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標のない氷河


馬は街道を駆け抜けていく。

走り出してからゆうに三時間は経過しているが、休むことも、速度を落とすこともなく、南へひたすら前進していった。

ラウラは激しい振動を伴う乗馬に疲れ果てていたが、懸命に手綱を握りしめ、どうにか振り落とされないよう堪えていた。

(……寒い)

ラウラは白い息を吐き、空を見上げた。

東の空は未だ快晴が続いている。

しかし西の空には、見たこともないほど厚く、暗い雲が、立ちこめていた。

それは青空を侵食するように、エレヴァンの中に流れ込んでくる。

ラウラは身震いした。

はじめは、風にあてられて、寒気を覚えたのだと思った。

しかし肌に触れる空気は時を追うごとに冷たくなる。馬も、すれ違う人も、鼻を赤くして、白い息を吐き出している。

(まだ九月なのに、ついさっきまであんなに心地いい天気だったのに、どうして……)

「お待ちください!」

ラウラの前を走るブリアードの前に、農民と思しき男が立ちはだかる。

「なにがあったんですか?!」

「……すみません」

ブリアードは止まることなく、男を避けて進んだ。

しかし男は追いすがり、なおも問う

「教えてください。天回はどこへ行ったんですか?この寒さはなんですか。まさかもう、災嵐が――――」

ブリアードは答えず、速度をあげる。

ブリアードの馬を追うラウラの馬も、合わせて足を速める。

「大丈夫です!」

ラウラは通りすがりに、男に声をかけた。

なにが大丈夫なのか、ラウラ自身にもわからない。

しかし男は、どこか安心したような表情で、遠ざかる二人を見送った。

ラウラは胸を痛めた。

根拠のない慰め与えることしかできない現状を歯がゆく思った。

しかし、街道を歩く民は、通り過ぎる村落は、想像よりもずっと静かだった。

というより、人出が極端に少なかった。

(みんな、怖がってるんだ)

人びとはみな家に閉じこもり、天回の失われた空から目を逸らしていた。

なかには、災嵐が到来したのだと思い込み、一度離れた都市へ舞い戻ろうとするものもあった。

朝廷から南都まで続く街道を、ラウラとブリアードは恐怖と寒さで震える人びとを追い越しながら進んでいった。

その数は、南都が近づくにつれ増えていく。

「だめです!」

ラウラは誰かを追い抜くたびに、家に戻るよう説得の声をかけた。

「南は危険です。戻って!」

追い抜き際の短い言葉を正確に聞き取れた者はほとんどいなかっただろう。

人びとは訝しむだけで、後戻りなどしなかった。

しかしラウラもまた、丁寧な説得をしている余裕はなかった。

一刻も早く南都に到着しなければならない。

例え小さい子連れの親子を追い抜こうとも、ラウラは短い喚起以上のことはしなかった。

(飛車さえ、戻ればいいんだ)

ラウラは自分に強く言い聞かせて、良心を抑えつけた。

(傘さえ元通りにできれば、誰も災嵐に遭うことはないんだから……!)

強い北風が吹く。

冷たい追い風が、急ぐラウラの背を押した。

急かすように。

追いやるように。



朝廷を発ってから四時間。午後一時過ぎ。

いよいよ積雲がエレヴァンの空を覆いつくし、外気温は五度を下回った。

ラウラとブリアードは街道を外れ、河川の船着き場で馬を止めた。

始終無言だったブリアードは、馬を降りてようやく口を開いた。

「さすがですね、はじめてうちの馬に乗ったとは思えません」

ブリアードの手を借りて馬から降りたラウラは、ほとんど限界でした、とかすれた声で言った。

(狼狗とケタリングに乗っていなければ、すぐに落馬していただろうな)

