彼らは前奏中に退席した
「カイ!ラウラ!」
呆然とする二人に、シェルティが叫ぶ。
「うしろ!」
ラウラははっとして、振り返る。地面から顔をあげたケタリングと目が合う。
「……?」
なにか様子が変だ、とラウラは思う。
ケタリングとラウラの間には、飛車が落ちている。
けれどケタリングはあれだけ追っていた飛車に目もくれず、ラウラをじっと見つめている。
その目には、色が、戻っていた。
黒一色に染まっていた眼球は、濃い黄金色に、もとあった猛禽の瞳に戻っていた。
(正気に、戻った……?)
ラウラが警戒しつつも動かずにいると、アフィーが慌ててオーガンジーを飛ばした。
「逃げてっ……!」
アフィーのオーガンジーはケタリングの瞳に張り付く。
ケタリングはそれに反応を示さず、開いているもう片方の目を、アフィーに向けた。
「っ!」
「待て!」
身構えるアフィーの前に、レオンが立ちふさがる。
「目を開けさせろ」
「でも……」
「いいから」
アフィーはオーガンジーをゆっくりとケタリングから離す。
「……」
レオンとケタリングが、視線を交える。
ケタリングは半透明の瞬膜を開閉し、すっと目を細める。
「おい、誰か――――なんでもいい、硝子を持ってねえか」
ラウラとアフィーは首を振る。
「少し待て」
シェルティはそう答え、呆けるカイのもとに走った。
カイはその手に王笏を握っていた。
シェルティは懐から小刀を取り出し、王笏の飾りの一つ、金色の宝玉を削り出した。
「これでいいか」
「十分だ」
宝玉を受け取ったレオンは、ケタリングに向けて、光を放つ。
光は点滅する。長さの違う点滅を数回繰り返す。
点滅がおわると、ケタリングは大きく目を見開いた。
「――――そうか」
レオンは深く息を吸いこみ、口もとに笑みをたたえた。
「いい名だ」
レオンは再び宝玉を点滅させる。
先ほどとは異なる信号を、ケタリングに向かって放つ。
それを受けたケタリングは、深く頭をたれ、尾の先をそっと、レオンの眼前に差し出した。
「もう、大丈夫だ」
レオンは尾の先を強く握り、言った。
「こいつはもうおれらに手出しはしない」
「確かか?」
「ああ」
レオンが断言すると、シェルティは途端にケタリングへの警戒をとき、呆けるカイの肩をゆすった。
「カイ――――カイ!しっかりするんだ!」
「シェル……」
カイは真っ青な顔で、辺りを見回した。
「み、みんな、無事だった……?」
「なんともないよ」
「よかった……」
カイは脱力し、シェルティの胸に倒れこんだ。
「カイさん……縮地を、発動したんですか?」
ラウラの問いに、カイはびくりと肩を震わせる。
「……たぶん」
「たぶん?」
「無我夢中で……」
ラウラの全身から血の気が引く。
「ど、どこまでやったんですか?範囲は?期間は?」
本来朝廷の鐘塔で行われるはずだった縮地を、カイはこの南端の山奥で、たったひとつの飛車を媒介に行った。
その結果がどうなるか、ラウラには想像がついた。
けれど受け入れることができなかった。
ラウラは現実から目を背けるために、カイを問い詰めた。
「だ、だ、だいじょうぶ、ですよね?天回も戻りましたし、災嵐も、おわったんですよね?エレヴァン全部が、ちゃんと、縮地されたんですよね?」
カイは震えるばかりで、なにも答えることができない。
「カイさん、答えて……答えてください……」
ラウラは懇願する。
見かねたシェルティはカイを抱きしめ、優しい声で言った。
「ラウラ、落ち着いて。――――カイ、いまがどういう状況なのか、わかる範囲でいい、教えてくれないか」
「――――おれ」
シェルティの腕の中で、カイは声を振り絞る。
「ま、待ってたんだ」
「うん」
「待ってたんだ、おれ、飛車が戻るのを。――――南部の飛車が戻っても戻らなくても、縮地は予定通りやるって言われて。おれ、迷った。だって、どんどん寒くなるし、この寒さが災嵐じゃないのかって思って。でも――――だんだん、飛車が戻ってきたから。南部の飛車まで霊力が届くようになったから、だいじょうぶだって思った」
カイは顔をあげ、自身が使用した、折れた飛車に目を向ける。
「ここの飛車にも、たしかに届いたんだ。最初は、たしかに、届いた」
(そう、たしかに、届いた……!)
