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それは瓦礫の表層に過ぎない


カイに抱えられたラウラが浮上して目にした光景は、筆舌に尽くしがたいものだった。

縮地はカイを中心にして、直径一キロの範囲に渡って発動された。

上空から見ると、縮地にかかった場所には雪が覆いかぶさり、そこだけが白くくり抜かれているようであった。

雪化粧の先には、縮地の外にあった地は、荒れすさんでいた。

青々とした草原と山林、空がそのままこぼれ落ちたかのような透き通る湖面、豊かな自然が彩るエレヴァンの姿は、もうどこにも残っていなかった。

すべてが色褪せ、くすんでいた。煤煙が無数に立ち昇り、湖面は黒ずんだ油で覆われていた。

樹木も芝も、大小問わず、植物という植物が萎れていた。

世界はまるで生気を抜き取られてしまったかのようだった。

嵐、地震、火事、疫病、災嵐がどのような形をもって、エレヴァンを襲ったのか、目の前に広がる荒廃した山林だけでは、ラウラには判断がつかなかった。

山林に残る痕跡は、そのどれにも当てはまるようであったし、また当てはまらないようでもあった。

それでも確かなことがふたつあった。

世界は災嵐に見舞われた。

そしてすべてはもう終わってしまった。

失敗だった。なにもかも手遅れだった。

ラウラが確信をもって言えるのはそれだけだった。

ラウラにはもはや、嗚咽をもらすことしかできなかった。

カイはそんなラウラからも、変わり果てた景色からも目を逸らして、王笏の操作にだけ意識を集中させた。

それでも王笏の操作は乱れ、大きく蛇行してしまう。

「ご、ごめん」

カイは謝った。特にアフィーはこれがはじめての飛行体験だった。

なるべく揺れのないよう飛ぼうとカイは気をつかっていたが、乱れた霊操を落ち着かせることはできなかった。

「ごめん……」

カイは無意識に謝罪を続けた。

それはいつしか、アフィーとラウラにではなく、目の前に広がる光景、その中にいるであろう人びとに向けたものへ変わっていった。

目を背けても、逃げることはできなかった。

カイは高度を落とした。

遠くまで見渡せないように、山間の先にある市街地まで見えてしまわないように、低く、低く飛んだ。

「――――ない」

黙りこくっていたアフィ―が、ふいに呟いた。

「どこに……?」

カイはその場で停止し、少しだけ高度をあげる。

「洞穴、このへんなのか?」

「うん、でも、ない」

そう言うアフィーは、カイにしがみつくばかりで、眼下をろくに見ることができない。

無理もなかった。アフィーにとってはこれがはじめての飛行なのだ。

地上二十メートルの空中を、王笏一本を足場に立っているのだ。

恐怖するのも当然だろう。

「上からじゃわかんないか?」

「近いとは、思う」

「じゃあ、とりあえず下りるか」

カイはゆっくりと下降した。


三人はしばらく山林をさ迷い、やがて人の手が入った山道に出た。

そこからは、アフィーの足取りに迷いはなくなった。

「洞穴、アリエージュたちがいる。食べ物も、薬も、ある」

アフィーは先導して歩きながら、憔悴する二人を励ました。

「狼狗もいる。やわらかい毛布もある。わたしの、隠してた、飴玉もある。だから、すぐ、元気になれる」

アフィーは必死に言葉を連ねたが、カイも、ラウラも、反応を返すことはできなかった。

飛行中、まともに景色を見なかったアフィーは、二人が沈み込む理由は疲れにあると思い込んでいた。

「洞穴につけば、ゆっくり、休める」

しかし、洞穴は、上空から見る景色がそうであったように、すでに元の形を保ってはいなかった。


緩やかな斜面を、無理やり引き裂いたような穴だった。

アフィ―はその入り口で立ち竦み、呟いた。

「前と、違う」

アフィーは以前にこの洞穴を訪れたことがあった。

もしものときにはここに逃げるのだと、アリエージュに教わっていたのだ。

しかしそのときより、穴が、明らかに大きくなっている。

入り口はもっと小さかった。中に入るとドーム状の空間が広がる、ラプソの一族の住居である天幕と同じ形をした洞穴だった。

それが今では、入り口は大きく割かれ、天井は崩落し、屈まないと歩けないような狭い穴が残るばかりになっていた。

「アリエージュ……?」

アフィ―は屈みながら、洞穴の中をのぞきこんだ。

「――――っ!」

洞穴の中には、ひどい悪臭が充満していた。

「なんだこの臭い……」

カイは鼻を塞ぎながら、洞穴の中に足を一歩踏み入れた。

「うわっ!」

途端に、蠅が舞った。

ブブブブブッと、蠅はカイの足元からわき出てくる。

カイはのけ反り、尻餅をつく。

「な、なんだ……?」

崩落した洞穴の天井が、瓦礫となって積み重なっている。蠅はその隙間から湧き出ている。

「下になんかあんのか?」

カイは瓦礫を持ち上げた。

「ひっ!?」

瓦礫の下には、潰れた子どもの顔があった。

「ああ!」

別の場所で瓦礫を持ち上げたアフィーも、悲鳴をあげる。

折れ曲がり、骨の露出した右手が、瓦礫の下から飛び出している。

洞穴の入り口に立っていたラウラは、その場にへたりこんだ。

(……崩れたんだ)

(洞穴の天井が落ちて、埋まったんだ)

ラウラは臭いの正体が、蠅がなにに群がっているのか悟り、その場でえずいた。

凍傷を負った指に、嘔吐物が染み、激痛が走る。

歯を食いしばって痛みに耐える。

両手が心臓になったかのように激しく脈打つ。

(痛い)

(でも、瓦礫の下敷きになるほうが、もっと痛いはずだ)

冬営地を無邪気に走り回る子供たちの笑顔。身内を亡くした悲しみをこらえて、懸命に生活を立て直そうとする女たちの、あかぎれにまみれた手。

なんの罪もない命だった。

ただ、ここに生まれ、ここで生きていただけの人たちだった。

(それなのに……!)

ただ生きていただけなのに、瓦礫に押しつぶされた。

人の形を失い、腐敗し、蠅に蝕まれた。

(そんなことが、あっていいはずがない……)

