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アフィー・ライカ(二)


転機が訪れたのは、アフィーが十三歳になる年の春だった。

朝廷が技官候補生の招集をはじめたのだ。

災嵐に向けて人員拡充を図るため、出自に問わず、高い霊能力を持つ者が西方霊堂に集められた。

アフィーはこれに選抜された。

村の中で選ばれたのはアフィーだけだった。

アフィーはすぐに村から出された。

義母と父はアフィーを西方霊堂に送り届けた際、お別れだ、とアフィーに言った。

今生の別れだ、と。

もうお前は二度と村に戻ってきてはいけない、と。

そう言い残し、二人は去っていった。

アフィーは悲しまなかった。

憤ることも、喜ぶこともなかった。

ただ呆然と立ち尽くし、二人が去っていく背中を、いつまでも眺めていた。


霊堂に入ってからも、アフィーの境遇は変わらなかった。

貧村出身で、礼儀も教養もない。

それでいて人目を惹く容貌のアフィーは、すぐに目の敵にされてしまった。

候補生の多くは名家の出身だった。

高慢で自尊心の強い者ばかりだった。

彼らにとって、なにひとつ修練を積んだことのない、才能だけで選ばれてきたアフィーの存在は、受け入れがたいものだった。

彼女の目を惹く容貌が輪をかけて、とくに女性には、妬まれ、嫌われてしまった。

アフィーはやはり、なにも悪くなかった。

けれどここでも、アフィーは虐げられた。

無視され、陰口をたたかれ、暴力を振るわれることもあった。

アフィーは動じなかった。

生きる場所が変わっても、害虫は害虫のままなのだと思い知るだけだった。

けれど、平気だったわけではない。

自分にとっては、生きている限り他人に嫌われているのがふつうで、よくなることは決してない。

唯一自分を愛してくれたかもしれない母でさえ、しょせんは夢の中だけの存在だ。

もうどこにもいないのだ。

頭を撫でてくれる人も、抱きしめてくれる人も、現れない。

自分は一生、ひとりぼっちなのだ。

そう考えると、アフィーの心はざわついた。

喉の奥に小骨が刺さったような、胸になにかがつかえているような、苦しみがつきまとうようになった。

村にいたころ、アフィーは布団にくるまるたびに夢想した。

このまま蚕のように、繭になってしまえたらいいのに、と。

目が覚めたら自分は繭のなかにいて、まったく違う形に生まれ変われたらいいのに、と。

母のように、蚕のように、宝物として扱われるものに代わりたいと、アフィーは毎夜願い、眠りについていた。

霊堂で眠りにつくアフィーは、繭になることさえもはや願わなくなっていった。

二度と目を覚まさなければいいのに、と、ただそれだけ、ぼんやりと考えていた。

朝が来なければいい。ずっと眠っていたい。

消えてなくなってしまいたい。

それが霊堂にきて間もない頃のアフィーが持つ、唯一の望みだった。


それを変えたのが、カイとラウラだった。



はじめは、他の人と同じだと思っていた。

親切なふりをして、掌を返されることは、これまでにもあったからだ。

アフィーはなにも期待していなかった。

心を閉ざし、どんな言葉にも耳を傾けなかった。

自分がいままでそうされてきたように、冷たく突き放した。

けれどカイとラウラは諦めなかった。

毎朝、会うと必ずおはようと挨拶をした。

昼食に誘い、断られても、アフィーの近くで食事をとった。

修練の最中も、なにかと近寄ってきた。

アフィーをいつも輪の中にいれようとした。

修練の終わりに、必ずねぎらいの言葉をかけてきた。

そしてまた明日、と笑いかけてくれた。

アフィーは戸惑った。

人に嫌われないのははじめてのことだった。

誰かに優しくしてもらうのははじめてのことだった。


胸のしこりは、いつの間にかなくなっていた。


カイとラウラが伸ばしてくれた手に、アフィーは時間をかけて、少しずつ触れていった。

挨拶を返すようになった。

昼食の誘いに応じるようになった。

修練でわからないことがあると、訊ねるようになった。

アフィーの変化を二人は喜んだ。

