「ぜんぶおれのせいなのに、おれはなにも思い出せない」
〇
ケタリングは雲の上を、北東に向けてゆっくりと飛行していた。
上空四千メートル。眼下に広がる雲海は、月明りに白く光り輝いていた。
「カイ、もっと気合いれて霊操してねえと落ちるぞ」
ケタリングの背に安定して立つ三人に引き換え、カイはシェルティの支えがなければいつ振り落とされてもおかしくない状態だった。
「なんで……?」
ほとんど風にかき消された小さな声で、カイは言った。
「どうして――――」
「どうして居場所がわかったのかって?」
レオンは鼻を鳴らした。
「揃いの指輪作っただろ。言ってなかったが、あれは互いの位置を知らせ合うことができる霊具なんだ。お前がどっかにいっちまって、仕方ねえから指輪を頼りに探したんだが、なぜか連中の場所に出てな。一度探りをいれたときは見つからなかったが、夜になってまたきてみたら、やっぱりいやがった」
アフィーは心配そうに眉を寄せた。
「カイ、捕まってた」
しかしレオンとアフィーの答えは、カイの求めるものではなかった。
「――――おれ、なんで、覚えてないんだ?」
カイの言葉に、レオンとアフィ―は目を見開く。
「……嘘だと言っただろう」
ノヴァとの会話で、カイがなにかを知ったことを察していたシェルティは、宥めるようにカイの肩をさすった。
そして、何も言うな、とアフィーとレオンに目配せをした。
「ノヴァからなにを聞いたんだい?気にしちゃいけないよ。彼は……いくつか思い違いをしているんだ。だから彼の言うことは事実では――――」
「事実だろ!」
カイはシェルティの手を振り払い、叫ぶ。
「おれは!見たんだ!自分の目で!」
「見たって、いったいなにを?」
「見たんだ!ラウラの記憶を!これまでの全部を、知ったんだ!」
シェルティは絶句する。
「な、なんで……?」
茫然と呟くアフィーに、カイは叫び返す。
「おれが聞きたいよ!おれが――――お――――お、おれは――――」
「なんで――――全部忘れてたんだ?」
「ラウラのこと、お前らのこと、自分がしたこと――――いままでの全部、なんでぜんぶ忘れたんだ?」
「ぜんぶ、忘れて、おれは、笑ってた」
「ラウラの身体、自分のもんにして、ずっと、のんきに――――」
「なにやってんだよ」
「お前らも、なんで、教えてくれなかったんだよ」
「許すなよ」
「こんなおれを」
「ラウラを、し、し、死なせたんだぞ?おれは――――そんなやつのために、お前ら――――」
「おれなんかのために、ラウラが――――」
「ラウラが――――」
風に、カイの涙が、舞う。
「――――ラウラが、死んじゃった」
カイの身体が、宙に浮く。
レオンが咄嗟に足をつかみ、ケタリングの背へ引き戻す。
「死ぬ気か!?」
「離してくれ……」
「ラウラの身体だぞ!」
「っ……!」
「ラウラをまた死なせるのか!?」
「ちがう……」
「ちがわねえだろ!それはラウラがお前に与えたものだ!それをてめえで殺すのか!」
レオンはカイの胸倉をつかむ。
カイはしかし負けじと、レオンにつかみかかる。
「じゃあこのまま生きていけっていうのか!?世界をめちゃくちゃにして、ラウラを死なせたのに!?ラウラの身体で、今までみたいにのんきに暮らせってか!?」
「そうだ!」
「できるわけないだろ!」
「できる!」
二人の間にアフィーが割って入る。
「できるよ」
アフィーはカイを抱きしめる。
きつく。ありったけの力をこめて。
「絶対、カイなら、できる」
「……ははっ」
カイは哄笑する。
「アフィー、自分がどれだけ残酷なこといってるか、わかってるか?」
「……」
「本当は、いまここでアフィーと話してるのは、ラウラだったんだぞ」
「……!」
「おれがこれから生きる時間、ぜんぶそうだ。笑うのも、悲しむのも、ぜんぶ、ぜんぶ、本当はラウラのものだったんだぞ」
「……うん」
「ラウラの代わりに、それを生きていくなんて、おれには、無理だよ」
「……無理じゃない。カイは、ひとりじゃないから」
アフィーは腕を解き、カイの目をまっすぐ見つめる。
「ラウラは、まだ、カイのそばにいる。一緒に生きる。だから――――」
「ラウラはもういない!」
「いる」
「いないんだよ!もう、どこにも!」
カイはアフィーを突き飛ばす。
反動で、カイの身体がまた、空中に投げ出される。