ラウラはたまらず、両手で顔を覆った。
血と泥と膿に塗れた包帯が、ラウラの顔を汚す。鼻を悪臭で満たす。
「そのとき、感じたんだ。ラウラの霊力を。――――安心した。ラウラも、みんなも、無事だって思って――――でも、次に試したときは、だめだった。他は全部大丈夫だったのに、ここだけには届かなかった。すこしだけ触れて、すぐに途切れたんだ。おれ、なにかあったんじゃないかって思って――――それで――――」
ラウラは嗚咽を噛み殺した。
汚れた包帯では吸いきれないほどの涙が、瞳からあふれ出た。
「ごめん」
カイは泣き崩れるラウラを見ることができず、シェルティの胸に顔をうずめて言った。
「ごめん、おれ……」
「なにを謝ることがある」
シェルティはカイをきつく抱きしめた。
「きみはぼくらを救ってくれたんだ。謝ることなんかなにもないだろう」
「……カイ」
アフィーはおぼつかない足取りでカイに近づき、その背に額を寄せた。
「カイ、ありがとう。助けに来てくれて」
「シェル、アフィー、でも――――でもおれ――――」
「立て、カイ」
レオンは王笏を拾い上げ、カイに差し出す。
「なにがどうなったのか、お前も全部はわかってねえんだろ」
「……うん」
「なら立て。まずは他がどうなったのか確かめに行くんだ。こいつらの手当ても、はやいとこしてやんねえと」
カイははっとして顔をあげた。
カイ以外の四人は、みな傷だらけで、満身創痍だった。
「これ以上後悔を重ねたくねえなら、まだ間に合うもんに、全力を尽くせ」
「……ああ!」
カイは王笏を受け取り、立ち上がった。
〇
五人は冬営地に戻った。
なによりもまず手当てを行う必要があったからだ。
芙蓉の効果が切れたラウラは、それまで累積していた疲労と痛みに苛まれ、歩くことがやっとの状態だった。
シェルティ、アフィー、レオンの三人も、動くことはできるが、それぞれ打撲や擦過傷、肋骨の骨折などの重症を負っていた。
しかし引き返してみた冬営地は、とても手当など行える場所ではなかった。
「なんだ、これ……」
一同は目を疑った。
冬営地はその半分が焦土と化し、残りの半分が雪に覆われ凍り付いていた。
その境は定規で線を引いたかのようにはっきりとしている。
ラウラはそれがなにを意味するのか、すぐに見て取った。
「境……」
カイが息を詰まらせる。シェルティはすかさずカイの身体を支え、落ち着いて、と声をかける。
「動揺してはいけない。冷静になるだ。――――ラウラ、これはつまり、ここが縮地の境界にあたるということかな?」
ラウラは乾いた声で、はい、と答える。
カイを中心に発動された飛車は、冬営地の半分だけをその範囲の中に含んでいた。
縮地に含まれた部分は、つまりつい先ほどまで吹雪に見舞われていたのだ。
秋晴れのもとに新雪が広がる光景は、それ以外に説明のしようがなかった。
そして縮地に含まれなかった部分、残りの半分は、打って変わって黒色が広がっていた。
まるで爆弾でも落ちたかのように、地面はえぐれ、木々は焼け落ち、すべてが黒く炭化していた。
「いったいなにが起きたらこんなことになるんだ?」
シェルティの呟きは、全員の心境を代弁していた。
山火事とも思えなかった。
なぜならすべてが炭化しているわけではなく、離れたところではまだ青々と樹木が生い茂っていたからだ。
この冬営地の一帯、縮地との境界だけが、黒く焼け落ちてしまっていた。
レオンはしゃがみこみ、黒い地面に触れる。
「これは……」
炭化した樹木だけではなく、溶けた鉄が境界の周囲には広がっていた。
すでに冷えて固まっているその鉄に、レオンは触れる。
指先には黒い油汚れが付着する。
「ケタリングだ」
レオンは油汚れの臭いを嗅いで、間違いない、と言った。
「ここでケタリングが燃えたんだ。それも一体じゃねえ――――この有様じゃ、へたすると十体以上だ」