カイとラウラ以外の人間も、アフィーの変化に気づき、態度を改めるようになった。

丙級の青年たちも、アフィーに話しかけるようになった。

彼らはアフィーを嫌ってこそいなかったが、いつも一線を引いていた。

同じ丙級の落第生でも、アフィーはまだ十三歳の少女で、候補生としては最年少だった。

おまけに無口でとっつきにくいとなると、彼らが近づくのを躊躇うのも無理はない。

しかしカイの尽力あって、垣根は取り払われた。

彼らはアフィーを丙級の仲間として受け入れた。


そうしてアフィーに、生まれてはじめて、居場所ができた。



アフィーは丙級の外に出ると、変わらず侮蔑の対象で、むしろ丙級の仲間と親しくなった分、虐待は激しさを増した。

女子寮では暴行を加えられることもしばしばだったが、しかしアフィーは、なにをされても平然としていた。

その態度は火に油だったが、アフィーは水をかけられようが釘を踏まされようが、髪を切り刻まれようが、泣き言ひとつ言わず耐えた。

アフィーはなにをされた日でも、眠る直前、はやく明日が来ないか、と思うようになっていた。

目覚めなければいい、などとは、もう思わなかった。

アフィーは毎日が楽しくて仕方なかった。

はやく明日を迎えて、カイに、ラウラに、丙級の仲間たちに会いたいと思った。

自分には居場所がある。

それだけで、アフィ―は辛いことをすべて忘れられた。


「それじゃだめだ」


カイは、そんなアフィーを強く叱った。



「なにもしてないのに、黙ってやられたままでいるなんておかしい」

買ってもらった飴を、女子寮の裏手にある下水に捨てられてしまった日、カイはそう言って怒った。

「嫌なことは嫌っていわなくちゃだめだ」

アフィーは、本当に久しぶりに、人前で涙を流した。

カイに、嫌われたと思ったのだ。

カイが怒っているのは、自分が、買ってもらった飴を台無しにしたからだと思ったのだ。

けれど違った。

カイの怒りは、アフィーの飴を捨てた女たちにあった。

カイはアフィーに怒ったのではない。

アフィーのために、怒っていたのだ。


耐えちゃだめだ、とカイは言った。

「黙っていじめられるなんて、そんなの絶対にダメだ」

「嫌って言わなきゃだめだ。我慢しちゃだめだ。逃げなきゃだめだ。誰かに助けを求めなきゃ、だめだ」

アフィーは泣きじゃくった。

心に、無数に刻まれていた傷跡が、一斉に開き、血を流した。


アフィーはずっと我慢していた。

我慢していることさえ、忘れてしまうほど、長い間、耐えていた。


本当は嫌だったのだと、アフィーはようやく気づいた。


アフィーはあふれ出したその思いを、カイに伝えた。


家族に入れてほしかった。

友だちがほしかった。

ふつうに口をきいてほしかった。

投げられた石は痛かった。

一人の食事は寂しかった。

名前を呼んでもらいたかった。

誕生日を祝ってもらいたかった。

抱きしめてもらいたかった。

誰かに助けてほしかった。

でも助けてくれる人なんて誰もいなかった。

自分は害虫だった。

嫌われるのがふつうだった。

ずっとひとりぼっちだった。

たすけてと言ったところで、誰も手を差し伸べてくれないのは、わかっていた。


「おれが助けるよ!」


カイはアフィーを抱きしめた。

涙をこぼしながら、力強く。


「だから自分のこと、害虫なんて言っちゃだめだ」

「誰がなにを言おうと関係ないだろ」

「自分で自分をいじめるなよ」

「お前をいじめてるやつらの方がよっぽど人間じゃねえよ」

「そんなやつらの言うことを真に受けちゃだめだ」

「自分を、もっと、大切にしろよ」


アフィーはカイの胸に涙をこすりつけながら、首を振った。

誰にも大切にされたことのないアフィーに、自分を大切にする方法など、わかるはずもなかった。


「おれが教えるよ!」


カイはアフィーの頭を、大きな手で、包みこむように撫でた。


「おれはアフィーが好きだよ」

「がんばりやで、照れ屋で、ばかがつく甘党で、天然のツンデレで、けっこう子どもっぽい遊びが好きで、仲間のことめっちゃ好きで、大事にしてて……一緒にいてすげえ楽しいよ」

