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冬営地にて(六)

西方霊堂を離れてから冬営地で再会するまで、ラウラとアフィーは文通を交わしていた。

二人はそこでさまざまな話をした。

互いの近況、霊堂での思い出、身近な人の恋の噂。

そして出会う以前の、故郷の話。




東北の峡谷にある小さな村が、アフィーの故郷だった。

険しい峡谷にへばりつくようにして、二十世帯が軒を連ねている、閉鎖的な村だった。

外から村に続く道は急勾配の細道が一本あるだけで、旅人も行商人もめったに訪れなかった。

村人はみな養蚕業を営んでいるが、蚕の餌である桑は峡谷の中には生えない。

村人は毎日、数時間かけて細道を登り、桑畑まで葉の収穫に向かわなければならなかった。

なぜ峡谷の上ではなく、不便な谷底に村があるのか、アフィーは知らなかった。

転がり落ちてできたようなその村で、厳しい生活を苦とも思わず、アフィーは日々を過ごしてきた。


村でのアフィーの仕事は、毎日籠一杯の桑の葉を収穫することだった。

雨の日や風の強い日は、行き帰りだけで日が沈んでしまうこともあった。

けれどその仕事さえ終えれば、あとの時間、アフィーがなにをしていても咎められることはなかった。干渉されることはなかった。

アフィーは空き時間、ひとりで刺繍をして過ごした。

売り物にならないくず糸を拾い集めて、ぼろ布に刺繍をした。

手ぬぐいの柄、柱の模様、蚕の羽、草花と果実。

すべて見よう見まねだった。

日の差す時間帯は、日当たりのいい場所で。日が傾いてからは、谷間に湧き出る温泉に足を浸けて、アフィーは一人で針を刺し続けた。

刺繍に飽きたら、踊りを踊った。

記憶に残る母の踊りだ。

音楽はなかったが、峡谷を流れる川のせせらぎはいつも一定だったので、リズムには困らなかった。

踊りに疲れたら、大木の根元に空いた穴、誰も知らないアフィーだけの隠れ家で眠った。


その理由を、家が嫌いだからと、アフィ―は手紙に書いた。

なぜ嫌いなのか、詳細は書かれなかった。

代わりにアフィーはー等気に入っている場所について綴っていた。

峡谷を登る細道。それを少し外れたところに、ぽつりと一本、桃の木が生えている。

突き出した岩で隠されているため、細道からその木は見えない。

村から見上げても、また別の岩に遮られ、目にすることはできない。

村でその桃の木の存在を知っているのは、アフィーだけだった。


ある夏の日の午後、桑の葉の収穫を終え、細道を下っていたアフィーは、珍しい柄の蝶を見かけた。

それを追いかけた先で、アフィーは桃の木を見つけたのだ。

木には小ぶりだがよく熟れた桃がたっぷりと実っていた。

アフィーは迷わずかぶりついた。

桃は今まで口にしたことのある中で最も甘く、美味だった。

夢中になっていくつもの桃を頬張り、喉をすっかり潤したアフィーは、桃の木を囲う岩の上に立った。

そこからは峡谷が一望できた。

夏の日差しで輝く川は、底がはっきりと見えるほど澄み切っている。

清流を縁取る岩肌もまた、夏の日差しに白く輝いている。

川辺で水を飲む野生の鹿の角や、軒先に干された洗濯物も日の光を受け、眩く光っている。

アフィ―はこのとき、はじめて村の全体を眺めた。

細道は村からまっすぐ上に伸びているので、村を見下ろすことはできなかったのだ。

アフィーは粗末な木の家と、外を歩く人びとの姿を見て、まるで小人だ、と思った。

遠くから見た村人は指先でつまめないほどに小さい。

川は雄大で、峡谷は深く、空には果てがなかったが、そこにある村は本当にちっぽけだった。


それから桃の木は、アフィ―の秘密の場所になった。

暇があればここに通い、桃をつまみ、刺繍をして、飽きたら踊って、疲れたら眠って、暗くなるまで村を眺めた。

誰にも教えたことがない、秘密の場所。

いつかラウラに案内したい。

故郷について語られた手紙は、そう締めくくられていた。




「『秘密を教えてくれてありがとう。桃がどれだけおいしいのか、いまから楽しみでなりません。お礼に、私も、秘密の場所を教えるね』」

ラウラはゆっくりと目を開けて、小さく笑った。

「――――そう返事を書こうと思ったんですけど、その前にたて穴を出ることになってしまって、書けずじまいでした」

「……教えてくれるの?」

ラウラは頷いて、アフィ―の手を握った。

「アフィ―みたいに、自分だけの場所でも、私だけが知っている秘密でもないんですが……。西方霊堂の地下に、演習場がありますよね。実はあそこ、もうひとつ、さらに地下があるんですよ」

「知らなかった」

「秘密の場所ですから」

「どうやって見つけたの?」

「私はお兄ちゃんに教えてもらいました。お兄ちゃんは、お父さんとお母さんに教えてもらったって言っていましたが、私たち以外に知ってそうな人はいなかったので、もしかしたら我が家だけに伝わる秘密の場所なのかもしれません。うちは代々、西方霊堂所属の技師でしたから」

「そこになにがあるの?」

「薄雪草です」

「薄雪草?」

「地下なのに、と思うかもしれませんが、不思議なことに生えているんです。それもひとつじゃないんですよ。地下いっぱいに、生えているんです。灯なんて必要ないくらい光ってて、きれいで――――いつかみんなで見た花畑にも負けないくらいきれいで、それで――――」

