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冬営地にて(四)

縮地はエレヴァンを囲う山脈の標高二千メートルの地点まで展開される。

縮地の経過を外側から見届けようと、予行当日には、多くの官吏や一般市民が山につめかけた。

レオンはラプソの冬営地を直上したところにある、標高二千五百メートルの開けた草地に拠点を設けた。

そこはラプソが使用していた夏営地のひとつだった。

もちろん引き上げられたあとではあったが、天幕の骨組みは残されていたので、レオンはそれを利用して簡易拠点を作った。

見晴らしがよく、水場も近かったため、レオン以外にもここを拠点とする者は多くあった。


外側から見た縮地は鏡だった。

巨大な鏡の器をエレヴァンにかぶせたようだった。

鏡の円蓋は通りぬけることはおろか触れることさえ敵わず、雨にも風にも、人が与えたいかなる刺激にも反応を見せなかった。

人びとははじめ、あらゆる方法でもって縮地の破壊を試みた。

体当たりし、剣で切りかかり、火を放ち、霊術を放った。

けれど破壊はおろか波紋のひとつ立てることはできなかった。

そうして発動から三日目には誰も手出しをしなくなった。

縮地に人が干渉することはできない。

少なうとも人びとは、発動三日でその事実を思い知ったのだ。


最初のケタリングが現れたのは、縮地が発動して四日目の朝だった。

レオンを含め、そのケタリングを気に留める者はいなかった。

ケタリングはもとより、エレヴァンの上空をよく飛び交っていた。

エレヴァンに降り立つことこそ稀だったが、エレヴァンの空にその影を認めることは、容易かった。

そのため、ケタリングが縮地に向かって行っても、不思議に思う者はいなかった。

ケタリングは縮地にそって上昇し、やがて姿を消した。

しばらくすると、また一頭のケタリングが飛んできて、低い位置から縮地につっこんでいった。

しかしケタリングの身体もまた、人びとがそうであったように、縮地にどのような影響を与えることもなかった。

まるで磁石が反発するように、飛行するケタリングは縮地から軌道をずらされてしまう。

四日目から縮地の明ける七日目まで、ケタリングの飛来は続いた。

どのケタリングも最後は円蓋の表面を滑るようにして、上部へ昇っていき、見えなくなった。

ケタリングが、ただエレヴァンの上空を通り抜けようとして鏡の円蓋に行き当たったのか、それとも円蓋そのものが目的で飛来していたのか、判断がつかなかった。

いずれにしてもケタリングは外にいる人びとのもとに降り立ってくるようなことはなかった。

ただ遠く離れた上空を行き交うだけだった。

レオン以外の人びとも、ケタリングをさほど気に留めてはいなかった。

むしろケタリングさえ通さない円蓋に感服している様子だった。

レオンは警戒を続けたが、縮地が明けたとき、ケタリングの姿はもうどこにもなく、縮地は予定通りぴたりと七日間、エレヴァンの時間を飛ばしていた。




「お前はこれをどう考える」

レオンは低い声で訊いた。

「話を聞いた限りではなんとも。――――けれどケタリングの行動は、ふつうでは、ないですよね」

「ああ。外にいた野生の生き物はどれも、少なからず円蓋に反応を見せた。鳥も、栗鼠も、山羊もだ。だがそういつらは大抵、警戒して遠目に様子をうかがうだけだった。ケタリングだけが積極的に近づいて、まるで調べるみてえに、飛び回ってた」

「……攻撃性は?」

ラウラは以前のように、ケタリングが人に襲い掛かるような状態になってしまったのではないかと危惧した。

レオンはどちらとも答えず、空を見上げた。

雲も月もない夜空だった。

ケタリングの影はない。

濃紺の宙に、輝く星々が散りばめられている。中心には、空を切り取ったような、完全な黒色の天回がある。

「縮地が明けたとき、円蓋の上に消えたケタリングが一斉に降り立つんじゃねえかと、考えないでもなかった」

レオンは視線を焚火に戻した。

「だが杞憂に終わった。縮地が明け、円蓋が消えると、もうケタリングの姿はどこにもなかった。その後も変わった様子は見られない。ケタリングは空の高いところを飛ぶだけだ。おれらに攻撃してくることも、干渉してくることもない」

