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橋上にて

〇〇〇




人びとが忙しなく行き交う官公庁の内回廊を、ラウラもまた急ぎ足で歩いていた。

八月半ば。一年を通して過ごしやすい気候であるこの世界でも、夏の盛りであるこの時期だけは、強い日差しが人びとを辟易させる。

特に風通しが悪く、おまけに流れのないため池である環濠に囲まれる朝廷は、蒸し風呂のような有様だった。

しかし行き交う官吏たちには涼をとる暇などない。

彼らは汗もろくに拭わず、机にへばりつく。あるいは各所を奔走する。

災嵐まで残り一か月を切り、朝廷は毎日が戦場のような騒ぎだった。


「補佐官!」

官吏でごった返す内回廊でラウラを呼び止めたのは、ダルマチア家当主、ブリアード・ダルマチアだった。

丙級出身の補助技官、ヤクート・ダルマチアの父であり、ラウラが不在の間教官代理を務めた男だ。

「お待たせして申し訳ありません。いやこの惨状ですから、書面ひとつ整えるのに各庁を走り回らなければならず……どうしてみんな自分の席にいてくれないんでしょうかね。いや無理にでも抜けなければ食事もままならないのはわかりますけど、私が方々探し回っている間にすれ違って自席に戻っていて、その頃には別の急ぎの案件にかかりきりになってしまっていて……なんてことが三回もありました。三回ですよ?これはさすがに嘆いても許されますよね?」

