バッドドリーム②
身を切るように冷たい風が吹き荒ぶ外と違い、暖房の効いた店内は羽織っているコートが邪魔に思うほど暖かい。エアコンの他に昔ながらのだるまストーブが柔らかなオレンジの光を放ち、蓋が開けっ放しの薬缶から湯気が立ちのぼっている。客席には食べかけのケーキとがそのまま置かれていた。
ゆったりと足を組み、席に座っていた少女は伊達眼鏡の奥から興味深そうに私を見つめている。落ち着いた雰囲気の店の中で、ロックバンドのロゴがデカデカとプリントされたフードパーカーが悪目立ちしている。おまけに下は太ももがむき出しになるくらい丈の短いスカートなのだから、いくら屋内だからといっても薄着すぎないか、と思ってしまった。
「今、外で大きな音が聞こえてきたでしょ。たぶん近くの通りで交通事故でも起きたんじゃないかな。大丈夫、たぶん人は死んでない。大怪我はしたかもしれないけど。あと一歩ここに来るのが遅れていたら、あんたが巻き込まれてたかもしれないね」
「え……じゃあ私、間一髪、助かったってことですか。なんだか、運がいいんだか悪いんだか分からないですね」
「さあ? けど、この辺には黄龍院の本邸があるから。本当は人為的な事件は除いて、『カルマ』絡みのアクシデントは滅多に起きない。そういう守りを敷いてるから。でも、あんたがここに来たせいで発生した。なんでだか分かる? マーキングされてんの。いつでもお前を『視て』るぞ、って警告だね」
少女の語る言葉は、ところどころ知らない単語が差し込まれていて今ひとつ要領を得ない。黄龍院? カルマ? なんのことだ。どこの業界の専門用語なんだろう。それより、店長が指示した人物と面会しなければ。
「あの、私、竜胆露水って方に会うよう上司から言われて来たんですけど……どなたかご存知ですか。あと手付金とやらも一応預かってきたので、それもお渡ししないといけなくて」
「ああ、満木さんから18時に人を寄越すって連絡あったな、そういや。いっけね、忘れるところだった。なんだ、あんたが依頼人だったのか」
満木とは店長の名前である。だが、なぜこの女の子が奴の名を知っているのだろう。まさかとは思うが、あいつはロリコンか何かだったのか。それに依頼人って何の話だ?
「ごめんごめん、名乗り遅れたけど竜胆露水はあたしのことだよ。あのおにいさんに、うちの部下が世話んなるから助けてやってくれ、って頼まれてたんだ。あの人、視える側の人間だからねー、あんたが善くないものに目をつけられてるって気づいてたんだね」
竜胆露水。店長が書き残していたメモに書かれていた名前だ。なぜあの人はこの子の元に向かうよう命じたんだろう。それも、わざわざシフト調整して有休を取らせてまで。
「マスター、この人にあったかいもん1杯ちょーだい。長話になりそうだし、今日すごく寒かったっしょ? 顔色やばいよ、大事な話をする前にあったまった方がいいな」
カウンターの奥でこくりこくりと船を漕いでいたオーナーらしきおじいさんが、心得たとばかりに頷いた。業態が違うと言えど同じような職場で働いているのもあり、つい手つきに見入ってしまう。
手馴れた様子で彼はドリンクを作り、客席までサーブしてきた。注文したわけではないが小皿にはキャラメルと1口サイズのチョコレートも盛り付けられていて、温かそうな薄茶色のカフェオレにはラテアートでかわいいくまさんも描かれている。思わず、うむむと唸ってしまった。
お礼を述べてからカップに口をつけ、1口飲む。見た目は甘そうだが砂糖の量はさほど多くない。かなり熱いが舌が火傷するほどではなく、身体の芯から温まりそうだ。ミルクに負けることなくしっかりコーヒーの風味も引き立っている。……おいしい。
「落ち着いた? 色々ワケわかんないことばっかで混乱してるっしょ」
「ええ、まあ。でも、なんで私はここに来るよう言われたんでしょう……?」
「ありゃ、満木さんなんも説明しなかったのか。あのね、簡単に言うと悪霊みたいなもんに取り憑かれてるの。思い当たる節はない? たとえば怪我や病気をしやすくなったとか、たまに何か変なものを見るとか、あとは……やけに寝覚めが悪い、とか」
