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白鬼夜行  作者: 飴村玉井
22/24

バッドドリーム①

 こつん、ずるずる。

 こつん、ずるずる。


 音がする。規則的に、断続的に、それでいて音源を一切掴ませない音が。靴の踵がアスファルトを叩く音、何かを引きずっているかのような重い音。それらが静かに、気配を気取らせずに近づいてくる。思わず振り返り、目を凝らす──誰もいない。背後にはいつも通り、住み慣れた街並みが闇に包まれている。

 ほっと胸を撫で下ろしたそのとき、


「 み た な 」


 耳元3センチ、吐息がかかるほど近い距離から。地獄の底から響くような、うすら寒い声がした。



◆◆◆



 上体を跳ね上げて身を起こした瞬間、タラリと一筋の汗が額から伝った。真冬だというのに寝汗でびっしょりとスウェットは湿っており、激しい運動をしたときのように肺が悲鳴を上げ、荒い呼吸が室内にこだまする。ひどい悪夢だったような……気がする。曖昧な物言いになるのは、直前まで見ていたはずの夢を思い出せないから。

 チラチラと断片的な記憶が脳裏を過ぎる。何か、おそろしいものが襲いかかろうとしていた。呼びかけられた声に本当は反応しちゃいけなくて、でも夢の中の私はうっかり呼び声に応えてしまった……のだと思う。たぶん。

 社会人数年目にもなって今更、大人のくせに悪夢でビビって飛び起きるなんてどうかしている。ナンセンスだ、夢は所詮、ただの夢なんだから。まったくもってくだらない。言い聞かせる。気にしたって仕方ないと、そんなものは気のせいだと。


「……よし。シャワー浴びて着替えちゃお」


 一人暮らしなのだから当たり前だけど、誰にも反応されないのを分かっていながらもひとりごち、のろのろとベッドから這い出てカーテンを開ける。憂鬱な気持ちとは裏腹に早朝の空は見事に晴れ渡り、立ち並ぶビル街の隙間から朝日が昇っている。

 寝汗でベトベトの身体が気持ち悪かったので、とにかく一刻も早くシャワーですっきりしたかった。元は朝風呂派ではないのだが、毎日のように怖い夢で起こされるせいですっかり朝シャワーが習慣になってしまった。サッと汗を流してスーツに着替え、熱めに淹れたコーヒーを朝食代わりに手早く支度を済ませて家を出る。

 夢見が悪いせいで毎朝異様に早く目が覚めるため、前に比べたら朝は比較的ゆっくりできるようになった。その分睡眠の質は悪化しているが。とはいえ時間ギリギリまで無為に過ごす気にもなれず、結果として以前より1本早い便で出勤するようになった。おかげで満員電車に巻き込まれず済んでいるので、良いことなのか悪いことなのかよく分からない。

 自宅から最寄り駅までの変わり映えしない通勤路を歩き、改札からホームに着いたタイミングでいつも乗る電車が滑り込んでくる。結露で曇ったガラスの向こうには疲れきった顔の老若男女がひしめいていて、暖房の効いた車内はどこか息苦しい。

 空いた座席に座って鞄から読みかけの文庫本を取り出し、栞を挟んだページを開く。本の内容に集中できてないことを示すかのように、栞の位置が数日ほとんど動いていなかった。




「どうしたの、ユーウツそうにしちゃってえ。何、恋煩い?」

「は? 何言ってんの。こんな出会いもクソもない職場で恋愛とかできるわけないじゃん。そもそも婚活する暇だってないしさあ」


 同期から話しかけられ、無意識にこぼれていた嘆息よりも深いため息を吐く。これがパントリーやフロア内であれば店長からの厳しい叱責が飛んでくるが、厨房内には彼女と私しかいないので多少の私語は許される範囲だ。

 お昼時のピークがやっと終わり、溜まった洗い物を黙々と片付ける私に対して暇そうな様子で話しかけてきた同期は、ディナータイムからの出勤なので賄いを用意しに来ただけのようだ。

 自分用のよく分からない創作料理を危なっかしい手つきで作っていた。タレに漬け込んだ肉をおっかなびっくりフライパンで炒め、大きなどんぶりに山盛りに白飯を盛っている。食べ切れるんだろうか。


「じゃあなんで浮かない顔してんの。ウチの店長に見られたら絶対嫌味言われるよお、あいつ、気遣いってもんを知らねーもん。あのクソ野郎、早くド田舎の店舗にでもトバされないかなあ」

「なあに、また店長に嫌味でも言われたの?」

「そうそう! 聞いてよ! 昨日さ、仕事終わりにみんなでメシでも行こうかって話してたらさ、すげーデカい舌打ちしながら睨みつけてきやがってさあ! 周りの子は気づいてなくってね、絶対あれは目え付けられたよ、ほんっと勘弁しろっての!」

「うっわ。最悪すぎる……あんた美人だもんね、マジで帰り気ィつけなよ。私と違って夜遅いんだし」


 勤め先のチェーン店はオープンがとにかく早くてしかも閉店時間も遅い。そのためシフト交代制で社員がディナーとランチタイムに対応することになっているが、働き方改革もどこ拭く風の我が店舗はシフト上の出勤時間より早めに入ることを「推奨」され、そして結局ずるずる残業もさせられる残念な職場だ。