「そうですか……」

「不安か?」

ラウラは瞳を揺らしながら頷いた。

黙って話を聞いていたブリアードとヤクートも、顔を見合わせ、おずおずと尋ねる。

「大丈夫なんでしょうか?」

「さあな」

レオンは突き放すように言った。

「なるようにしかならねえだろ。お前らが今更計画を変えるとは思えねえしな」

「今の話を伝えれば、朝廷もなにか対策を打つかと……」

「確たるもんがねえ、憶測でか?それもおれから出た話だ。いまはあることないこと、不確かな話ばっかり広がってる。ケタリングの話も、些末なもんとしてしか扱われねえよ」

レオンの推測は正しかった。朝廷の対災嵐計画はすでに練り固められている。

よほどのことがない限り、例え皇子のシェルティやノヴァからの提言であっても、朝廷を動かすことはできないだろう。

「どうにもなんねえことは、気にしてもしょうがない」

レオンはラウラの背中を軽く叩き、そっと耳打ちした。

「今の話、カイにはすんなよ」





夕餉にアフィーが姿を現さなかったので、ラウラはアフィーの分の食事を手に、幕屋の中をのぞいた。

しかしそこにもアフィ―の姿はなかった。

ラウラは慌てて、ちょうど同じように食事の乗った皿を手に歩いていたアリエージュをつかまえた。

「あの、アフィーさんがいないのですが……」

「そこにいないのなら、狼狗のところじゃないかしら?」

「狼狗の?」

「ええ。ちょうどいいわ、餌をもっていくところだったの」

アリエージュはそう言って、ひとつだけ離れたところに建てられた小さな幕屋に向かっていった。

「――――あら?悪い子がいるわね」

アリエージュは幕屋の入り口を這う、小さな毛玉を抱き上げた。

「ほら見て、半月前に生まれたのよ」

アリエージュの腕の中で、毛玉はもぞもぞと動き、愛くるしい顔を覗かせた。

「わあ!」

ラウラは目を輝かせた。

「狼狗の赤ちゃんですか!」

「ええ。いろいろあったけど、無事に五匹、生まれたわ」

「生まれたばかりだとこんなに小さいんですね」

「いまが一番かわいい盛りよ。すぐに大人の顔つきになっちゃうから」

「こんなにまるい目と鼻が、いずれあんな精悍になるなんて、信じられないです」

「すぐよ、すぐ。身体が大きくなるより先に、あの顔つきになっちゃうの。だから生まれてひと月から一年くらいまでの間は、すごくちぐはぐな見てくれになるのよね」

狼狗の仔はくうくうと鼻を鳴らし、アリエージュの胸元に顔をうずめた。

「おなかが減ったみたいね。お母さんと離れるからよ」

小さな幕屋は狼狗とその仔らのためのものだった。

ラウラとアリエージュが中に入ると、部屋の中央で母親が四匹の仔を抱えるようにしてまるく横たわっていた。

四匹は押し合いへし合いながら、懸命に母親の乳をまさぐっていた。

「アフィー!?」

ラウラは思わず叫んでしまう。

狼狗の背後に、アフィ―がいたのだ。

アフィーは狼狗にぴったりとくっつき、長い手足を折りたたんだ窮屈そうな恰好で眠っていた。

「やっぱりここだった」

アリエージュは抱えていた狼狗の仔を母親の元に返し、アフィーの耳をつまみあげた。

「いい加減起きなさい」

アフィーはぱっと目を開いたが、アリエージュとラウラの姿を確かめると、また小さく丸まり、狼狗の背に顔を押し付けた。

「わがままね」

アリエージュはもう一度アフィ―の耳を引っ張ったが、アフィ―は狼狗にしがみつき、てこでも動こうとしない。

アリエージュは肩をすくめ、今日は一段とひどいわ、とぼやいた。

「いつもこうなのよ。レオンに手ひどくやられた日はいつもここでふて寝するの」

「そうなんですか」

ラウラは苦笑し、アフィ―の横に腰を下ろした。

「ごはん、食べないの?」

「……」

「おいしいよ」

「……」

「私、夜が明けたらまたすぐ朝廷に戻らないといけないんだ」

