暗幕
ラウラとシェルティは狼狗を一頭借り、その背に乗って山を駆け登った。
「カイが下半身をかばっていた理由がよくわかったよ」
はじめて狼狗にまたがったシェルティは、ラウラの腰に縋りながら唸った。
「馬の比じゃないな、これは。きみは平気なのかい?」
「この数日で慣れました」
「本当に器用な子だ」
シェルティが小さく呟くと同時に、木々が途切れ、移動してきた家畜でいっぱいになった牧草地に出た。
狼狗は躊躇うことなく、その中心を、まっすぐ突っ切って行く。
羊も馬も馴鹿も、慌てることなく静かに道を開けた。
「こうして見るとすごい数だな」
シェルティは言った。
「よく集めたものだ」
ラウラは駆ける狼狗の首筋を撫でる。
「ほとんどこの子たちの仕事ですよ。私とカイさんで、またあの鳥を作りましたが、出番はほとんどありませんでした。――――でも、この頭数、どうするつもりなんでしょうか」
雲間に隠れていた西日が牧草地に差し込む。
ラウラは目を細める。
影が立ち、それまでひとつの大きな生き物のように見えていた家畜の輪郭が、一頭ずつはっきりとする。
「この程度の牧草では、到底冬まで賄えません。そもそも今ここに連れてきてしまっては、冬の餌場が無くなってしまいます」
「売ると言っていたよ」
シェルティはすれ違いざまに、まだ冬毛をたっぷり蓄えたままの羊の背に触れた。
「一族の人数は減った。家畜の管理に欠かせない狼狗も、火事に巻き込まれてほとんどを失ってしまった。やむを得まい」
「でも……いまの市場は……」
「彼らも承知の上さ。それでも、このまま飼い殺しにするより、買い叩かれほうがマシだと思ったんだろう」
災嵐を三か月後に控え、朝廷が縮地の本格的な運用に着手したように、民衆もそれぞれ備えを固めようとしていた。
人びとは災嵐を恐れている。
その恐怖は死に根差すものではない。
なぜならば災嵐で死ぬことは、人びとにとって、ただ死ぬこととは異なるからだ。
一年を通して、穏やかで変化の少ない気候に包まれたこの地では、百年の間、自然災害はまったく起こらない。
干ばつも冷害も、地震も台風も、またそれらに伴う不作や疫病もない。
火事でさえ、奇妙なことに、自然の雨によってすぐ消し止められる。
そのせいかカイのいた世界と比較すると、せいぜい中世後期といった生活水準にも関わらず、平均寿命は七〇歳にのぼった。
下水設備もろくに整っていない中で、流行り病の発生は皆無であり、乳幼児の死亡率も低かった。
自然は常に人びとの味方で、献身的な保護者だった。
人びとの住みよい環境のために、惜しみなくその姿形を変え、維持してくれる、尽くしてくれる存在だった。
そして、だからこそ、災嵐への畏怖は特別だった。
災嵐の一年だけは、自然は掌を返す。これまでの清算といわんばかりに、無差別に、無慈悲に、命を奪い取っていく。
人びとがどれだけ祈ろうと、呪おうと、その願いが聞き入れられることはなく、ただ理不尽な暴力が返される。
自然に愛されて生きてきた人びとにとって、その自然からの拒絶は耐えがたい苦痛だった。
災嵐に見舞われるということは、世界から存在を否定されるようなものだった。
そのため、人びとは災嵐から逃れようと躍起になった。
独自の避難場所をつくる者、ひたすら祈祷し、善行に励む者、災嵐に遭うくらいならば、と自ら命を絶つものも少なくなかった。
中でも最も多かったのが、都市部への移住を試みることだった。
そしてこれが、ラウラとシェルティが話題にあげた、市場の混乱の原因である。
各都市はすでにここ数百年、霊術により災嵐をやり過ごすことに成功している。
しかし各都市への在住は高額な納税を強いられるため、一般民衆の手には遠く及ばない。
常時は高級官吏や大商家、技師の大家の屋敷が軒を連ねるばかりだ。
しかし災嵐直前になると、ここに人が殺到する。
家財を売り払い、有り金をすべて抱えてになって都市にやってくる。
運が良ければ、すし詰めの宿屋に身を置くことができるかもしれない。
どこかの屋敷の一室を間借りすることができるかもしれない。
蔵や軒先で夜を明かすことを許されるかもしれない。
だがそんなささいな希望さえ、叶えることのできる者は僅かだ。
運も金もない者は、宿無しとして路上で寝起きをするしかない。
各都市は昼夜問わず人で溢れ返り、治安も悪化するが、朝廷がどれだけ取り締まろうとも、歯止めは効かなかった。
家も財産もなにもかも失くしても、災嵐から逃れたい。
人びとの思いは強く、目前の混乱や危険を顧みることもなかった。
誰もが物を売り、金銭や貴金属に変えようとするので、当然需要と供給の均衡は崩れ、市場は買い手有利に極端な傾きを見せる。
特に郊外の農地や家屋、家畜の値段は暴落し、二束三文で買い叩かれることは当たり前、買い手がつかないことがざらであった。
対して、もとより都市に居を構えていた富豪はその懐をたっぷり満たすことができた。
農民たちはなけなしの金を、ときには自らの身体さえ投げうって、彼らに助けを乞うた。
都市居住者は差し出されたものは受け取るが、必ずしも施しを与えるとは限らなかった。
だが無下にされた民衆も黙ってはいない。
膨らんだ憎悪はやがて暴動となり、その家を襲う。
暴動が起きれば屋敷は門扉を閉ざし、一度は受け入れられた無関係の者たちまで締め出しをくらう。