ラウラは口から泡を吹き、今にも昏倒しそうな様子で喘ぐ牝馬を、そっと撫でた。

ダルマチア家の駿馬と言えば、それだけで多くの官吏が、速く、そして忍耐強い馬を思い浮かべた。

ダルマチア家は由緒ある霊技師の大家であるとともに、エレヴァンでも有数の馬飼いであった。

彼らの馬が他より優れている点は、発育や血統ではない。

ダルマチア家は馬の仕込みに霊力を用いる。

本来取り込めるはずのない量の霊力を与えられた馬は、過熱状態に陥り、心臓発作や高血圧ですぐに死んでしまう。

しかしダルマチア家の馬は、まだ人を乗せない仔馬の時期から少しずつ霊力を与えられ、霊力をきちんと出力できる身体へと成長していく。

そうして駆け足で数時間の走り続けること霊馬が出来上がるのだ。

しかし馬の身体に負担がかかることに変わりはなく、その寿命は十年、馬の平均寿命の半分以下だった。

また一頭育てるために膨大な労力を費やすので、ダルマチア家は霊馬をめったに外に出すことはなかった。

また調教は行っても、肉体を酷使する走りは控えさせていた。

ブリアードが今日持ちだした二頭は、ダルマチア家の秘蔵ともいっていい馬だった。

しかしそんな二頭を、ブリアードは惜しむこともなく川辺に打ち捨て、舟に乗り込んだ。

ラウラもまた、今にも倒れそうに喘ぐ馬を顧みることはせず、痺れる足腰で、おぼつかない足取りで、舟に乗り込んだ。


朝廷のある首都と南都の間には、独立峰がそびえている。

都市間を結ぶ街道はこの山を通っているが、首都から南都へ向かう場合は、馬で山を登るよりも、下りの川を伝って山を迂回した方が早い。

「せめて漕ぎ手の一人残っていてくれれば、楽だったんですけど」

ブリアードは舟を漕ぎながら、そうぼやいた。

「舟が残っているだけよかったです」

ラウラは船尾に据えられた船を漕ぐための霊具に霊力をこめた。

尾びれのようなそれは、飛沫をあげながら舟を漕ぎ始める。

ラウラはほっと息をついた。

(よかった。使えた……)

舟は河川を滑るように流れていく。

水が流れる速度より早く動く。

しかしラウラはそれでもまだ、遅い、と思った。

(使い慣れてる人が一人でも残っていてくれたら、もっと早く、進んだのに)

仕方のないことだとわかっても、ラウラは嘆かずにいられなかった。

船着場には船頭も案内人もおらず、舟だけが打ち捨てられていたのだ。

彼らもまた、この天回の消失と異常気象に恐れをなして逃げ出したのだろう。


しばらくすると舟は急流に乗った。

ブリアードは櫂を動かす手を休め、ラウラに言った。

「少し休みませんか。しばらく流れは続きますし、いまここで霊力を使い果たしては、南都でなにもできなくなってしまいますから」

「……そうですね」

ラウラは霊具から手を離す。

尾びれは動きを止め、激しい飛沫も納まったが、流れに乗った舟は速度を落とすことなく水面を滑って行く。

「急だったので、こんなものしか用意がありませんが」

ブリアードはそう言ってラウラに平焼きのパンを手渡した。

ラウラは礼をいって受け取ったが、口をつけようとはしなかった。

「食べれるときに、食べておいた方がいいですよ」

そういうブリアードも、パンを手にしてはいたが、口に運ぼうとはしなかった。

彼の手は震えていた。

寒さと、恐怖のために。

「ブリアードさんは、なにが起こっているとお考えですか」

「皆目見当もつきません。むしろ教えていただきたいです。いったいなにが起こっているんですか?」

ラウラは首を振って、上空を見上げた。

灰色の雲が、恐ろしいくらいの速度で流れている。

どれだけ目をこらしても、やはり天回は見えない。

ラウラは答える代わりに、円卓会議の詳細を話して聞かせた。

南部の対処について二派が対立し、最後は皇帝が折衷案を押し通したことを。

「待機している間は、内容が気になって仕方なかったので、私も入れたら、と思っていましたが――――頼まれても参加したくありませんね、そんな会議には」

ブリアードは力なく笑った。

いつもの弁舌はふるわなかったが、それでも言葉少なに、語った。

「しかし、こう言ってはなんですが、この状況では私もチャーリー様に賛成です」

「……ではどうして南部に?」

「ヤクートがいますから。それにアフィ―や、ほかにも何人か弟子が、南部にいるんです。そうでなければ、例え命令でも、こんなところまできませんよ」

ブリアードは意を決したように、パンにかぶりついた。

「私はそこまで忠実な官人ではありませんから」

ラウラはブリアードを否定することはできなかった。

他ならぬラウラ自身にも、いますぐ逃げ帰りたい、という欲求があったからだ。

天回のない空も、急激で異常な寒気も、ひどく恐ろしかった。

もしかしたらすでに災嵐ははじまっているのかもしれない。

そう考えると、恐怖で動けなくなりそうだった。

(……まだ決まったわけじゃない)

ラウラはパンを口にした。

固く、乾いた、味のないパンだった。

ラウラはそれをほとんど咀嚼せず、無理やり喉の奥に流しこんだ。

そして自身を鼓舞するために、あえて不満を口に出した。

「私、チャーリー様とああいった場でご一緒するのははじめてだったんですが……あんなにひどい人だとは思いませんでした」

ブリアードは目をぱちくりとさせる。

愚痴を言っている場合ではない。怒っても事態は好転しない。ラウラはそれを理解したうえでなお、自身の内でくすぶる思いに薪をくべ、燃え盛らせた。

身体を内側から温めるために。

悲観と恐怖を、弱気を、焼き払ってしまうために。

「会議の場で陛下を茶化すような言動をしたり、殿下のことを……自分の子どもがいる場所を平然と見捨てようとしたり、カイさんのことも軽んじていて、すごく不愉快でした。控えめで政務にも消極的な、どちらかといえば芝居や詩歌を好まれる文化人だと伺っていましたが、ちっともそんなことないじゃないですか」