「あ、ありえません」
ラウラは首を振った。
もうこれ以上悪い話があってほしくない、とでもいうかのように、必死にレオンの推測を否定する。
「たしかにケタリングの体内には可燃性の液体が流れています。けれどそれを発火させるためには、空気に触れさせなくてはいけません。著しい損傷でもない限り、燃えることはないはずです。いったい誰が、あのケタリングに、それも十体もの数相手に、傷をつけることができるというんですか?」
「人が相手とは限らねえだろ。――――そんなことがあるのかは知らねえが、互いにやりあったか、あるいは――――縮地を壊そうとして、逆に自分が壊れちまったのか」
「あ……ありえ、ません。そんな……何のために……」
「原因はいずれ明かされるだろう。いまはそれより、はやく手当てを」
シェルティは二人の話を打ち切り、まだ雪の残る、縮地に守られていた方へ足を踏み入れる。
「薬か、包帯の代わりになるものか……あまり吸いたくはないが、芙蓉があればいいんだけど」
しかし望みは薄かった。
縮地で飛ばされてきた冬営地の半分も、状態で言えば炭化した残りの半分と大差はなかった。
つい先ほどまで氷雪が吹き荒れ、ケタリングが暴れていたのだ。
雪と土石、倒木、そして崩れた天幕が折り重り、散乱している。
まるでもとの草原の面影はない。
「ああ!」
倒木の下敷きいなった幕を引っ張り出そうとしていたカイが、突然叫んだ。
「誰かいる!」
幕をめくると、そこに、老婆が倒れていた。
幕ごと倒木の下敷きになった老婆は、気を失っていたが、たしかに生きていた。
「木をどかすぞ」
「ああ!」
レオンとカイは協力して木の下から老婆を引きずり出す。
それはラリュエ・ラプソだった。
ラウラに花嫁衣裳を着せ、憎しみを吐いた、アリエージュの義祖母だった。
「運のいいババアだ」
レオンは鼻を鳴らした。
「意固地になって動かなかったのが幸いしたな。デカい口叩いて、結局カイのおかげで命拾いしやがった。――――これでもう恨み言を吐くような真似はやめるだろ」
レオンは老婆を背におぶり、ここはもうだめだ、と言った。
「ろくなもんが残ってねえ。下に降りて探した方が早い」
「下がどうなっているかもわからないぞ」
レオンの提案に、シェルティは懸念を返す。
「ここよりひどい状態という可能性もあるだろう」
「そのときはその時だ。いずれにしろいつかは下りなきゃなんねえんだ。だったら早い方がいい。いまから動けば、日が暮れる前には山を出られる」
レオンは空を見上げる。
日はまだ高い。
先ほどのケタリングが、その下をゆっくりと旋回している。
「……あれも連れていくのか?」
「置いていきてえが、硝子が底をつきた。光球がなきゃ、あいつに指示は出せねえし、放っておいたらああしてついてくるだろうな。まあ下には降りてこねえだろうが」
「また暴走したらどうする」
「だから下に降りるんだよ。災嵐がどんなもんだったかしらねえが、硝子の一片くらい残ってるだろ。おれが一人ここに残るって手もあるが……どうする」
「それはダメだ。いざというとき君がいなければ――――」
シェルティは最後まで言い切らずに、レオンから視線を逸らした。
レオンは眉間にしわを寄せ、とにかく下りるぞ、と言った。
「カイ、お前はラウラとアフィーを連れて先に降りろ」
カイは頷き、王笏に足をかけて、浮かびあがった。
「どこで落ち合う?」
「山道の終わりに洞穴がある。詳しい場所はアフィーに聞け。おれたちもすぐに追いつくから、待ってろよ」
レオンに続いて、シェルティも念を押した。
「ぼくたちと合流するまで、何があっても、そこを離れてはいけないよ」
「離れないよ」
カイはボロボロになったラウラをそっと抱きかかえながら、言った。
「なにがあっても、もう絶対に離れたりしない」