ラウラは、兄に案内され、はじめて地下の薄雪草を目にした時の感動を、よく覚えていた。けれどそれを言葉で表現することができなかった。

「――――それで?」

「それで……えっと、とにかくすごかったんです。ああ、だめですね。アフィーみたいに、上手に伝えられたらよかったんですけど」

「……わたし、伝えるの、下手」

「そんなことないですよ。アフィ―の手紙、いつもとても読みやすかったですよ」

「手紙は、手伝ってもらったから。わたしは、文章も、下手」

アフィーは西方霊堂に入るまで、自分の名前しか書くことができなかった。

谷底の村で、教育をろくに受けずに育ったアフィーは、読み書きがほとんどできなかった。

そんな彼女に読み書きを教えたのは、丙級の青年たちだった。

「みんなのおかげで、いろいろ、読めるようになった。字も、すこし、書けるようになった」

「懐かしいですね。最初はカイさんがみんなに教わってたのに、アフィーが輪に加わってから、みんなカイさんをおざなりにして……ふふ、カイさん、自分がいつまでも字を覚えられないのは、アフィーのせいだって、言い訳してましたよ」

ラウラとアフィーは額を突き合わせて笑った。

「手紙は、マリー様と、師匠と、ヤクートに手伝ってもらって、書いてた」

「そうだったんですね。……ダルマチアの人は、本当にいい人ばかりですね」

「うん。みんな、すごくやさしい」

アフィーは起き上がり、マリーから受け取った飴細工を手に取った。

「マリー様、怖いけど、いろんなこと、たくさん教えてくれる。師匠、話長いけど、すごく優しい。たまにこっそり、飴をくれる。この飴も、たぶん、マリー様じゃなくて、師匠が買ってくれたんだと思う」

「殿下からもありますよ」

ラウラはシェルティから託された飴細工を、アフィーに渡した。

「ふうん」

アフィーはそっけない態度で受け取ったが、口もとは緩んでいた。

「もう、素直に喜んだらいいのに」

アフィーは何も言わずにシェルからもらった飴を含んだ。

「ラウラも、食べて」

「いただきます。どれにしようかな。いっぱいあって迷うなあ」

「これが、一番おいしい」

アフィーは棒付きの飴細工をさした。

飴は薄いはちみつ色で、翼を広げたケタリングの形をしていた。

「見た目も、一番、きれい」

「いいんですか?アフィーが食べなくて」

「わたしはもう何回も食べたから、ラウラが、食べて」

「それじゃあ、いただきます」

ラウラは飴をひと舐めし、おいしい、とこぼした。

「でもきれいすぎて、食べるのがもったいないです」

「うん。食べづらい」

二人はしばらく無言で、夢中になって、飴に舌鼓を打った。

あっという間に一つ目の飴を舐め終わったアフィーは、二つ目の飴を、ブリアードからもらった飴玉を口に含み、呟いた。

「みんな、やさしい」

「うん?」

「村にいるとき、誰かに、やさしくしてもらったこと、なかった。でも、カイとラウラに会ってから、たくさん、やさしくしてもらった。二人に。いろんな人に」

出し抜けに、アフィ―はラウラを抱きしめた。

「ありがとう」

アフィーはラウラを抱きしめたまま、言った。

「わたし、二人に会えて、本当に、よかった」

「……私も、アフィ―に出会えて、友達になれて、本当によかったです」

ラウラはアフィーの背に手を回し、その肩に、頭をあずけた。

「カイさんおかげですね」

「うん」

「殿下とレオンさんと会えたことも、すごくよかったと思ってます、わたし」

「うん。わたしも」

「ヤクートさんも、アリエージュさんも……ぜんぶカイさんが結んでくれた縁です。私、今になってようやく気付きました。カイさんと会うまで、ずっと寂しかったんです。お兄ちゃんがいなくなってから、カイさんと会うまでの間、ずっと」

アフィーはラウラを抱きしめる腕に力をこめた。

ラウラの頬を涙が伝う。

痛いくらいの抱擁で、不器用な友人から送られる労りで、優しさで、ラウラの胸はいっぱいになった。

「学舎ではお姉ちゃんでいなきゃいけなかったし、技官としては腫物扱いされてたし、ノヴァとも距離ができちゃって、私、いつもひとりだった。でもカイさんに会ってから、毎日賑やかで、楽しくって、夜に眠れないようなことも、急に手が冷たくなって動けなくなることもなくなって……。それはきっと、もう寂しくなくなったから。ひとりじゃないって思えるようになったから」

「うん」

「カイさんのおかげ。カイさんが、ぜんぶのきっかけをくれた」

「うん」

「私、カイさんに出会えて、本当によかった」

「わたしも、カイに出会えて、よかった」

ラウラはアフィーの肩に顔をうずめて涙を拭った。

アフィーは抱擁を解いて、ラウラの背をゆっくりとさすった。

「いまの気持ち、カイに、伝えたい」

「私も、お礼を言いたいな。でも急に言ったら、びっくりされるかな?」

「手紙を、書こう」

アフィーの提案に、ラウラはぱっと顔をあげる。

「名案ですね!」

そうして二人は、手紙を書き始めた。

小さな蝋燭の灯ひとつを頼りに、身を寄せ合って、思いのたけを書き綴った。

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