ぐだぐだとくだを撒く彼は、一見するとくたびれた下級技官といった風体だった。

五十八の歳に相応するしわが顔に刻まれ、撫でつけた髪にも白いものが多く混ざっている。

官服は清潔だが繕いのあとが窺える。上品な燕支色は褪せて枯れ葉のようだ。

しかしその着古された官服は、それだけ技官としての務めが長いという証でもあった。

ブリアードは実力を高く評価される熟練技師だった。

現役を退いてもおかしくはない年齢でありながら、未だに第一線に置かれている。

名門技師の家系として、アフィーをはじめとした多くの門弟も抱えている。

うだつのあがらない小役人といった雰囲気でありながら、誰からも一目置かれる人物だった。

「お疲れ様でした。すみませんいつも、大変な役目ばかり押し付けてしまって……」

例にもれず、ラウラもブリアードには深い信頼を置いていた。

ラウラは西方霊堂で、教官として手ほどきを受けた際、彼の実力を目の当たりにしていた。

強者だった。

ブリアードは霊操だけでなく、馬術や体術にも精通していた。

技官ながら皇家の護衛を務めていた時期もあったほどだ。

また指導者としての腕も一流だった。

多くの門下生を抱え、自身の子どもたちも全員技師としての職を得ている。

それでいて決して偉ぶることがなかった。

まだ少女であるラウラを軽んじることもなく、むしろ技師としての腕は自分より上だと、敬意を払いさえした。

そんなブリアードに、ラウラも敬意を払っていた。

「私の方もあとは報告だけですので、もうしばらくお待ちください」

「では先に馬の支度を整えておきます」

「なにからなにまで……本当にありがとうございます」

「いえいえ。それではまた後ほど」

ブリアードはすぐに踵を返し、速足で大橋に向かって行った。


ブリアードと別れたラウラは、内回廊と鐘塔を結ぶ橋を渡った。

橋も回廊と同じく多くの官吏が行き交っていたが、ふいにその歩調が乱れた。

ラウラの前を歩いていた人びとは次つぎに足を止め、欄干に寄り、道を開けた。

ラウラも周囲に倣い、同じように道を空ける。

「――――挨拶は不要だ。みな急ぐだろう」

官吏が空けた道を歩いてきたのは、側近を伴ったノヴァだった。

「殿下」

ラウラは頭をたれ、略式の礼を持って傍に歩み寄った。

「ああ、すれ違わなくてよかった」

ノヴァはラウラに書簡を手渡した。

「急な会議が入ってね。そちらは、万事滞りないか?」

「はい。つつがなく。――――ブリアードさんがよく気を利かせてくれて、予定よりずっと早く出発することができそうです」

「なによりだ。彼は名家の当主にしては珍しい実務家だろう。君と組ませるには適任だと思ったんだが、予想が当たってよかったよ」

「お心遣い、痛み入ります」

ラウラはそう言ってまた頭を垂れた。

ノヴァはそれを制そうとしたが、人目を憚り、受け流した。

ラウラもまた、儀礼に則った振る舞いをしたものの、寂しさを抱かずにはいられなかった。

朝廷に戻ってからというもの、ノヴァと顔を合わせる機会は幾度となくあったが、二人だけで会うことはもちろん、落ち着いて歓談することもままならなかった。

短い接見で、職務に関するやり取りを行うばかりだ。

それは今に始まったことではなく、朝廷内で二人は常に、立場を遵守した振る舞いを心掛けていた。

二人は朝廷において、幼馴染ではなく、皇太弟とその配下でいなければならない。

ラウラはそれを重々承知していたし、配下としてノヴァに敬意を払うことを、これまで苦痛に感じたことはなかった。

しかし、宴を終え、朝廷に戻ってきてからというもの、ノヴァに会い、頭を下げるたびに、それまで抱くことのなかった寂寥に胸を突かれた。

(わがままになっちゃったな、私)

ラウラは音もなく嘆息する。

(私、浮かれてる)

(自分のしたいこと、口にしたからだ、きっと)

(がまんしなきゃ)

(もうちょっとだけがまんすればいいんだから)

(災嵐が終われば、カイさんたちと宴を開くんだから)

(ノヴァとも、きっとゆっくり話す時間ができるんだから)

ラウラは表情を引き締め、ゆっくりと顔をあげた。

「あっ」

ノヴァを見上げたラウラは、その後方に瞬いた光に、思わず声を出し、引き締めた表情をたまらず綻ばせた。

「カイさん」

ノヴァの後方、鐘塔の最上部に、派手な装飾の施された長杖を持ったカイの姿があった。

ラウラの言葉を聞いて、ノヴァをはじめ、周囲の官吏たちは一斉に鐘塔の上に視線を向けた。

「大使閣下だ」

「渡来大使様だ」

人びとは足を止め、鐘塔の上で光るカイの長杖に目を凝らした。

朝廷内は波が引くように静まり返り、誰もが足を止め、上を見上げる。中には手を合わせ拝む者、拝跪する者までいる。

「……人心とは、御し難いものだな」

ノヴァはカイを仰ぎ見る官吏たちを一瞥し、呟いた。

「朝廷でさえこうだと、外に出たときが思いやられますね」

ラウラは苦笑いを浮かべ、小声で返した。

「聞けば銅像を建てた都市まであるそうだとか」

「ああ……南都のことだろう。あそこは近かったからな。それだけでなく、こちらの方角に向かって朝晩の拝跪を行う民衆が増えている」

「殿下がよくお許しになりますね」

「あの人のことだ。むしろ推し進めているのでは疑いたくなる」

否定できず、ラウラは苦笑する。

「そうだ、その件で兄上に言伝を頼みたいんだが――――」

二人は目立たぬよう、小声で言葉を交わしていたが、突然あがった歓声によってそれは打ち消されてしまう。

「――――ラウラ!」

歓声はカイに向けてあげられたものだった。

二人は驚きに目を見張る。

カイは鐘塔の上から飛び降り、手にしていた杖を足にかけ、まるで波に乗るようにして滑空し、橋梁へと降りてきたのだ。

つむじ風を起こしながら二人の目の前に降り立ったカイは、満面の笑みを浮かべる。

「やっと会えた!まじちょう会いたかったよ!」

カイは周囲のぎょっとした視線にも気づかず、はしゃいで二人の肩を叩く。

「おい……」

「ん?あ、いや、ノヴァはちょいちょい会ってるけどさ、ラウラとはこっちに戻ってきてから一回も会ってなかったんだよ。って知ってるか。会わせてくれつっても忙しいの一点張りだったもんな。まあ本当にそうなんだろうけど、でもな、シェルもラウラもいっぺんにいなくなって、おれほんとにまじでめちゃくちゃ寂しかったんだよ。おまけに寺か刑務所かよっていう規則正しい生活強いられてほんともう限界で――――っておればっか喋っちゃったな、いやほんと喋り相手いない反動だよこれ絶対。ラウラの方はどう?こっちに戻ってきてからやっぱめちゃくちゃ忙しいかんじ?」

