負罪
たった一人の生き残りから復興を果たしたウルフの一族には、長らくケタリングが不在だった。
自然の中にあるケタリングを捕え、隷属させるのは至難の業だ。
ウルフの中でも限られた資格を持つ者しか行うことはできない。
滅亡の危機に瀕したためか、血が薄まったためか、ウルフは百年間一頭のケタリングも得ることができずにいた。
彼らは熱望していた。
ケタリングさえあれば、憎きラサ族を地の底に叩きつけることができるのに、と。
そして待望のケタリングは、レオンのもとに舞い降りた。
レオンが従えるケタリングがこの地に現れたのは狗歴九九三年、今から七年前のことだった。
ケタリングははじめ、麓の村落に降り立った。
怪我をしているわけでも、老い衰弱しているわけでもなかった。
しかし村落に降り立つと、硬直し動かなくなった。
村民からの通報を受け、すぐに朝廷は討伐部隊を派遣した。しかしいざ捕縛を試みると、それまで石のようだったケタリングは激しく暴れだし、飛び去ってしまった。
部隊は技師と警吏で構成されていたが、彼らは自分たちの失態を少しでも軽くするために、逃げたケタリングは外界に去ったと報告した。
しかし部隊の手を逃れたケタリングはエレヴァン内に留まっていた。
逃げたケタリングは山間部に潜み、そこでレオンと出会った。
レオンはケタリングを隷属させ、手中に収めた。
ウルフはもちろん、ラプソの少年たちにも、これに歓喜した。
ケタリングはたった一頭でエレヴァンを滅ぼすことのできる兵器だ。
ウルフはこれを持って再び反乱を起こすだろう。
たった一頭であっても、それを操るのはレオン・ウルフだ。
彼の強さを妄信していた少年たちは、夢を見た。
レオン・ウルフは現朝廷を打ち倒し、革命の英雄となる。
玉座を手にし、ウルフの名を再び世に知らしめる。
そして今は低く貶められている自分たち遊牧民全体の地位があがる。
ウルフだけでなく、ラプソも再び中央に返り咲くことができる。
辺境の貧民ではなく、誇り高き一族として、名誉を取り戻すことができる。
しかしそんな彼らの夢は、呆気なく打ち砕かれてしまう。
ケタリングを手にしてほどなく、レオンは自らの手でウルフの集落を壊滅させた。
田畑を荒し、家屋を潰し、家畜を野に放った。
そして五十人の同族を皆殺しにした。
ケタリングは用いなかった。
レオンはその身一つで、一族を壊滅させた。
父も、母も、生まれたばかりの赤子さえも、容赦はしなかった。
レオンは全員を手にかけ、骨も残らないほど丹念に焼き払った。
そして彼はケタリングと共に山を去った。
少年たちは困惑し、激怒した。
レオンの凶行は、少年たちへの裏切りでもあった。
彼らの夢は潰えた。
レオンへの羨望は、一点、軽蔑へと変わった。
他部族のことといえど許されない蛮行だと憤慨し、正義を掲げて、レオンを討ち取るための行動を起こした。
なぜかラプソの幹部たちはこれを良しとせず、認めなかったが、懲罰を覚悟で少年たちは決起した。
レオンは山麓に最も近い、南方都市の外れで日銭を稼いでいた。
南方都市の郊外は流れ者や犯罪者の巣窟で、治安が悪かった。
レオンは笠をかぶってその目立つ風貌を隠し、用心棒や護送といった仕事で金をつくり、金がたまると山に戻ってケタリングと過ごしていた。
少年たちは苦心の末、レオンを見つけ出し、強襲した。
しかし五人がかりで挑んだにも関わらず、簡単に伸されてしまう。
少年たちはそれでも掲げた正義の御旗を降ろすことはせず、レオンを糾弾した。
ケタリングという力を取り戻したのに、なぜ一族を滅ぼしたのか。
我々ラプソと力を合わせれば、遊牧民族全体の地位向上を図れたのに。
朝廷に頼らずとも、自分たちの手で、災嵐を乗り越えられたかもしれないのに。
ウルフの一族は誇りをどこへ捨てたのか。
レオンは少年たちの訴えを黙って聞いた。
そして彼らがすべてを吐き出し終えると、静かに言った。
くだらねえ、と。
「いまの生活に不満があるなら、てめえの力でどうにかすればいいだろ」
「おれはなにもいらなかった」
「金も名誉も必要ねえ。ケタリングで空を飛ぶ自由さえありゃ、他にはなにもいらない」
「それがウルフだ」
「野を駆け、空を飛び、思いのままに生きる」
「ウルフがウルフであるために必要なのは、それだけだ」
「ジジイどもははき違えてやがった。恨みに囚われ、復讐しか考えてねえ。誇りなんてとっくに失っちまってた」
「だから殺したんだ」
「ケタリングは復讐の道具じゃねえ」
「おれは亡霊の言いなりにはならねえ」
「先祖の無念なんか知ったことか」
「そんなもんに縛られてたまるか」
「おれの人生はおれのもんだ」
「他人のいいようにされてたまるか」
「同族殺し?親殺し?人でなし?」
