霧偲
〇
午後も遅くなってようやく、負傷者応急手当てと死者の埋葬が終わった。
冬営地にはいつの間にか霧が立ち込めていた。
まるでそれまで空を覆っていた雲が降りてきたかのような、深く湿った霧だった。
技官たちは笠樹の下で眠りこけている。
ラプソの女たちも幕屋に戻り、休息をとっていた。
霧とともに、水を打ったような静けさが、あたり一帯を包み込んでいる。
そんな静寂の中でカイ、ラウラ、レオンの三人は、半壊した幕屋の下に身を寄せ、それぞれが浅い眠りについていた。
「――――帰ったか」
ふいにレオンが目を開いた。
外がにわかに騒がしい。
四人は起き上がり、幕屋から顔を出す。
シェルティとレオンを襲った部隊の捜索に出ていた武官たちが帰還したのだ。
別の幕屋で、側近の部下たちと今後の動きを話し合っていたノヴァとシェルティが、武官たちを出迎えている。
短く言葉を交わしたのち、ノヴァとシェルティは三人の休む幕屋に向かってきた。
どちらの表情も、険しい。
「ダメだ。なんの手がかりも得られなかったよ」
シェルティが告げると、レオンは短く息を吐き、立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
カイはレオンの裾を引いた。
レオンはカイの頭を軽くはたくと、探しに行く、と言った。
「誰の息がかかったどこのやつか知らねえが、このまま逃がすのは釈然としねえからな」
「待ってくれ、先に話しておきたいことがある」
ノヴァはレオンを引き留めると、報告にきた武官たちに手を挙げて、休むよう合図した。
武官たちはほっとした表情で深く頭をたれた。
顔つきからも、足取りからも、彼らが疲れ切っていることは一目瞭然だ。
無理もない。昨日、カイたちを捜索するため山に入ってから一時も休まず走り回っていたのだ。
ノヴァは彼らがなにひとつ痕跡を持ち帰らなかったことを責めず、ただその労をねぎらった。
成果をあげられなかったことで叱責を受けるだろうと身構えていた武官たちは、ほっとして涙を浮かべる者さえいるほどだった。
「霧が収まったら、下山しよう」
ノヴァは武官たちが笠樹の下に腰を落ち着けるのを見てから言った。
「いいのか?なんかいろいろ、はっきりしてないと思うんだけど……」
「この場で僕たちにできることは限られている。一度戻って仕切りなおすんだ」
「あの、でも、私たちがこのまま引き上げてしまって、アリエージュさんたちは……残るラプソの皆さんは大丈夫でしょうか」
ラウラは躊躇いながら意見した。
「南都の警吏たちがそうだったように、口封じされてしまうのでは?彼女たちは事件の重要な証人でもありますし、やはり一緒に山を下りてもらうか、せめて護衛の人間をすこし残していくことはできませんか?」
「ああ、そうだな。検討しよう」
「ありがとうございます」
安堵して微笑むラウラに、ノヴァも小さく笑みを返した。
「君は本当に優しいな」
「え?」
「いや……」
ノヴァは緩めた口元をまたすぐに締め、レオンに視線を向けた。
「それで、戻るにあたって、レオン・ウルフ。貴方を連行することとなった」
「あ?」
突然名指しされたレオンは、不愉快そうに顔をしかめた。
「貴方ことは、ラプソの女性たちと同じように扱うわけにはいかない。貴方は、最終的にはみなを助ける働きをしたが、貴方のそもそもの動機を、行動を、許すわけにはいかない」
「おれが素直に従うと思ってんのか?」
「いいや。貴方は抵抗するだろう。そして――――」
「――――ぼくらを振り切って逃げ去ってしまう」
ノヴァの言葉を、シェルティが告いだ。
「ぼくらはそれを追わない。なぜならぼくらが最も優先しなければならないのはカイを朝廷に戻すことだからだ。おまけにお前はケタリングを失ったとるにたらない存在で、黒幕の正体を知っているわけでもない」
レオンは二人の意図を察し、大きく舌打ちをした。
「くだらねえ茶番だ」
「我慢しろ。建前上必要なことだ」
「てめえらに従う義理はねえよ」
「だがカイにはあるだろう?」
「あ?」
「え?」
レオンとカイは顔を見合わせる。
それを見たシェルティは表情を白けさせる。
「お前を黙って見逃したとなれば、責任を問われるのはぼくとノヴァ、そしてカイの補佐官であるラウラだ。特にラウラが役目を解かれるような事態になれば、カイは必ず反発するだろう。彼女を自分のもとに戻すために、どんな無茶をするかわかったものではない。かといってお前を捕え、朝廷に引き渡すことにも、カイは反対するだろう。今度はカイがお前を拉致して、失踪するかもしれない。そんなことをすればカイは本当の謀反人になってしまう」
