今ではカイよりずっと大きくなった自身の手で、カイの頭を撫でながら、アフィーは言った。
「生きて、カイ」
「辛くても、苦しくても、死んじゃだめ」
「生きなきゃだめ」
「わたし、カイに、生きていてほしい」
「カイがいないなんてそんなの、嫌だ」
「ラウラも、きっと、同じ気持ちだったから、カイに身体、あげたたんだと思う」
「ラウラだけじゃない。シェルティも、レオンも、カイのことが好き。誰よりも大事。だから、生きてほしいと、思ってる。一緒にいてほしいって」
「カイ」
「カイは、わたしのこと、好き?」
カイはアフィーの膝から起き上がった。
そして背を向けたまま、ゆっくりと頷いた。
アフィーは目蓋を震わせた。
「わたしも、カイが、大好き」
アフィーはカイの背にそっと触れた。
「カイは、カイのこと、好き?」
カイは肩を震わせた。
両手で顔を覆い、声を殺して、泣きじゃくった。
「好きになって」
アフィーはカイを、背中から抱きしめた。
「自分のこと、好きになって、カイ」
「わたしの好きな人のこと、大事にして」
「カイは、世界を、めちゃくちゃにしたんじゃない」
「わたしたちを、助けてくれた」
「好きな人を、守った」
「それは、悪いことなんかじゃない」
「ラウラが、死んだのも、カイのせいじゃない」
「わたしが、弱かったから」
「わたしが、もっと強かったら――――あのとき、迷わないで、ヤクートを殺せていれば、カイは、傷つけられなかった。ラウラは、死なずにすんだ」
「ごめんなさい」
アフィーの謝罪に、カイは首を振った。
全部おれのせいだ、そう言おうとしたが、しゃくりあがる喉では、何も言うことができなかった。
「だから、わたし、強くなった」
「大事な人、もう、誰も失くさないために、強くなったよ、わたし」
「もうなにがあっても、ためらわない」
「カイを、守る」
「カイをいじめたやつには、やりかえす」
「あのとき、カイが、わたしのために、してくれたみたいに」
「わたしも、カイをいじめるやつ、やっつけるよ」
「だいじょうぶ」
「わたし、カイのおかげで、生まれ変われた」
「だから」
「カイにも、きっと、できる」
「カイも、きっと、生まれ変われる」
「今の自分、好きに、なれる」
「信じて、カイ」
「わたしを」
「あなた自身を」
カイは堪えきれず、ついに嗚咽をもらした。
声をあげて、泣いた。
小さな子供のように。
あの日のアフィーのように。
心の傷からあふれる血を、透明な涙として、流していった。