「アフィ―はどう?おれのこと、好き?」

アフィーは頷いた。

アフィーはカイのことが大好きだった。

世界中にいる、誰よりも。

「おれがアフィーと同じ目にあってたら、いじめられてたら、いやじゃないか?」

アフィーはまた頷いた。

カイが誰かに虐げられているところを想像しただけで、はらわたが煮えくり返るようだった。

「おれもいやだよ」

「友だちが、好きなやつがいじめられてるなんて、耐えられない。許せない」

「だからもう、自分をいじめちゃだめだ」

「おれの好きな子のこと、大切にしてあげてくれよ」

「おれを好きなように、自分のことも、好きになってくれよ。大切にしてくれよ」

「すぐにじゃなくていい。ちょっとずつでいいからさ」

アフィーは涙を拭って、わかった、と答えた。


「わたし、自分を、好きになる。大切にする」


この日、アフィーは生まれ変わった。

もう自分を虫とは思わなくなった。

自分を大切にするようになった。

嫌のことは嫌だというようになった。

アフィーはもうひとりではなくなった。

寂しい夜はあっても、孤独に震えることはなかった。

アフィーは自分を、世界を、好きになった。

消えたいという願いはなくなり、代わりに、夢を抱いた。


いつかカイの一番大切な人に、宝物になる、という夢を。







「生きて」

今ではカイよりずっと大きくなった自身の手で、カイの頭を撫でながら、アフィーは言った。

「生きて、カイ」

「辛くても、苦しくても、死んじゃだめ」

「生きなきゃだめ」

「わたし、カイに、生きていてほしい」

「カイがいないなんてそんなの、嫌だ」

「ラウラも、きっと、同じ気持ちだったから、カイに身体、あげたたんだと思う」

「ラウラだけじゃない。シェルティも、レオンも、カイのことが好き。誰よりも大事。だから、生きてほしいと、思ってる。一緒にいてほしいって」

「カイ」

「カイは、わたしのこと、好き?」

カイはアフィーの膝から起き上がった。

そして背を向けたまま、ゆっくりと頷いた。

アフィーは目蓋を震わせた。

「わたしも、カイが、大好き」

アフィーはカイの背にそっと触れた。

「カイは、カイのこと、好き?」

カイは肩を震わせた。

両手で顔を覆い、声を殺して、泣きじゃくった。

「好きになって」

アフィーはカイを、背中から抱きしめた。

「自分のこと、好きになって、カイ」

「わたしの好きな人のこと、大事にして」

「カイは、世界を、めちゃくちゃにしたんじゃない」

「わたしたちを、助けてくれた」

「好きな人を、守った」

「それは、悪いことなんかじゃない」

「ラウラが、死んだのも、カイのせいじゃない」

「わたしが、弱かったから」

「わたしが、もっと強かったら――――あのとき、迷わないで、ヤクートを殺せていれば、カイは、傷つけられなかった。ラウラは、死なずにすんだ」

「ごめんなさい」

アフィーの謝罪に、カイは首を振った。

全部おれのせいだ、そう言おうとしたが、しゃくりあがる喉では、何も言うことができなかった。

「だから、わたし、強くなった」

「大事な人、もう、誰も失くさないために、強くなったよ、わたし」

「もうなにがあっても、ためらわない」

「カイを、守る」

「カイをいじめたやつには、やりかえす」

「あのとき、カイが、わたしのために、してくれたみたいに」

「わたしも、カイをいじめるやつ、やっつけるよ」

「だいじょうぶ」

「わたし、カイのおかげで、生まれ変われた」

「だから」

「カイにも、きっと、できる」

「カイも、きっと、生まれ変われる」

「今の自分、好きに、なれる」

「信じて、カイ」

「わたしを」

「あなた自身を」

カイは堪えきれず、ついに嗚咽をもらした。

声をあげて、泣いた。

小さな子供のように。

あの日のアフィーのように。

心の傷からあふれる血を、透明な涙として、流していった。

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