「いやいや、おれそんなやばいことしないって」
「するよ」
「やりかねない」
シェルティとノヴァはほとんど声をそろえて言った。
「おれ信頼なさすぎない!?」
「自分のこれまでの行動を鑑みてくれ」
「まったくだ」
「ぐっ――――うっ――――それは――――」
カイは言い返すことができず、話を逸らす。
「――――ま、まあでもとにかく!レオンは見逃してくれるってことなんだろ?まじでありがとな!」
「お前が礼を言うことじゃねえだろ」
レオンはカイの頭を小突くが、カイはいいだろ、と笑った。
「レオンが捕まるとか、おれめちゃくちゃ嫌だし。――――でも本当に大丈夫?やっぱ怒られるんじゃない?」
「平気さ。この程度の失態でぼくの立場は変わらないから」
「本当かあ?」
「うん」
シェルティはカイに向けて片目をつぶって見せる。
「朝廷のぼくに対する評価はすで地の底だからね。これ以上落ちることはない」
「そういう意味かよ……」
「兄上、責任は私が」
ノヴァが間に割って入ると、シェルティは表情を固くして首を振った。
「ダメだ」
「ですが……」
「君はなにも負ってはいけない。君の完璧な経歴に傷がつくことを、ぼくも、陛下も、望んではいない。――――それもこんな男のために」
レオンはシェルティに手をあげる。
「おれがいつなにをてめえらに頼んだ?勝手に人のせいにしてんじゃねえよ」
バシンッ、と、強烈な音が響く。
「ほらね?なにかとすぐに手が出る、ろくでなしなんだ、この男は。関わり合うべきではない」
なすがままに頭を叩かれたシェルティは、この程度の痛みには慣れているといわんばかりに、眉ひとつ動かさず話を続ける。
「ぼくがどれだけ醜聞を重ねても、皇家の威信が揺るがなかったのは、君という内外から信頼の厚い弟がいたからだ。そんな君がよりによって縮地に関わることで失態を演じるなど、絶対にあってはならない」
シェルティはそこでふっと表情を緩めて、目を伏せた。
「なんてまあ、ぼくが言うことではないんだけどね」
「兄上……」
「まあ、そういうわけだから、とにかく霧が晴れ次第出発だ。それまではゆっくり休むこと。いいね?みんな」
シェルティは明るい声を出して、無理やり話題を打ち切った。
〇
しかし霧はなかなか晴れず、日が沈んだかも確かでないまま、一同は夕食時を迎えた。
ラウラとカイはアリエージュを手伝って、夕食のスープを温める火の番をした。
「すげえごちそう」
カイはアリエージュがかき混ぜる大鍋の中を覗き込んで、喉を鳴らした。
大鍋の中では豆類と根菜とトマト、子羊の骨付き肉がぐつぐつと煮えたぎっている。
「本当、すごくおいしそうです」
ラウラはその香ばしい匂いに目を細める。
「この短い時間で、しかもこれだけの量を、よく作れましたね」
「下ごしらえはすんでいたから」
「あっ、そうかそういえば、あの晩は宴会する予定だったんだっけ」
「ああ!」
ラウラはぽんと両手を合わせる。
ケタリングが暴走する直前、カイ達はラプソの家畜の回収を終え、その労いと死者の弔いを兼ねた宴を催す予定だったのだ。
「そうでした。ほんの一日前のことなのに、すっかり忘れていました」
「仕方ないわよ。たった一日とは思えないくらい、あまりにもたくさんのことが起こったもの」
アリエージュは鍋の中に視線を落とした。
「これはキースの好物だったわ」
湯気に覆われた彼女の表情は、ラウラにはよく見えなかった。
「宴のために、いくらか家畜をばらしたんだけど、キースははりきって、手ずから上等なものを選んでいたわ。ふつうは弱っているものから肉にしていくんだけどね、貴方たちにいいものを食べてもらいたいからって。特にこのスープに使うものへのこだわりったら――――そんなに口やかましい方じゃないのに、あのときだけは人が変わったようだったわ」
アリエージュは柄杓を持ち上げ、息をふきかける。そしていくらも冷めないうちに、口もとに運んだ。
「んっ!」
アリエージュは口を押え、その場にしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
ラウラは慌ててアリエージュの肩を支えた。
へいきよ、とアリエージュは舌ったらずに答える。
「ちょっと熱かっただけ。――――大丈夫。ちゃんと美味しいわ」