あふれた涙が、両手に滴り、さらに激しい痛みが、ラウラを襲う。

ラウラはそれを罰だと感じる。

彼女らをこんな目に合わせた自分への、罰だと。

「今出してやるからな」

カイはそういって、子どもの上に乗った瓦礫を動かそうとする。

けれど瓦礫は重く、ろくに動かすことができない。

「どけよ……どいてくれよ……!」

カイは半狂乱になって瓦礫を殴る。

「そうだ、壊せばいいんだ」

カイは王笏を手に取り、瓦礫につきたてる。

「……くそっ!」

しかし霊力をこめることはできなかった。

カイには自信がなかった。

瓦礫を粉砕することは造作もないが、その下にいる子供も、おそらく傷つけてしまうだろう。

それどころか、洞穴を再び崩落させてしまうかもしれない。

カイは王笏を投げつけ、叫ぶ。

「誰か、いませんか!」

返事はない。

ブブブブ、という蠅の羽音だけが、絶えず響いている。

それでもカイは叫び続けた。

「誰か、誰か!お願いだから、返事をしてくれ!」


くう……。


一滴の雫が落ちたような、ほんの小さな鳴き声があがる。

アフィーとラウラは、はっとして顔をあげる。

「いま……?」

三人は耳をそばだてる。

羽音にまぎれて、くうくうという小さな鳴き声が、確かに聞こえてくる。

三人は洞窟の奥へ足を進めた。

まとわりつく蠅も、鼻をつく悪臭も、瓦礫の隙間からのぞく人の身体にも目をくれず、ただひたすら、鳴き声を辿っていく。

「おまえ……!」

洞穴の奥で、狼狗の仔が、ぽつんと一匹転がっていた。

狼狗の仔は汚れていたが無傷で、空腹を訴えて鳴いていた。

アフィーは狼狗の仔を抱きあげ、声をかける。

「ずっと、ここに、いたの?お母さんは?ほかのみんなは?」

狼狗はアフィーの手を逃れるように、大きくのけ反る。

アフィーが下ろしてやると、狼狗の仔は瓦礫の隙間に小さな体を潜り込ませていく。

「この下……!」

三人は瓦礫を取り除きにかかる。

カイはまともに霊操ができず、ラウラとアフィーは霊力が尽きており、瓦礫は人力でのけるほかなかった。

両手の使えないラウラは、手首を使って細かな瓦礫を。アフィーとカイは王笏をてこに、重い瓦礫をずらし、どうにか隙間を広げていった。

数十分かけて、ようやく三人は、瓦礫の下に埋まる狼狗と、その隣に寄り添うアリエージュの姿を見つけることができた。

「……う」

アリエージュはうっすらと目を開けた。

瓦礫の下で、彼女はまだ生きていた。

「アリエージュ!」

アフィーとカイは、アリエージュを急いで引き上げる。

見たところ大きな外傷はなかった。

しかしアリエージュは虫の息で、目も虚ろだった。

「アリエージュ、しっかりしてください」

「起きて、アリエージュ。目を開けて」

ラウラとアフィーが声をかけると、アリエージュはゆっくりと口を開いた。

「終わった……?」

「え?」

「災嵐は、去ったの?」

「それは……」

まったく現状をつかめていないラウラは、言葉に窮する。

ラウラたちはまだなにも知らなかった。

自分たちはどれくらいの時を飛んだのか、なぜ洞穴が崩壊したのか、いま現在は災嵐の渦中にあるのか、そうではないのか。