「えっと――――そうですね、あの――――」

ラウラは緩み切った表情のカイと、形相を恐ろしく変化させるノヴァとの間で視線をさ迷わせる。

「君、は今から縮地の北西の展開だろう」

「うん?――――うん、そうそう。だいじょうぶすぐ戻るから。でさあラウラ――――」

「カイ」

ノヴァは額に青筋を浮かべながら、カイを諭す。

「気持ちはわかるが、彼女も、君に付き添っていたはずの技官も多忙の身だ。わがままに振り回して言い相手じゃない。それに目立つ行動は控えてくれとあれほど――――」

「それな!やっぱ目立つよなあ、この杖」

カイはノヴァの説教などまるで耳に入っておらず、不満げに杖で橋を叩いた。

「派手すぎるよな。陛下からもらったもんだから文句言えないけど、でもこれ持って歩いて目立つなって無理じゃね?」

カイの手にした長杖は、榊で作られており、2メートルもの長さがある。

杖身には燃えるような朱色の塗装がなされ、周囲を反射するほどの光沢を放っている。

またその先端は金や宝石類で華美な装飾がなされ、遠目に見ると派手な柄の刀剣のようであった。


カイがその長杖を下賜されたのは、朝廷に戻ってすぐのことだった。

およそひと月前の出来事だが、今では世界中の誰もが、渡来大使と聞くとカイの姿とともにその長杖を思い浮かべるほど、知れ渡っていた。

なぜなら長杖は歴代皇帝に受け継がれてきた三種のレガリアのうちの一つ、王笏だったからだ。

カイはある夜の出来事をきっかけに、民衆にその存在を知らしめるどころか、崇め奉られるほどの信仰を獲得するに至った。

皇帝はそれを受け、カイという異界人の存在をさらに強調するため、皇家の権力の象徴である王笏を下賜したのだ。

本来皇帝以外の者が持ち得るはずのない、世界の宝を、カイは譲り受けたのだ。

その効果は絶大だった。もちろん形式上のことではあるが、皇帝自ら権力の一部をカイに譲り渡したと民衆は捉え、厳格な皇帝がそのような判断をするということは、それだけカイが信用にたる人物であるからだと解釈された。

カイという異界人の存在は、そして彼が操る縮地は、信じるに値するものだと、人びとはこのたったひと月で考えを大きく変えた。

それまで家を捨て、村を去り、各都市に押し寄せていた人びとは、次第にその数を減らしていった。

彼らはカイを信じたのだ。

都市にいなくても、カイが災嵐から自分たちを守ってくれると、そう信じて、家に帰ったのだ。

都市や市場の混乱はそれでもまだ続いていたが、一時の騒乱が嘘のような、竜巻が強風に戻ったような落ち着きを見せていた。

しかしカイ本人はそんな事情を知る由もなく、燃えるように輝く王笏を浮遊の足掛かりにするどころか、派手すぎると不満をのべる始末だった。


「そもそも陛下のお宝なんて、持ち歩くもんじゃないよ。なあやっぱこれ陛下に言って、いまからでも別のに変えられない?杖あるほうが霊操に幅が出るってのはよくわかったんだけどさ、ほらラウラが持ってるみたいな、もっと短くて地味なやつがいいんだけどおれ」

カイはそう言ってまた杖で橋を叩いた。

ノヴァはその手を抑えつけ、口の端を引きつらせながら咎める。

「目立っているのは王笏ではなく君の行動だ。それに王笏の扱いには気を付けるようにと、これも、あれほど、言ったはずだが?」

「う……」

カイはようやくノヴァの怒りに気付いた。

「ノヴァ、あの、わかった、ごめん、謝るから、その、手、痛いんだけど――――」

「上に戻るぞ」

「いやあの、わかったから、手、離してくんない?」

「話は上に戻ってから聞こう」

ノヴァとは有無を言わせず、カイを鐘塔へ引っ張った。

「ノヴァ、わかったから、忙しいんだろ?おれ一人で戻れるからさ、大丈夫だよ。――――ほら、飛んで戻ればすぐだし」

「なにもわかっていないじゃないか!」

ノヴァはついに怒鳴ってしまう。

静まり返った朝廷に、その声はよく響き渡った。

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