罪と恥
〇
食事を終えると、カイに休むよう言って、シェルティは寝室を去った。
腹のふくれたカイは小一時間ほどうたた寝したが、目を覚ますと退屈を覚え、寝台の上を転がった。
(暇だな)
カイは寝台の縁に腰かけ、どうにか立ち上がれないものかと、脚に力をこめる。
(お?昨日より行けるんじゃないか?)
おぼつかないが、つかまるものがあれば、どうにか立つことはできそうだった。
(いけるか?)
しかし一歩踏み出すとすぐによろけて、倒れ込んでしまう。
カイはため息をつき、その場に胡坐をかくと、ぼんやりと床一面の薄雪草を眺めた。
(きれいだなあ)
昨日レオンに踏み荒らされたはずの薄雪草は、きれいに整えられていた。
踏まれた分を取り除いたのか、その数は昨日よりいくらか減っているようだった。
(そういえば、シェルティはけろっとしてたけど、昨日あの後どうなったんだ?ドラゴンけしかけられてた?みたいだったけど……)
「カイ!」
呼ばれたカイが視線をあげると、アフィーが慌てた様子で、駆け寄ってきた。
薄雪草の花を、レオンより容赦なく踏みつぶしながら。
「どうしたの?」
かけよってきたアフィーはすぐさまカイを抱き上げる。
「落ちたの?」
カイは慌てて首を振る。
「ち、違います。自分で歩いてみようと思って降りたんです」
「……そう」
アフィーは胸をなでおろし、そのままカイを抱きしめた。
「無茶しないで」
「う……はい」
昨日と同様のきつい抱擁にカイは冷や汗をかく。しかしアフィーはすぐにカイを寝台に座らせ、自分は床に跪いた。
「汚れた」
アフィーはカイの足を指して言った。
「いや、このくらい――――」
「洗う」
アフィーは有無を言わせないものいいで、小脇に抱えていた桶を床に置いた。
桶の中はぬるま湯で満たされていた。
アフィーは皮の手袋を脱ぎ、桶の中に手を差し込んだ。ぬるま湯には手拭いが浸されており、アフィーがそれを取り上げると、辺りに石鹼の香りがふわりと広がった。
爽やかな香りだったが、カイの心中は穏やかではない。
手拭いを絞るアフィーの手には、ひどい火傷のあとがあったからだ。
掌の皮膚が薄黒く爛れてしまっている、見るに堪えない、痛々しいものだった。
カイはひどい動悸に見舞われた。
アフィーの傷をおぞましく感じたからではない。むしろ目を逸らすことができなかった。
自分が傷をつけた張本人であるかのような罪悪感を、カイはなぜか抱いてしまっていた。
対するアフィーは傷を隠すでもひけらかすでもなく、ごく自然な動きで、カイの足を手に取った。
「ふぇっ!?」
カイは小さく悲鳴をあげた。
ただれたアフィーの掌は、ざらついていて、人形のように美しい彼女の感触とはとても思えなかった。
それでいて、その手のざらりとした感触は、どこかひどく懐かしいようにも思えた。
「ちょ、あの、平気なんで……」
カイは覚えのない感覚に困惑しながら、アフィーの手を逃れようとする。
けれどアフィーはカイの弱々しい抵抗などものともせず、慎重な、繊細な硝子細工を扱っているかのような手つきで、脚を磨き始める。
「……」
「……」
「……あの」
沈黙と、足を拭われるこそばゆさに耐えきれなくなったカイは、気を紛らわせようと口を開く。
「昨日は、その、大丈夫でした?なんかあのドラゴンに襲われてましたけど……」
「敬語、やめて。……ドラゴン?」
「白いでかい、龍?トカゲ?鳥?みたいな」
「ケタリング」
「ケタリング?」
「あれの名前」
「あ、へえ、そういう名前なんですね」
「うん」
「……」
「……」
「……け、けがとか、してませんか?」
アフィーは目を伏せる。そしておもむろに、カイのつま先に口をつける。
「ぎゃあ!」
カイは驚いて足をひっこめる。アフィーはなにも言わず、再びカイの足を手に取り、磨く。
表情は変わらないが、その目元にはわずかに赤みが差していた。
「……負けない」
「え?」
「あれは本気できてなかった」
「はあ……」
「でも、本気できても、わたしは負けない。……カイにも、傷ひとつ、つけさせない」
「そ、そうですか……」
「……」
「……」
(会話続かねえ!)
カイは視線をあちらこちらに漂わせる。
(頼む、なんかしゃべってくれ……。美人に話題ふるのハードル高いんだよ。でも黙ってんのも気まずいし……)
(っていうか足!どこまで拭く気!?)