「……その全てに心当たりがあります。社会人としてどうなんだって感じなんですけど、寒いせいか最近よく風邪に罹るようになったし、仕事中も些細なミスが増えて……今日も早上がりするよう言われてしまって。寝不足が原因かな、って思ってたんですけど」
夜、眠りにつく度に妙なものを見る。夢の内容は起きるとほとんど忘れてしまっているのに、心臓を握り潰されるような恐怖が全身をガチガチに縛るのだ。安眠効果のある枕を買ってみたり、寝る前にハーブティーを淹れてみたり、できる限りの対策は講じた。それでも夢見はちっとも良くならない。
原因はきっとストレスだろうと思い込んでいた。だって労働環境は最悪で早出も残業も当たり前な上に休憩時間だって微々たるもので、上司は鬼のように厳しいし、同期は無能で手間をかけさせてばかり、先輩はしょっちゅうタバコ休憩だとかでサボっているし、アルバイト達は喋ってばかりでさっぱり手を動かさない、ベテラン勢のパートは理不尽に怒ってくるし、全ての負担は私にのしかかってくる。
早く転職しなくちゃ。さっさとこんな場所から逃げなくちゃ。そればっかり考えていた。実際すぐにでも離れた方がいいんだろう。けれども学生時代、どこの企業も採用してくれなくてお祈りメールが山と積み上がる中で、唯一雇ってくれたのが今の職場で。辛いことの方が遥かに多いくせに、だけど愛着めいた思い入れが未だ私をあの店に留まらせている。
「一体、何が私に取り憑いてるって言うんですか。何かってなんですか。あ、悪霊? でも私、恨まれるようなことは何も、」
「ほんと? 本当にあんたに原因がないと思う? でも今、心の中を占めていた淀みは、ずっと心のどっかにしまい込んでいたものだよね。それと同じものを、同じ気持ちを、他のみんなが抱えていないってほんとに思える?」
たった一瞬、ほんの少しの間だけ、ぶわりと湧き上がった不満や苛立ちを見透かすように。少女──露水さんが問う。内心に蟠る、言葉にしなかった「あいつのせいで」という感情を彼女はぴたりと言い当てた。
「……そうですね。私があの人達に向けているのと同じ気持ちを、きっとみんなも持っているのかもしれません。人間関係ってだいたいそんなものだし。でも、だったら、それなら私は憎まれているって言うんですか。……誰に?」
「別に誰かがあんたを呪ってるってわけじゃないよ。あんたが良いやつだろうと悪いやつだろうと、人は人を憎むし恨む。今回の件とは無関係にね。たださ、強い悪意って言うのは悪しきものを呼び込むんだよ。悪しきもの──人を傷つけ、時に命すら奪う人外のものを『カルマ』と言う。あたしは、それを行くべきところへ還すのが仕事。あんたに悪さしているのも、そのカルマだ」
カルマ。さっきも出てきたワードだ。人を害する悪霊のようなもの。そんなの本当にいるって言うんだろうか。この令和の時代に? 馬鹿げている。ナンセンスだ、まったくもってくだらない。だが彼女の表情はとても真剣だった。大真面目に言う、そんなものが確かにこの現実に「ある」のだと。
「満木さんはさ、不器用な人なんだよ。言葉はキツいし顔も怖いし、それにあんまり優しくないし。視える人ってのは昔っから酷い目に遭いやすいから、自己防衛のために頑なになっちゃうことが多くてね、だから仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。でも、できればあんただけでも支えてやってね。薄情なやつだけど、悪い人じゃないからさ」
お人形さんみたいに整った顔に柔らかい笑みを浮かべて、露水さんは店長をそう評した。確かにあの人は優しくはない。薄情なのも当たっている。だけどいちいち癇に障るような物言いはわざとなのだと思っていた。頑なで不器用だ、と知り合いらしい彼女の言を信じるのなら、単にコミュニケーションが下手くそってだけだったのか。
みんな店長を嫌っている。私だって苦手だ。あんな風に冷たく突き放されたら、誰だって近寄りたがらない。綺麗だけど物が少なくて使用感の薄い事務室を思い出す。普段スタッフが使う休憩室はいつも誰かしらがいる。雑然としてはいるけれど賑やかで、むしろうるさいくらいだ。店長が独りっきりでいるあの部屋に笑顔はない。
