「誰だ?」
幕屋の外は、明るい月夜だった。
ノヴァの命でその場にいる官吏の全員が、周囲の警戒にあたっていた。
官吏たちの間には、重苦しい緊張感が漂っている。
ただ植林地の視察にきただけだった。
復興事業のひとつであるこの地の植林は、首都の再興に欠かせないものであった。
首都近郊の森林地帯は軒並み更地となってしまったため、朝廷では現在、木材の輸送に多くの人員を割いている。
復興が進み、人口の増加が見込まれる首都において、木材の安定供給は必須だ。
西方霊堂と首都の中間地点にある、もとダルマチア家が林業地帯であったこの地域における植林は、最も重要な長期復興事業のひとつだった。
その視察業務は、重要ではあるが、決して危険などあるはずのない仕事だった。
ところが昼にケタリングが現れ、夜に少女が空から舞い降りてきた。
温厚で冷静な皇帝ノヴァ・ラサが、まるで人が変わったように怒鳴り散らし、少女とともに幕屋の中に閉じこもってしまった。
そしてその後、幕屋の中からは、やはりノヴァのものとはとても思えない叫びが、漏れ聞こえてきた。
官吏たちは戸惑っていた。
彼らは少女の正体を知らなかった。
見た目のまま、ラウラ・カナリアであると思い込んでいた。
ラウラと面識のある者は彼らの中にほとんどいなかった。
けれど誰もが知っていた。
十二歳という若さで朝廷に登用された天才技師。実兄の身体を依代とした異界人の補佐を、涙一つみせず全うした悲劇の人。現皇帝、ノヴァ・ラサの昔なじみで、恋仲であるとも噂される、美しい少女。
ラウラがこの五年昏睡状態にあったことさえも、官吏たちには周知の事実であった。
ラウラ・カナリアは異界人に裏切られた。
その挺身も虚しく、本性を現した異界人の手によって死の淵に立たされた。
かろうじて一命をとりとめた彼女は、前皇帝の崩御に伴い、新たに就任したノヴァ帝の庇護下におかれた。
災嵐の生存者のほとんどは傷病人であり、薬も介護者も不足していたが、ラウラは今後のエレヴァンにかかせない人材であり、またこれまでの多大な功労に報いるため、として優遇された。
最も被害の少なかった西方霊堂を彼女一人の療養の場としてあてがい、護衛と看護人として自身の兄を含む三人をつけた。
当然反発もあったが、ノヴァはこれを押し通した。
『西方霊堂には数多くの貴重な資料や霊具も残されている。その保全も兼ねて、西方霊堂への立ち入りは禁ずる』
それが皇帝に就任したノヴァが出した最初の命令だった。
私情であることは誰もが理解していた。
そのうえで、人びとは彼の贔屓を許した。
ノヴァは前皇帝、マルキーシェ・ラサによく似ていた。
実直で、義理堅い男だった。
生き残った人びとはこの若い皇帝をなによりも頼りにしていた。
どんな場所でも背筋を伸ばして立つ。どれだけ汚れ、傷ついている者にも臆さず手を差し伸べる。どんな悲惨な光景からも目を逸らさない。――――ノヴァは誰よりも懸命だった。
自身も母親を、多くの知人を失っているにも関わらず、悲しみにくれることなく、エレヴァンのために、生き残った人びとのために、誰よりも必死になって働いていた。
そんな彼に、人びとは敬服した。
ノヴァさえいれば、エレヴァンはまたもとの繁栄を取り戻すことができる。――――誰もがそう思っていた。
ノヴァは生き残った人びとにとって希望の御旗だった。
そんな彼がたったひとつだけ見せた弱み。たったひとつだけ押し通したわがまま。
それがラウラだった。
やはりラウラ・カナリアは、噂にあったとおり、ノヴァと恋仲だったのだろう。――――人びとはそう確信し、それまであった尊敬の念とともに、ノヴァに親しみを抱くようになった。
ラウラ・カナリアが彼の想い人であるならば、贔屓があってもいいだろう。
人びとはラウラの特赦を容認していた。
他ならぬ、ノヴァの想い人であるならば、と。
だからこそ、ノヴァの豹変を目の当たりにした官吏たちの困惑は大きかった。
ラウラ・カナリアが目覚めたことは、本来ノヴァにとって、この上ない吉報ではないのか?