「なんとでも言いやがれ」
「殺される前に殺した。ただそれだけだ」
「おれは自分の大切なものを守っただけだ」
「覚えとけよ。お前らのとこの頭だって、似たようなもんだ」
「先祖から聞かされた恨みが呪詛になって染みついてるんだ。えらそうに誇りを騙っちゃいるが、いざとなったときやつらはなにも守らねえ」
「お前らは自分の手で守れんのか?なにが大切か選べんのか?」
「力がなきゃ守れねえ」
「自由がなきゃ選べねえ」
「……忘れんなよ。周りがどうあろうが関係ない。てめえで選んだ道が、てめえにとっての正義だと、胸をはって言えるように生きるんだ」
「そのときは、同族殺しが自分を正当化したいだけだろうと、むしろ反発したが、その後縮地について探るために各地を渡り歩いて、農民や商人、官吏など、さまざまな人びとと関わる中で、彼の言ったことを考え直すようになった。人の数だけ生活があり、正義がある。中央に立つ朝廷は、それらをまとめるために、『公平』というこの世でもっとも冷徹で残酷な態度をとるのだと。そして――――」
キースは暗闇の中で身を寄せ合う馴鹿を睨み付ける。
「――――彼の言ったとおりになった。祖父や父は縮地をものにするためになりふりかまわなかった。そこにラプソの誇りは無く、保身と因習だけがあった。……あなた方が真に感謝するべきは、俺たちではなくあの人だろう。あの人がいなければ、俺たちは貴方たちを解放することも、同族を見棄てることもできなかった」
そして大切なものを守ることも。
キースは消えそうな声で呟き、口を閉ざした。
それぞれ考え込むように、一同は沈黙した。
(大切なもののために……)
ラウラはレオンとキースの迫られた選択を、自分の身に置き換えて考えた。
ラウラにとって一番大切なことは、縮地を成功させ、災嵐から世界を守ることだった。
兄との約束を果たすことだった。
しかしもしそれが、例えばカイの命と天秤にかけられたら、どうか。
カイが犠牲にならなければ縮地が成功しないとしたら、自分はどうするだろうか。
(あり得ないことだ)
(でも、もしそんなことになったら、私はやっぱり、縮地を選ばなくちゃいけない)
(だって結局、縮地が失敗すれば、災嵐がくる。命の保証はなくなる)
(それなら私は……選ばなくちゃいけない。カイさんが犠牲になることを)
(……)
(……でもその選択に、私は胸を張れるのかな)
沈黙を破ったのは、草むらをかき分ける、レオンの足音だった。
「……ああ?」
レオンはカイに渡された火を繋いで作った松明を持って、森の暗闇を抜け出してきた。
レオンは舌打ちし、吐き捨てる。
「お前ら、なんでいんだよ」
「煙があがっているのが見えて、様子を見にきたんだ」
レオンはカイたち三人から送られる視線に、なんだよ、と苛立った声を出した。
「こいつらからなにか聞いたのか」
「……うん。聞いた」
カイが肯定すると、レオンは冷やかな嘲笑を浮かべた。
「はっ!それでその目か。――――いいぜ。同族殺しの人でなしだと、いつかのこいつらみたいに、罵りたきゃ勝手にしろよ」
そう煽るレオンの瞳は殺気立っている。
到底罵倒を許容する人間の目ではない。
「しないよ。だって、話聞いて、そんなふうには思わなかったもん」
カイは笑って言った。
レオンとは対照的な、含みのない、率直な感想だった。
「ただ、強いなって思っただけだよ」
カイは自分の掌を見つめる。
連日のことで汚れや擦り傷はあったが、マメや古傷は無かった。
それは柔らかい手だった。
カイは強く握り拳をつくったが、手は柔らかいままで、なにを殴っても先に手の方が潰れてしまいそうだった。
「レオンの手は汚れてるのかもしれないけど、汚くはない。おれはそう思うよ」
カイに言われて、レオンは自分の手を眺めた。
硬く、分厚い、大きな手だった。
古傷は無数にあったが、新しく張った皮に飲み込まれ、その痕は目立たない。
「……たわ言を」
レオンはそう呟くと、踵を返して、再び森に戻ろうとする。
「待ってくれ」
それを制したのはキースだった。
「我々は貴方に、馴鹿の礼をしなければならない」
レオンはまた舌打ちをし、松明をたき火に投げ入れた。
「礼ならもらった。必要ない」
レオンはたき火の中で燻る馴鹿の骨を指差した。
「この程度で足りるものではない」
青年たちはレオンを取り囲み、馬の方へひっぱった。
「行こう」
「酒を用意するから」
「肉も」
「きてくれるまで離さない」
「付きまとう」
親鳥に群がる雛のように青年たちは騒ぎ立てた。
「うるせえなあ」
レオンは観念したように彼らを振り払う。
「わかったよ。行けばいいんだろ」
青年たちは歓声をあげた。
そうして一行は、ラプソの生き残りが集まる冬営地へ向かった。