アリエージュは屈んだ状態のまま、わずかに震えた声で言った。
「驚いたの、私」
「え?」
「私、キースとずっと一緒にいたのに、まだ知らないところがあるんだなって」
アリエージュはさっと目尻を拭い、その手で自身の腹を優しく撫でた。
「でも当り前よね。人は、ずっと同じ姿でいられないように、心の在り方も変わっていくものだから。私はきっとこれからも、いろんなキースに出会っていくはずだったんだわ。それは少しだけ寂しいけど、でもすごく楽しみでもあって……」
アリエージュはふいに立ち上がると、柄杓をとって、慌ただしい手つきで、鍋を底からかき混ぜた。
「いけない、焦がすところだったわ。ねえもう火は十分よ。あとは混ぜるだけだから、二人は休んでいて」
「もう十分休みましたよ。アリエージュさんの方こそ、もっと休んでください」
「そうだよ。混ぜるだけなら、おれが代わるからさ」
二人の気づかいに、アリエージュは頬を緩めた。
「ありがとう。でも本当にいいの。貴方たちにラプソのおいしいものを食べさせたいっていうキースの思いを、私は引き継いでいるから。ただ楽しみに待っていてくれると嬉しいわ」
「そりゃもう、すでに待ちきれないくらいだよ」
「私もです。ここでお世話になっている間いただいたものはどれもとってもおいしかったですが、香りだけで、これは特別だってわかります」
「作り甲斐のあることいってくれるじゃない。でもなら、なおさら惜しかったわ。宴のために、ほかにもおいしいものたくさん用意してたのよ。たくさん話して、歌って、踊って――――そういう一晩を、貴方たちと過ごせないことは、心から残念に思うわ」
カイは一瞬きょとんとして、それからぱっと瞳を輝かせた。
「やろうよ、それ!」
「でも、貴方たち、早朝には発つんでしょう?」
「だかだよ。少なくとも今晩はここにいるんだからさ、ラストチャンスじゃん!」
「そうですね、手分けしてやれば、準備だってすぐ終わるはずですし」
ラウラも乗りに気になって言う。
「アリエージュさん、ぜひやりましょう、宴を!」
「気持ちは嬉しいけど――――」
アリエージュは困ったように微笑んだ。
そこに薪を担いだレオンがやってきた。
「薪、足りてるか?」
「ええ、ここは大丈夫」
「そうか。――――で、お前らはなにを騒いでんだよ」
「レオン!いいところに!」
カイはレオンに宴を提案したが、レオンは無理だ、と一蹴する。
「ええ!なんでだよ、いいじゃん!みんなで手分けすれば準備なんてすぐだろ」
「お前な……ラプソのいう宴は、ただ酒を飲むって意味じゃねえぞ」
ラプソの宴は、一族の中で産まれた子供が十歳の成人を迎えたとき、もしくは一族の誰かが亡くなった弔いにのみ催される、儀式的な意味合いの強いものだった。
前者はもちろん、後者の場合も、宴は華やかに、祝いの雰囲気をもって行われる。
一族全体で、昼夜を通して歌い、踊り、飲み食いする。
もちろんただ乱痴気騒ぎをするのではない。
宴にはいくつか決まりごとがあり、それを全うしなければ、儀式として成立しなくなってしまう。
その決まりごとの中のひとつに、宴は必ず晴天の、日の高い時間帯にはじめなければならない、というものがあった。
霧に包まれ、日の落ちた現在は、とうてい当てはまるものではない。
「今回だけ特別ってことにはならない?」
「ばーか。それじゃ意味ねえんだよ」
レオンは呆れて鼻を鳴らし、この世界で一般的に信じられている死後について説いた。
「死んだら魂は霊として空に散り、身体は大地の糧となる。そしていつか新しい命に繋がっていく。――――この考えはラプソも一緒だ。だがラプソは、っつうか山間に住む連中はみんなそうだが、身内の霊が離れていかないように、派手な弔いをしてそれを繋ぎ止めておくんだ。そいつの霊がまた新しい命になったとき、自分たちの近くに生まれてくるように、ってな」
それは氏族として意識を強く持つ遊牧民ならではの輪廻観だった。
「山間じゃあ共有のもんだ。おれらは平地に住むお前らと違って、故人を見送る弔いはしない。弔いの場で泣いていいのは死んだやつの親と伴侶と子どもだけと決まってる。あとのやつらは絶対に笑ってなくちゃならねえし、死んだやつへの恨み言もご法度だ。ただ賑やかし、そいつを讃えて杯を空ける。それがおれたちの弔いだ」
レオンは肩に担いでいた薪の半分をカイに押し付ける。
カイはふらつきながらそれを両腕で抱え、いいなそれ、と笑った。
「暗い葬式より、おれもそっちの方がいいな」