ラウラはなにもわからず、アリエージュの問いに答えることができなかった。

「――――終わった」

けれどアフィーは、アリエージュの両手を握りしめて、言った。

「もう、ぜんぶ終わった」

「本当に?」

「うん。災嵐は、もうない。アリエージュは、助かった」

アリエージュは身体の力を抜き、アフィーの腕の中に沈み込んだ。

「……よかった」

アリエージュは、抱きかかえるように腹に添えていた両手をそっと解いた。

「守れたのね、私」

アリエージュは頭からつま先まで泥と砂ぼこりに塗れていたが、腹にだけは、染みのひとつついていなかった。

「水が、飲みたいわ」

「……!待ってて、すぐに汲んでくる」

立ち上がったカイを見て、アリエージュは呟く。

「失敗したのね」

カイはびくりと肩を震わせる。

「アリエージュ、カイは、なにも、悪くない」

カイを庇うアフィーに、アリエージュは微笑みかける。

「言われなくてもわかってるわ、キース」

「……私は、キースじゃ、ない」

「みんなは無事?水を……私の前に、みんなに、あげて」

「うん」

「あの子のおかげなの。あの子はすごいわ。私と、自分の仔を、死んでも守った」

「……うん」

「水がほしいわ」

「すぐ、持ってくる」

アリエージュはせん盲状態にあった。

もはやまともな会話を成り立たせることはできなかった。

それでもアフィーは、一言ずつ、相槌を返した。

「私は、守り切ったわ」

「うん」

「この子のこと、ちゃんと守ったの。災嵐に飲み込ませるようなこと、しなかったの」

「うん」

「私、約束を果たしたのよ」

「うん」

「産んであげられなくて、ごめんなさい。でも、でもね、私たち、ちゃんと死ねるわ。災嵐の中に消えるんじゃない、ちゃんと、キースのところに行けるわ」

「だめ!」

アフィーは叫ぶ。

「だめ、アリエージュ!死んだら、だめ!」

アリエージュの顔に、アフィーの涙が滴り落ちる。

「……キース」

アリエージュは笑う。

これ以上の幸福はないと言わんばかりの、満面の笑みを浮かべる。


「こんなところにいたの」

「ずっと探してたのよ」

「会いたかったわ」

「一番近くにいてくれたのね」

「待っててくれたのね」

「信じてくれたのね」

「私が、災嵐をこえられるって」

「……そうよ」

「私、ちゃんと、この子を、守ったのよ」


アフィーはもはや、声を発することができなかった。

アリエージュはアフィーの頬に触れ、泣かないで、と言った。

「貴方が死んだとき、私は我慢したのに、ずるいわよ」

「これからはずっと一緒なのよ」

「三人でずっと一緒にいるの」

「本当のラプソとして、暮らすの。生きていくの」

「夢が、叶うわ」

「だから、あなたも、喜んで――――」

アリエージュの手が、アフィ―の頬から落ちる。

アフィーは咄嗟にその手をつかむ。

「アリエージュ!」

どれだけ呼びかけても、アリエージュが目を開くことはなかった。

二度と。

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