そしてまた憎悪が生まれる。
負の連鎖は際限なく続いていき、災嵐が過ぎ去るまで膨らみ続け、災嵐が過ぎ去ってもなお、途切れることはない。
しかし朝廷は都市に強く制限をかけることができない。
都市の住民のほとんどは朝廷の基幹になんらかの関りがあった。
彼らの行動に制限を設け、厳しい罰則を与えることは、朝廷内での抗争に発展しかねない。
災嵐前の内部分裂を危惧する朝廷は、ただ各家に「品位ある行動を求める」と喚起することしかできなかった。
縮地によって全土が災嵐から守られる。そう宣言された現在でも、同様の混乱が各地で発生していた。
「歴史を見るに、災嵐までひと月を切れば、誰もが食糧の蓄えをはじめるから、家畜はむしろ高値で売れるようになるだろう。だが――――」
「これだけの草では、あと二か月も凌げません」
ラウラは歯を食いしばり、狼狗の首元を覆う、豊かな毛を強く握った。
直後に、狼狗は地面の窪みをよけて跳躍する。
狼狗のつま先は柔らかい地面を抉り、土と草が蹴り上げられる。
「縮地があっても、混乱は避けられないのですね」
ラウラは短く息を吐いた。
「みんなに縮地を信じてもらえたら、誰も苦労しなくてすむのに……」
「気に病む必要はない」
シェルティはラウラの髪についた土を払った。
「民衆全員を納得させ冷静に行動させるなんて不可能だ。重要なのはぼくらがそれに飲まれないことだよ。今回はまんまとはまってしまったが、ぼくらさえ冷静でいれば、縮地は成功する。そのとき人びとはようやく気付くだろう、自分たちの愚かさに」
シェルティは達観した冷やかな口ぶりで続けた。
「キースたちが家畜をうまく捌けないのは、年長者の尻ぬぐいだから、同情の余地がある。なんとかしてやりたいが――――すべては陛下の裁量次第だ」
狼狗は牧草地から、再び山林に入った。
生い茂る樹木によって西日は遮られ、薄闇が広がっていた。
ラウラとシェルティは身を強張らせる。
先に広がる障害物の把握が困難になったからだ。
狼狗がそれを避けるためにどう動くのか予測が立てられず、ふいの衝撃に備えなければならなかった。
二人を乗せた狼狗は薄闇などものともしていなかった。
透き通るような淡青色の瞳を光らせ、軽快に斜面を駆け登っていく。
「結局、来ませんでしたね」
「ああ。おかげですっかり待ちぼうけになってしまった。こんなことならぼくも君たちとともに家畜を追えばよかったよ」
シェルティは冗談か本気かわからない、拗ねた口調で付け加えた。
「ぼくが話し相手としてついていれば、カイもあいつとあそこまで親睦を深めることもなあっただろうしね」
「ふふ、むしろ三人で仲良くなれたかもしれませんよ」
「あり得ない」
ラウラは小さく声を立てて笑った。
シェルティもつられて笑ったが、二人の笑いはすぐに途切れた。
二人の心中は同じ懸念に巣食われていた。
山火事があってから十日、カイが拉致されてから二十日以上が経過している。
だがこの山中で、彼らは朝廷の影さえ目にしない。
世界の命運を握る霊術の要であるカイと、皇太子が攫われて、捜索がなされないはずがない。
むしろ朝廷は総力をあげて、血眼になって探しているはずだった。
「あれだけ火事が起こったこの山域に足が向かないはずがない」
シェルティは薄闇に眼を凝らした。
「考えられるのはふたつだ。朝廷になにかあったか、あるいはあえてぼくらを泳がせているか」
ラウラは驚いてシェルティへ振り返る。
「泳がせる?なぜそんな――――」
「危ないよ、前を見て」
シェルティはラウラの頭をそっと押し戻すと、誰の思惑かはわからないけどね、と話を続けた。
「例えば最も疑わしい南都の首長だが、彼が僕らの存在を把握していながら、その情報を手の内で握りつぶしていたら。山火事など起きていないと報告していたら、探すものも探しにこれないだろう?朝廷にぼくらの捜索にあたれないほどの問題が発生したとは考えづらいから、やはりどこかに誰かの意図があると、ぼくは睨んでいるよ」
「目的はなんでしょうか。ラプソと同じように、縮地そのものでしょうか」
「いや、首謀者が中央権力に近い人間である場合、その線は薄い。縮地がなくとも、災嵐を逃れられる連中が、縮地を独占する必要はないだろう?それこそラプソの一族のように、災嵐を逃れる術持っていなければ無ければ別だが――――」
シェルティはそこで言葉を切った。
なにごとかを考えながら、後方に手を伸ばし、狼狗の尾の付け根を撫でた。
狼狗が不愉快そうに腰を揺らすと、シェルティは皮肉に笑みを歪め、自嘲する。
「核心になにがあるのかはわからないが、とにかく一連の出来事には裏があるはずだ。誰かの身勝手な思惑がね。そんなものに、これ以上カイを振り回されてたまるか――――と、言いたいところだけど、かといってぼくにはそれを押さえる術がない。きみのようにカイを助け、守る力があるわけでもない」
「そんなことは……」
「きみは優しいね。でも、事実だ」
「殿下……」
シェルティはラウラの気遣いに感謝したが、それを受け止めはしなかった。
「まあそういうわけだから、とにかくここを出たらもうどこにも寄り道せず、まっすぐ朝廷に戻ろう。ぼくがカイのためにできるのは身分をふりかざすことだけだからね」
シェルティは額に浮かんだ脂汗を拭いながら言った。
「ここにきてはじめて、皇子に生まれてよかったって思えたよ」