「ああ。どんな大往生したやつでも、生きてる連中がどんちゃん騒ぎしてりゃ、羨ましいと思うだろ。それも話題の中心は自分だしな」
レオンはカイの肩に腕を回した。
「お前の弔いは、おれが三日三晩かけて盛大にやってやるから、期待しとけよ」
「まじ?めちゃくちゃ嬉しいわ」
カイは声を立てて笑った。
「でも気早くね?おれまだまだ死ぬ気ないんだけど!」
「お前おれと会ってからだけでも何回死ぬ目見たと思ってんだよ」
「あー……それなー……」
「早死にしたくなきゃ無茶はやめることだな」
「無茶したつもりなんだけどな……。まあでも、レオンがそんだけ盛大に弔ってくれるっていうなら、いつ死んでも安心だけどな」
「代わりにおれが先に死んだら、お前、同じだけ派手な弔いをしろよ」
「……!任せてよ!」
カイの快い返事に、レオンは喜色満面になる。
「言ったな?三日三晩休まず、だぞ」
「お、おお!もちろん!」
「おれの好きな酒しか飲むなよ。おれはあれがないところには絶対戻らないからな」
「肝臓いまから鍛えとくわ」
「カイさん、殿下に怒られますよ」
カイはぎくりと肩を震わせて、シェルティとノヴァが話し合いを続ける幕屋を見た。
「ラウラ、その、シェルには、いまの内緒の方向で……」
「お酒の飲みすぎに関しては、私も反対です」
「飲める口のくせに、かたっくるしいこというなよ」
「飲みすぎがだめなんですよ。カイさん、前は全然飲んでいなかったのに、レオンさんに合わせていっぱい飲もうとするじゃないですか。自分にあった、ほどほどの量で止さなきゃだめですよ」
「おっしゃるとおりで……」
縮こまるカイを、レオンは鼻で笑った。
「情けねえな。ラウラまだ十五歳だろ?それに酒の説教されるって、カイお前――――」
「わかってる!わかってるから傷口を広げるなよ!ってか発端はレオンだからね!?」
「嫌なら断ればいいだろ」
「嫌なわけないだろ。レオンと酒は飲みたいんだよ。問題はその量というか、飲み方であって――――」
「お前ほんと」
レオンはカイの襟足を強くひっぱった。
「いってえ!なにすんだよ!」
「ふん」
レオンは鼻を鳴らし、そっぽを向く。
「傍若無人かよ」
涙目になるカイを、ラウラはまあまあ、と窘める。
「飲むこと自体はちっとも悪いことじゃありませんし、私も本当は、あのお酒なら毎日飲みたいくらいです」
「は?毎日?」
「はい。あ、もちろんレオンさんほどは飲みませんよ?でもひと瓶くらいなら、差しさわりなく楽しめていいですよね」
「ひと瓶?」
カイはレオンに目配せをする。レオンはだから言っただろ、と肩をすくめる。
「こいつは飲める口だって。――――いつも、お前が潰れたあとも、ラウラは最後までおれに付き合ってたぞ」
「え?」
「でも、ひと瓶だけですよ」
「ひと瓶だけ?いやいやいや、けっこうな量だよ?」
「そうですか?」
「そうでもねえだろ」
カイはらちが明かない、といった表情でアリエージュを見た。
一連のやりとりを、声を殺して笑いながら眺めていたアリエージュは、ついに堪えきれず吹き出してしまう。
「ふふふ!本当に、おかしな人たちね!」
アリエージュはひとしきり笑い、それからゆっくりと空を見上げた。
「やっぱり貴方たちと宴をしたかったわ。きっと賑やかで、笑いの絶えないものになるもの。――――どれだけ遠くに行ってしまって気づけるほど、ね」
アリエージュの見上げる空には、月も星もない。深い霧があるだけだった。
「多くを望んでも仕方ないわね」
「アリエージュさん……」
「気にしないで。宴は明日、私たちだけでやるから。もともとその予定だったし、あなたたちを見ていたら、なんだか元気がでてきた。キースの……みんなの魂が、例えもう月ほど遠いところに行ってしまっているとしても、戻らずにはいられないような、盛大な宴にしてみせるわ」
だから本当に気にしないで、とアリエージュは笑ったが、カイは食い気味に言い返した。
「無理」
「……!」
「気にしないとか、無理だろ。やっぱおれらもやりたいよ。キースたちを、ちゃんと弔ってやりたい」
カイはレオンに薪を押し返すと、シェルティとノヴァのいる幕屋へ駆けていった。
「二人に掛け合ってみる」
「カ、カイさん、待ってください!」
ラウラは引き留めようとするが、カイは耳を貸さない。
「大丈夫、たった一日出発を遅らせてもらうだけだから!あの二人さえ説得できればいいだから!楽勝だよ!」
ラウラは走ってカイの後を追いかけながら叫んだ。
「楽勝なわけありませんって!」