アフィーが足を磨く手は、いつの間にかつま先から脛に移っている。
「あのぉ……」
「うん」
「足、もうきれいになったと思うんですけど……」
「身体もやる」
「から……!?自分で!自分でやります!!」
「平気。慣れてる」
カイはいま丈の短い、前合わせの寝衣一枚の格好だ。
いたたまれず、カイは股を閉じ、自分を抱きしめるように寝衣を強く握った。
「絶対、だめです……!」
「なんで?」
「なんでって……」
(おれはこの身体の貞操を守ると誓ったんだ!)
カイは内心絶叫したが、もちろん口に出すことはできなかった。
(記憶のない三年でこの美人とは……すでに、いろいろ、致していたのかもしれないが……)
(おれだってほんとはちょっと、いやかなり、そういうことをしたいが……でも!)
(少なくともこれからは!むさいおれの身体で後生を過ごさなきゃいけなくなったいたいけな美少女に変わって!この身体を守らなきゃいけないんだ!!)
そんなカイの葛藤を気取ることなく、アフィーは大丈夫、と静かな声で言った。
「昨日まで、カイの身体を清めていたのは、わたし。……あのふたりは、やってない。いまのあなたより、その身体をきれいにできる」
「それは……いやありがたい話ですけど……」
アフィーは声を小さくして呟く。
「……わたしに、触れられるの、嫌?」
「ぜんぜん!」
カイは食い気味に、大声で、否定する。
「そういうわけでは!まったくないです!すこしも嫌じゃないです!!」
それを聞いたアフィーは、声の大きさを戻し、再びカイに迫る。
「じゃあ、やる」
「ああ……だめなんです……そうじゃなくて」
カイは顔を真っ赤にしながら言う。
「き、緊張するので……」
「……え?」
カイは恥をかき捨て、早口で言った。
「いや、ほんと、すみません!記憶ないので、申し訳ないんですけど、前の自分とあなたはこういうことするのになんの抵抗もない間柄だったのかもしれませんが、いまの自分からして見るとですね、見知らぬ女性に身体を拭かれるって、めちゃくちゃ緊張してしまうのですよね!女性とそんな親しくなったことないですし、しかもあなたみたいな美人相手喋ってるだけでも落ち着かなくて、まじですみません、だから、その、どうかご勘弁いただけると!!」
アフィーはぽかんと口を半開きにする。
(死にてえ……)
カイは自己嫌悪でいますぐに身もだえたいところを、必死にこらえる。
(例えいま美少女の身体でおれが女だと思われているとしても、気持ち悪さしかない発言だった……)
(はは……。辛い……)
カイは耳まで顔を赤くしたまま、ちらりと横目でアフィーを眺めた。アフィーはさっとカイから顔を反らす。顔は無表情のままだが、首と耳が、傍から見てもわかるほど、赤く変化している。
「……緊張する?」
「え?あ、はい。……めちゃくちゃ」
「……わたしだから?」
「う……。はい。いや、だって、アフィーさんくらいきれいなひとに迫られたら、誰だって緊張しますよ!」
(そうです!だからおれが特別気持ち悪いわけじゃないです!)
カイは弁明を含ませて発言したつもりだったが、アフィーはきつく下唇を噛んで、カイに手拭いを差し出した。
「あ、どうも……」
カイがそれを受け取ると、アフィーは湯の入った桶を寝台の上に乗せ、そのまま後退し、背を向けた。
「じゃあ、自分で」
アフィーの声は消え入るようにか細く、震えていた。
(た、助かった……)
カイは大きく息を吐き、受け取った手拭いで羞恥に火照る顔を強くこすった。
アフィーは背を向けたまま、ひとつに束ねた長い髪の先をいじる。
「……寝ているカイの身体は、わたしが磨いてた」
「え?あ、はい」
「でも、起きているあなたの身体を磨いたことはない」
「はあ……」
「……」
「……?」
アフィーは一際声を小さくして言った。
「だから、わたしも、緊張する」
「え?あの、なんて言いました?」
アフィーは首を振って、扉に向かって駆け出した。
「着替えをとってくる」
「あ、ありがとうございます」
カイの返事に軽く頷き、アフィーは礼拝堂から出ていった。
扉が閉まると同時にカイは脱力し、寝台に倒れ込んだ。
(なんか……どっと疲れが……)
(なにもしてないのにいろいろ失ってしまった気がするのは、なんでだ……)
しかしカイはすぐさま起き上がって、手早く、なるべく局部から目を逸らして、自分の身体を拭き上げた。