「手付金。まだ受け取ってないんだけど、それ、とりあえず今はあんたに預けとくよ。もちろん『送還』に成功したらその分の報酬はいただくけど。代わりに約束してくれる? 満木さんの味方になってくれる、って。あんたは視えない側だけど、この件でカルマを知ったならもう無関係じゃない。頼むよ、……これ以上誰も独りにさせたくないんだ」
いつだって店長はひとりぼっちだ。1人が好きなんだろうと思っていた。あえて孤独でいることを選んでいると。全くの間違いでは無いと思う。仕事中は店長が全て自分で済ませた方が早いし的確だし、休憩中も事務室にこもっていて出てこない。
だけど、あの人が1度でも誰かに声をかけられて無視したことがあっただろうか。いや、話しかけてきた相手の目を見ていなかったことなどない。あの人は誰に対しても厳しい、穏やかな顔なんて見た覚えはない、でも彼が私達を嫌っているとは、そういえば微塵も考えたことがなかった。
「ま、これは同族からのちょっとしたお願いってやつ。別に、あんたに必ず満木さんを気にかけてやれ、とは言わないさ。それに本題は『それ』じゃない。カルマだ。まだ幼体、っていうかカルマに堕ちたばかりでそこまで力は蓄えてはいない。狩るなら今がチャンスだ」
「私、どうすればいいんですか。カルマとやらが本当にいるなら、この後どうなっちゃうんですか……?」
「安心しなって。死にはしない。さっきも言った通り、ここに着くのがほんの少し遅れていたらどうだったかは分からないけどね」
ケラケラ笑う彼女はどう見ても私の感じている恐怖を面白がっているとしか見えないけれど、パーカーのポケットからお守りと御札を取り出してテーブルの上に滑らせた。その辺の神社で売っているようなごく普通の交通安全のお守りと、ホラー映画の霊能者が持っているような怪しげな呪符である。どちらもネット通販で誰でも買えてしまいそうだ。
えっ、まさかとは思うけど私、霊感商法にでも引っかかったんだろうか。マジで? この期に及んで? 嘘でしょ?
「アハハ、何考えてんのか手に取るように分かるわ。ダイジョーブ、別にあんたから金をだまし取ったりしないって。ていうかそんなちゃっちいことせんでも稼ぎあるし。あのね、呪符は寝る時に手に持ってて。お守りはここから帰宅するまであんたをカルマから隠してくれる。あとは頑張って」
「頑張って、って……は? 何、こっちに丸投げってこと? 酷くないですか、除霊とかなんもしてくれないんですか?」
「だってそいつ今ここにいねーもん。いないやつをどうにかできねえって。言ったでしょ、マーキングしてあるって。あんたに憑いてるカルマの本領は、あんたが見ている夢の世界。そこからあんたの運命に干渉して事故に遭わせようとしたり、怪我や病気なんかを招いてる。本体が外に出てこない以上、誰にも手出しはできないの」
絶望的な話だった。霊感商法よりもひどい。むしろ金さえ払えばそれで済むんだから詐欺の方がよっぽどマシだ、これから死ぬ気で家に帰れって? そのうえ見たこともない化け物と対峙しろってこと? そんな無茶な。無理に決まっている。相手はさっき人を殺しかけたヤバい何かで、対する私はか弱いド素人なのに。さすがに無謀すぎるだろう。
「そんな怯えきった顔しなくても。あーもー、分かったよ、仕方ないなあ、満木さんに連絡してやっから! 今日はあの人と一緒に寝たら!? アレも連れてきゃ少しはマシんなんだろ!」
「……それ、マジで言ってる?」
思わず敬語が外れた。まあ相手は中学生くらいの女の子なんだから、そもそもこちらが謙る理由もないけれども。いやそうじゃない、大事なのはそこじゃなくて。
問題は──私が一人暮らしの若い女で、店長もさほど年の変わらない異性だ、ってことだ。あの人と1晩一緒に居ろって? いや、いやいや。それはちょっと、あの、色々とまずくないか。
しかし彼女は、かろうじてキープしたままの笑顔に青筋をピキピキ浮かべている。本職のひとかよと思うほど鋭い目が語っていた。絶対に、本当にやれ、と。
「いいじゃん。あたしにササッと除霊してもらうより、一夜の思い出でも作っちゃいなよ。えーと、なんつったっけこういうの。ああそうだ、吊り橋効果っていうんだっけ?」