今度はシェルティが、カイの手をつかみ、引きとめる。
「ラウラはいるよ。彼女は書き置きを残したんだ。それには、きみの傍にいると――――」
「でももういない」
カイはシェルティの手を握り返した。
拒絶するように、爪をたてながら。
「おれは見た。全部見た。ラウラはたしかにそう書いたけど、そのあと、行っちゃったんだ。カーリーと――――」
「カーリー……?」
「それにどこにいたって、おれがラウラを死なせたことに変わりはないだろ。……そうだよ。こんなやつのそばに、ラウラがいていいはずがない。だから、カーリーは、連れていっちゃったんだ……」
「……カイ。君はどうも、混乱しているようだ」
「してないよ。――――おれは、ちゃんと、見た」
カイは笑った。
泣きながら、痛々しく歪んだ笑みを浮かべた。
「おれは思い出したんじゃない。――――ラウラの記憶を見たんだ」
「……え?」
「自分のことはなにも思い出してない。ラウラが生きた十五年を見たんだ。ラウラの身体を通して」
追憶はカイにとって、長い映画を見たようなものだった。
ラウラの身体ですべてを体験した。
見て、聞いて、嗅いで、触れて、感じた。
けれど干渉することはできなかった。
観客は画面の中に立ち入ることはできない。
記憶に残る過去を変えることはできない。
カイは自分のためにラウラが傷つき、そして身代わりになって死んでいくのを、ただ見ていることしかできなかった。
「痛かった」
カイはもはや自分のものとなったラウラの身体を、抱きしめた。
「苦しかった。悲しかった。怖かった。――――死にたくなかった」
カイは記憶の中で経験した苦痛を吐露する。
どれだけ傷つきながらも、決して濁ることのなかったラウラの心情を、代弁する。
「ふつうの女の子だったんだ。ラウラは」
それは自傷だった。
「こんなちいさい身体でさ、いろんなもん背負わされて、大人になることを求められて、いっぱいいっぱいで生きてきたんだ」
吐き出される言葉は針だった。
「それなのに――――たった十五年でおわりなんて、短すぎるだろ」
鋭利なガラス片だった。
「誰よりも幸せにならなくちゃいけないのは、ラウラだったのに」
錆びた小さなナイフだった。
「おれなんかのために、ラウラは死んだ」
それらは身体の奥底から這い上がり、カイの内側を引き裂きながら、懺悔として外に吐き出された。
「おれがラウラの全部を奪ったんだ」
この身体で死ぬことができないのであれば、この身に宿る自分の魂が粉々に砕け散ってしまえばいい。
カイは自分を殺そうとしていた。
自ら絶望に油を注ぎ、厚く煮えたぎる澱の底へ、自身の心を深く沈めていった。
「おれ、最後にラウラに、なんて言ったと思う?」
「死にたくないって、言ったんだ」
「弱ってるラウラに、みっともなく縋ったんだ」
「全部自分が招いたことなのに」
「おれのせいで死んだひと、いっぱいいたのに」
「丙級のみんなは、おれのせいで、殺されたのに」
「抵抗しなかったのは自分なのに」
「おれ、助けてって、言ったんだ」
「いざ死にそうになったら、耐えきれなかったんだ」
「こわくて」
「死にたくなくて」
「……」
「みっともないよな、ほんと」
「くずだよな」
「……」
「それで助けてもらったら、今度は全部忘れてさ」
「本当に、都合よすぎだよ」
「助けてもらったこと忘れて、罪悪感から逃げて」
「大事な人のこと忘れて、自分だけ無傷で、どこも痛くないまんまで生き続けてさ」
「ほんと、最悪だよ」
「最低だよ」
「……」
「……なあ、だから」
「頼むよ」
「離してくれ」
カイは懇願する。
シェルティの手にはカイの爪が深く食い込み、血が滲んでいる。
けれどシェルティは、カイの手を離そうとはしなかった。
握る力は、時間が経つごとに、むしろ強くなっていく。
「なんでおれなんかのために……」
カイは手に込めた力をふっとゆるめた。
シェルティの手には、爪の食い込んだ跡が赤く残る。
「きみがラウラを救ったから、ラウラはきみを救うことができたんだ」
シェルティは言った。
「カイ。きみは世界をめちゃくちゃになんかしていない。誰の死もきみに否はないよ。きみがしたことはただひとつ、ぼくらの命を救ってくれたということだけだ」
「救ってなんかいない」