「……」


「アフィ―と話したいこと、いっぱいあったんだけどなあ」

アフィ―はぱっと起き上がり、わたしも、と答えた。

「いっぱいある。話すこと」

そういうやいなや、アフィ―の腹の虫が、ぐうとその音をたてた。

ラウラは笑って、持っていた汁物の器をアフィ―に渡した。

「じゃあおしゃべりしましょう。ごはんでも食べながら」


乳を飲んでいた狼狗の仔らは、腹が満ちると、そのまま眠りに落ちていった。

母親は仔を起こさないようそっと起き上がり、自分の食事をはじめた。

「優しいお母さんですね」

ラウラは指先で、眠る仔の頭をそっと撫でた。

母親はそれを目で追ったが、ラウラを威嚇するようなことはなかった。

「人に慣れているからでしょうか、知らない人が仔に触れても怒らないんですね」

「そんなことないわよ。まったく知らない人間だったら、姿を見ることも許されないわ。貴方が許されているのは、彼女が貴方を覚えているからよ」

ラウラは驚き、狼狗を見つめた。

視線を受けた狼狗は食事を中断し、ラウラのもとに鼻をすりよせた。

「覚えているんですか?ひと月以上前のことだし、ほんの数日背に乗っただけなのに……」

「狼狗は賢いのよ。躾次第で従順にも、獰猛にすることもできるわ」

「獰猛にも……」

「ええ。人を乗せるために育てられた子は、こんなふうに大人しいけれど、狩りの連れや、幕屋の番として選ばれた子は、とても凶暴で、たった一人の主のいうことしか聞かないわ」

ラウラは自分とレオンに襲い掛かってきた獰猛な狼狗を思い出した。

いま目の前で、自分に鼻をすりよせる狼狗と同じ生き物とは思えない、牙と闘争心をむき出しにした獣たち。

「躾一つで、こんなに変わるものなんですね」

「人だって育つ環境が違えば警吏にも盗人にもなるわ」

「そう……でしょうか?」

「ラプソの血を持って生まれても、この地で私たちとともに育たなければラプソにはならないもの」

アリエージュはそっと自分の腹を撫でた。

それを見た狼狗はラウラからアリエージュの側へ移り、その頬と、腹に、それぞれ鼻をつけた。

「……本当に優しい子ね。でもお前は自分の仔のために、食事を最後までとらなければいけないわ」

アリエージュに首筋を撫でられた狼狗は、ゆっくりと立ち上がり、食事に戻っていった。

「ラプソに生まれれば、狼狗と、話せるの?」

食事を終わらせたアフィ―が、狼狗と入れ替わって二人の間に腰をおろした。

「私も、狼狗と、話したい」

「……アフィー、あなた、私が狼狗と話せると思ってるの?」

「違うの?」

「だって、アリエージュの言うこと、聞いてる。狼狗のことも、アリエージュは、わかってる」

「言葉なんてなくても、私たち、お互いの考えていることがわかるのよ。なんとなく。気持ちが通じ合っているから」

「言葉が、なくても……」

「ええ。でもとても難しいことよ。長い時間が必要だわ。お互いをよく知って、いろいろなものを共有しないと」

アリエージュは並んで眠る狼狗の仔に目をやり、懐かしんだ。

「この子は私が十歳になる年に生まれたの。だからもう十年の付き合いになるわ。はじめて私が躾を任された子でね、それこそ自分の子のようにかわいがっていたけど、狼狗は人よりずっと成長が早いから、子だったものが後輩へ、それから同輩へと変わっていったわ」

食事を終えた狼狗は、仔のもとへ戻り、全員を抱えるようにして横たわった。

「今ではすっかり私の先輩よ」

「素敵な関係ですね」

アリエージュは微笑み、特別なことではないわ、と付け足した。

「人の関係だって、変わりゆくものじゃない。友人が恋人に、恋人が伴侶に。子は親に育てられるけど、その子はいつか老いた親を助けなければいけない。――――いえ、必ず助けるとは限らないわね。親子は敵にもなる。愛したものを憎むことだって――――」