なぜ彼女を目にして、喜び踊るのではなく、怒り狂ってしまったのか?
おまけに彼らは、詳細の説明もなく、歩哨を命じられていた。
一体なにを警戒しろというのか?
誰が襲撃にやってくるというのか?
彼らは周囲の警戒に当たりながらも、幕屋から漏れる怒鳴り声に耳を傾けていた。
聞き取ることはできない。けれど、とても、恋人に発する声とは思えない。
それがふいに止んだことで、彼らの緊張は頂点に達した。
「……私、見てきますね」
痺れを切らした補佐官が幕屋の様子をうかがいに入る。
官吏たちは固唾を飲んで幕屋を注視する。
「――――んぎゃっ?!」
補佐官が幕屋の中に入り込もうとした、そのときだった。
黒い影が、補佐官の背を覆った。
あまりのはやさに、官吏たちはなにが起きたのかわからなかった。
補佐官の姿は倒れるように幕屋の中に消える。
官吏たちは顔を見合わせ、それぞれ手にした霊杖をかまえる。
「な、なんだ!?」
「どうした!?」
幕屋から返事はない。
官吏たちは身構えたまま、じりじりと、幕屋ににじり寄っていく。
「陛下……?」
声をかけた次の瞬間、幕屋の中から、黒い影が這い出る。
「ぎゃあっ!」
影は這い出た勢いのまま飛び上がり、正面にいた官吏の顔に巻き付く。
「ああ!」
影は複数に分裂し、近くにいた官吏の顔に絡みつき、次々と昏倒させていく。
「落ち着け!オーガンジーだ!」
影をかろうじてかわした官吏が叫ぶ。
宙を舞うオーガンジーは、月明りに影を払われ、虹色に光る。
月光に舞う蝶のように、軽やかに、美しく。
官吏はオーガンジーからこぼれる水滴を見て、それが濡れていることに気付く。
「なにか塗ってある!気をつけろ!」
そう叫んだ瞬間、官吏の身体は地面に叩きつけられる。
「がっ……」
倒れた官吏の鼻先を、睡薬で濡れたオーガンジーがかすめる。
官吏はすぐに意識を失う。
六人の官吏があっという間にねじ伏せられてしまった。
残る四人は慌てて裾を割き、口を覆った。
官吏のひとりを投げ倒したアフィ―はそれを見て、宙を舞うオーガンジーに手を振った。
オーガンジーは獣が水を弾くように身震いし、付着した睡薬を振り払う。
手の内が露見したので、戦法を切り替えるのだ。
睡薬はすぐに乾き、身軽になったオーガンジーは、再び官吏たちに襲いかかる。
官吏たちは霊杖を振り、オーガンジーをいなす。
彼らはオーガンジーの性質を心得ている。
霊力をまとわせた杖を振るえばこの薄手の平織物は簡単に切り裂くことができる。
けれどオーガンジーはどれだけ細切れにされようとも、霊力の接続さえ途切れなければ動き続ける。
細かくした分だけ、相手の手数を増やすことになるのだ。
熟練した使い手であれば、百の布切れとなったオーガンジーであろうとも、正確に操作することができる。
そして彼らは知っていた。
たったいま自分たちが対峙しているのは、まさにその熟達者であるということを。
エレヴァンにおいて並ぶ者のいない、オーガンジーの使い手であるということを。
彼らは襲い来る四枚のオーガンジーに、どうにか応戦していた。
「――――あっ!?」
しかしオーガンジーに気を取られてすぎていた。
彼らの背後にアフィーは、一枚だけ手元に残したオーガンジーを鞭のように振るった。
官吏たちは足をすくわれる。
転倒した彼らを、アフィーはすかさず小刀で切りつける。
小刀に塗布された睡薬を受け、彼らは瞬く間に昏睡する。
五分とかからなかった。
アフィ―は歩哨に立つ九人の官吏を、瞬く間に制圧した。
〇
「終わったか?」
音が消えると、カイを抱えたシェルティが幕屋から出てきた。
「うん」
アフィーは官吏が落とした松明をひとつオーガンジーでつかみあげると、空高くに浮上させ、旋回させた。
ほどなくして、風を切る轟音とともに、ケタリングが現れた。
「――――ったく、手間かけさせやがって」
ケタリングの背に乗ったレオンは、カイの姿を見て、安堵するように鼻を鳴らした。