ラウラらしからぬ発言に、ブリアードは戸惑う。

「ええと、いや、私もさほど親しいわけではないので、なんともいえませんが……」

「ブリアードさん、以前皇帝の足回りを担当されていたんですよね?そのときにご一緒されなかったんですか?」

「ああ、懐かしいですね。――――ずっと昔の話ですよ。まだ陛下が即位される前の話です」

ブリアードは櫂を動かし、舟の軌道を修正した。

「遠乗りする二人のお供をしたことがありました。でもそのときのチャーリー様の印象は、穏やかで人当たりのいい好青年といったかんじでしたよ。それこそいまのシェルティ殿下によく似ていらっしゃいました」

「会議では、ちっともそんなふうじゃなかったですよ」

「私と同じで、恐れているんですよ、きっと」

「そんなふうにも見えませんでしたが……」

「誤魔化したんですよ。齢をとると、正直に怖いということが、なかなかできなくなってしまいますから」

ブリアードは片手で水をすくい、唇を湿らせた。

「夏でも川の水は冷たいものですが、いまはすこし暖かくかんじます。不思議ですね。風が凍るようだからでしょうか、それともこれも、異常のひとつでしょうか」

そう言われて、ラウラも水を飲んだ。

たしかに、水は少なくとも、外気温よりは温度が高かった。

「今朝、天回の消失が陛下に報告されたとき、たまたま私は近くにいたんです。それでラウラさんとノヴァ殿下を探すように命じられました。私は本来、内廷を自由に歩き回れる立場じゃないんですけどね。お前は足が速いから、と。私はもう六十近いんですけどね、まさか足の速さを買われて伝令に出されるとは……」

岸辺で大木が倒れていた。

倒れてからまだ日が浅いのだろう。枝にはまだ青い葉がたっぷりと茂っていた。

「お二人を探して鐘塔を上ったんですが、中央の鍾塔に上るのは初めてだったんですが、いやあ、驚きました。見た目ではわからないものですね、あんなに古い建物だったなんて」

倒木は川にかかっていた。ブリアードは櫂を操り、最小限の動きで、器用にそれを躱す。

「そう思いませんでしたか?まあ暗いからわかりづらいですよね。塔内は小さな明りしか持つことが許されていませんし……。あのときの私は急いでいたので、こっそり大きな角灯を持ち込んだんですよ。それで内部をはっきり見ることができました。もしかしたら他の都市の塔内も似たようなものかもしれませんね。建立は間隔が空いているそうですが、見た目はどこもさほど変わりませんし……。私はだからよけいに、怖くってならないんですよ。だって鐘塔は、最後の砦ですからね。あれがなければ我々は、災嵐を裸で迎えるようなものです。それがあんなに古ぼけているものなんだと知って、陛下が縮地に執心する理由はこれじゃなかって疑ってしまいましたよ」

「……まさか」

「憶測ですけどね。でもまあ、千年も昔からあるんですから、当然といえば当然でしょう。だから皇帝は縮地を推し進めなければならなかった。鐘塔に変わる防壁をつくらなければならなかった。――――そう考えると得心がいきます」

鐘塔は機能しないのではないか。

衰えた鐘塔の力では、もはや災嵐を防ぐことはできないのではないか。

それがブリアードの考える仮設だった。

「で、ですが、この前の予行では五基とも運用できました。問題なく」

「そうなんですよね。だから今のは、私の妄想です。いやあ、すっかり弱気で申し訳ない。真に受けないでください」 

ブリアードはすぐに撤回したが、ラウラの頭にその仮説は強く刻まれてしまった。

(もし、いま仮説が当たっていたとしたら……)

(飛車を元通りにできなければ、南部は、都市ごと、災嵐に……)

一段と強い北風が、吹き付ける。

横殴りの風を受け、舟は大きく揺れる。

ラウラとブリアードは咄嗟に身をかがめ、舟にしがみつく。

どうにか転覆は免れたが、二人は激しい水しぶきを浴びた直後に刺すような北風に晒され、瞬く間に凍えてしまった。

「仕方ありません。ないよりはましでしょう」

ブリアードはそう言って、舟に敷かれていた筵を身体に巻き付けた。

ラウラもそれに倣い、汚れたカビ臭い筵をまとう。

それでも一度冷え切った身体が温まることはなく、ラウラは震えを止めることができなかった。

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