「きみがあの日、ぼくらを助けにきてくれなければ、縮地を発動させていなければ、ぼくらは死んでいたよ。きみはぼくらの命の恩人だ」
「……でもそれ以上に傷つけた」
シェルティの手の甲の爪痕を、カイは凝視した。
「おれの仲間だって、悪者扱いされて、おまけに今日までおれのこと助けさせた。世話させた。不自由を、強いた」
「やらされたつもりはないよ。したくてやってことだ」
「命の恩人だと思ってるからだろ」
「たしかにきみは恩人だ。でもそうじゃない。ぼくらの間にあるのはそれだけじゃない。きみはぼくらに、命より大切なものをくれたんだ」
シェルティの言葉に、アフィーは頷き、レオンは目を細めた。
「きみに出会うまで、ぼくはどこにもいなかったんだ」
シェルティはカイの視線を追い、自身の手に刻まれた爪痕を見つめた。
「きみがぼくを見つけてくれるまで、ぼくという存在は、どこにもいなかったんだよ。いみが手をとってくれたから、ぼくは、ここにぼくがいることを知ることができたんだよ。自分の足で歩くことを知ったんだよ。――――ぼくはきみに出会って、はじめてこの世界で呼吸することができたんだよ」
「でも、おれは――――」
「きみがぼくにそばにいろって言ったんだ。だからぼくは、なにがあっても、この手を離したりしないよ」
「……わたしも」
続けて、アフィーが言った。
「わたし、ずっと、一人だった。カイに会わなかったら、きっと、いまでも、一人だった。カイが変えてくれた。カイと一緒にいれるなら、わたし、どんなことでも、へいき」
「やめてくれよ――――おれは――――」
「やめねえよ」
レオンはアフィーの肩を抱き、シェルティーの背を叩いた。
「聞いただろ。お前はおれらにとって、ただの命の恩人じゃねえ、それ以上のもんだ。代えのきかない存在だ」
雲海の地平線が、朝焼けに染まりはじめる。
「死ぬな、カイ。共に生きると誓ったじゃねえか」
レオンの瞳は、夜明けの空を先取りしたような色に輝いている。
「――――知らない」
けれどカイの瞳は深い夜に沈んだままだった。
「おれ知らないんだ」
「あ?」
「思い出してないから、お前らとのこと」
「……どういう意味だ?ラウラの記憶を見たんじゃねえのか?」
「観ただけなんだよ」
自分が三人にとってかけがえのない存在であることを、カイは理解していた。
記憶のないカイに、三人はさまざまなものを与えてくれた。
もう果たすことのできない約束のかけらを拾い集めて、すこしでも、あの日願った夢がかなうようにと、振舞ってくれた。
三人のおかげで、カイは幸せだった。
目が覚めてから今日までの半年間は、縮地の修練にあけくれていた頃の自分が願ったであろう、理想の日常そのものだった。
それは三人の献身によってかなえられたものだった。
「なあ、お前らは、誰なんだ?」
けれどカイは、そんな三人を、突き放す。
「シェルティ、はじめて会った時のこと、覚えてるか?」
「……もちろん」
「おれは覚えてないよ。自分がお前になにを言って、なんで朝廷に連れ戻そうと思ったのか」
シェルティの顔から表情が抜け落ちる。
「おれは、ラウラの記憶を見ただけだから、おれ自身がお前らとなにを話したのか、全然覚えてないんだよ」
三人はようやく理解した。
カイの、真の絶望の理由を。
「なあ、アフィー?お前に好きだって言われて、おれそのとき、自分がどんなふうに感じたのか、知らないんだよ」
アフィーは瞼を震わせた。
「レオン、おれ、お前となにを誓ったんだ?なにを交わしたんだ?――――ラウラの記憶を見ても、わかんなかったよ。レオンみたいなやつが、今日までおれその側にいてくれた理由が、おれには、わからないんだ」
レオンは鼻を鳴らし、静かな声で言った。
「わざわざ言葉でいうもんじゃねえよ」
「そうだな。レオンと過ごした時間を覚えてるおれだったら、それで納得しただろうな」
「……カイ、もう、よしてくれ」
シェルティはひどくかすれた声で言った。
「もう自分を、彼らを責めないでやってくれ。きみを、追い詰めたのは、ぼくなんだ。きみがなにも覚えていないのは、きみ自身のせいじゃない。ぼくがやったことなんだ」
シェルティの瞳はカイと同じように暗闇に沈んでいた。
一切の朝日を反射せず、土色に変色してしまっていた。
「きみの記憶を消したのは、ぼくなんだよ、カイ」