アリエージュは言葉を途切れさせてしまう。

幕屋を照らす燭台の灯が、風もなく揺らめいた。

「それは、やだ」

アフィーは不安げにアリエージュを見つめた。

「好きな人、嫌いになるのは、やだ」

アリエージュは微笑み、アフィ―の頬をそっと撫でた。

「嫌いになってしまうことのほうが楽なこともあるのよ。誰かをずっと好きでいることは――――変わらずにいることは、本当に難しいことだから」

「どうしたら、ずっと好きでいられる?」

アリエージュはそうねえ、と言って、答えを探すように視線をさ迷わせた。

そして狼狗と目を合わせると、そうね、と繰り返した。

「強くなるしかないわね」

「強く」

「そう。強くなれば、好きな人を守れるし、その人を好きだという自分の心も守れるから」

アフィーは自分の掌を見つめた。

枯れ落ちた枝のような手だった。

変色し、爛れた皮膚。細い指先。すぐに折れてしまいそうな、頼りない手だった。

アフィ―は握りこぶしを作り、誓うように言った。

「強くなる。わたし、強くなる。強くなって、カイを、ずっと好きでいる。守れるようになる」

アリエージュはアフィーの拳を両手でそっと包んだ。

「それから、自分の気持ちも、ね」

アフィ―は頷いた。

「アリエージュも、ラウラも、わたし、好き。だから、二人のことも、守る」

アリエージュとラウラは顔を見合わせ、はにかんだ。

「私も、アフィ―のこと、大好きだよ」

「私も好きよ。でも欲張りね。そんなにたくさん、あなたで守れるかしら?」

アフィーは大丈夫、と胸を張った。

「すごく強くなるから」

「強さって身体のことだけじゃないわよ。心も強くならなきゃいけないのよ。――――レオンに負けてべそかいてるようじゃあ、ダメなのよ」

アフィーはむっと唇を尖らせる。

「泣いてない」

「目元が赤いわよ」

「……赤くない」

アフィ―はアリエージュから顔をそむけた。

ラウラはその目に残る涙の痕を、なにも言わずに拭ってやった。

「強情ね。キースそっくり」

アリエージュは灯へ顔を向けた。

その目は、灯の先にある暗闇へ、あるいはそれよりもっと遠くのどこかへ、向けられていた。

「キース?」

アフィ―は聞き覚えのない名に首を傾げる。

「私の伴侶よ」

アリエージュはどこか遠くに視線をおいたまま答えた。

「どこにいるの?」

「すぐ近くにいるわ」

「……?わたし、会ったことない」

「あなたは会えないわ。だって彼はもう死んでしまっているもの」

アフィ―とラウラは、揃って瞳を揺らす。

それを見たアリエージュは、あら、と明るい声で言った。

「泣かないんじゃなかったの?」

「でも――――」

「私は、平気よ。だからあなたたちが涙を流す理由なんてないわ」

アリエージュはゆっくりと瞳を伏せた。

「彼の霊はいつもわたしのそばにいる。わたしたちを見守ってくれているから」

「わかるの?」

「わからないわ」

「……?」

「わからないけど、信じてるの、私。彼はずっとそばにいてくれてるって。信じているから、平気なの。悲しくなんてないの」

アリエージュは目を開き、じっとアフィ―を見つめた。

「あなたってとてもキレイな目をしてる。深い泉の色。キースも同じ目をしていたわ。――――ねえ、アフィー。もしあなたが自分の大切な人より先に死んでしまったら、どうする?」

「……そばに、いる」

アリエージュは安堵のため息をついた。

「なら安心だわ」

「……?」

「だって、あなたとキース、よく似ているんだもの。頑固でいじっぱりで負けず嫌いで、不器用で……とても愛情深い」

アリエージュは小さく鼻をすすってから、だからね、と続けた。

「あなたがそういうなら、やっぱりキースは私たちのそばにいるのよ。よく似たあなたがそうするなら、キースもきっとそうする。私の信じたことに、間違いはなかったんだわ」

「アリエージュさん……!」

ラウラはたまらず、アリエージュの手を握りしめた。

アリエージュはそれを力強く握り返し、また小さく鼻をすすった。

「でも、わたし――――」

アフィーは二人の間で、戸惑いながら呟いた。

「どうすればいいか、わからない」

「なにを?」

「死んだあと、誰のところに、いけばいいか、わからない。――――カイも、ラウラも、アリエージュも、ダルマチアの人も、丙級のみんなも、好きだから。好きな人、たくさんいるから、誰のところにいけばいいか、わからない」

ラウラとアリエージュはぽかんと口をあけて、それからいっぺんにアフィ―を抱きしめ、笑った。

「そうですね、選べませんね……!」

「苦しい……」

「キースに似てるなんて嘘だわ。だってキースはこんなにかわいくなかったもの。――――そうね、選べないなら、こうすればいいわ!」

「どうすればいい?」

真剣な表情を浮かべるアフィ―に、アリエージュは満面の笑みで答えた。

「誰よりも長生きすればいいのよ!」

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