 全て人手不足が悪い。でも今どき(キツいことで有名な)飲食店でわざわざ働きたがるような若者なんていないので、現場の負担は全て社員にのしかかってくる。今日だって本当は夜のピークに差し掛かる前に上がれることになっているが、どうせ1時間か2時間くらいは居残らされるだろう。出勤時間の遅い同期に至っては明日の仕込みにまで駆り出され、日付が変わるまで作業させられているという。くそったれ。

 こんな労働環境に加え、店舗責任者であるところの店長はセクハラ、モラハラ、パワハラ野郎ときている。結婚妊娠出産等で退職する社員にはお祝いどころか暴言を吐くし、忙殺されていると仕事が遅いだの無能だのと罵倒し、スタッフ同士の何気ない雑談にすら怒鳴り散らすのだから手がつけられない。あんな奴ですら店長になれたのはそれだけこの会社の人材が枯渇しているからでしかない。

 夢見の悪さでろくに眠れず仕事のパフォーマンスはダダ下がる一方、その上相性最悪な上司の元で働かざるを得ないとは。呪われているんだろうか、やはり縁切り神社にでもお参りしてくるべきかもしれない。


「ていうか、さとちんこそ大丈夫なの。顔色ほんとに悪いよ。目の下なんかクマすごいし、ちゃんと寝れてる? そのうちぶっ倒れちゃうよ」

「えっ。一応コンシーラーでクマ隠したつもりなんだけど……やっぱり目立ってる?」

「いやメイクでどうにかする前にしっかり寝なって。夜どうしてんの? ストレス? いい睡眠外来紹介しようか?」

「それがさ、最近あんまりよく眠れなくって。やっぱり睡眠薬とか買ってみるべきかなあ。枕とかも新しいものに変えてみたんだけど、」

「──いつまで無駄話している? 口より先に手を動かせ。お前もだ、人の仕事の邪魔をする暇があったらさっさと仕事しろ」


 ヒヤリと浴びせかけられる冷たい声。しまった、油断していた。この時間帯はいつも事務室にいるから店長が厨房に戻って来たことに気付けなかった。

 案の定、突然のお叱りに同期は泣きそうになっている。彼女は明るい子だが気が強くはない、特にこういう静かな注意の仕方にはすこぶる弱い。目配せで休憩室に戻るよう促すと、ぶるぶる震えながら厨房を出ていった。

 どうやらもうじき始まるディナータイムに合わせて準備しにやってきたらしい店長は、てきぱきと作業しながら私に向けて小さく舌打ちした。


「お前、今日はもう上がれ。後は私がやる」

「でも、これから団体さんの予約が、」

「そんなフラフラな状態で動かれても迷惑だ、いつもだったらとっくに休憩に入っている頃合だろう。自分の状態もろくに把握できていないのか?」


 壁掛け時計は既に夕刻を指していた。店長の言う通り、普段ならもっと早い時間に仕事を終わらせて交代の社員と入れ違いに休憩に入っている。思った以上に仕事が捗っていないのには薄々勘づいていた。同期との無駄話が原因ではない。その程度で作業の手際が悪くなったりはしない。

 ……わかっている。この人に指摘されずとも、最近の自分が役に立てていないことは。


「……すみません」

「謝るくらいなら猿でもできる。いいからさっさと上がれ。……ああ、それと明日からしばらく有休にしといてあるから、退勤前にシフト表をチェックするように。調整も既に済ませている」

「えっ。なんで、そんな勝手に」

「一両日中にカタがつく問題ではないからだ。もう先方に話もつけた。デスクに手付金と一緒に置いてあるから、必ず私の名刺を持って行けよ。詳細はメモしてあるからそれに従え」

「……は? 店長、あの、何がなんだか分からないんですけど一体どういうことですか……?」


 淀みない手つきでオードブルの飾り付けをしながら、相変わらず何を考えているか分からない顔で店長は突き放すように言う。冷ややかな目付きには何の感情もこもっていなかった。


「なんだ、本当に気づいていなかったのか。そのままだとお前、──死ぬぞ?」




 分厚い封筒は閉じられてなかったのでこっそり中を覗くと帯がついたままの札束、たぶんちょうど100万円が収められていた。ひゃくまんえん。ドラマや映画なら見たことがあるけれど、まさか現実で目にする機会があるとは。

 誰もいないガランとした事務室は整然と片付けられており、床には塵一つ落ちていなかった。普段、他のスタッフが使う休憩室が散らかっているのとはえらい違いである。その、店長がいつもデスクワークに使っている部屋の隅に設えられた机の上には、封筒と一緒に手書きのメモも置かれていた。

 神経質というか几帳面な店長らしい、整った筆跡で住所と日時、何某かの名前が書きつけられている。つまりこの時間にこの住所へ赴き、この名前の人間に会えということだろう。いけ好かない人だが付き合いだけは長いので(なんせこの店舗に配属されてからずっとあの店長が上司である)、なんとなく意図が分かってしまった。嬉しくないことに。


「えーと今日の18時、ってあと1時間もないし! 千代田区ってことは乗り換えしなきゃいけないじゃない。間に合うかなあ……」


 慌てて制服からスーツに着替え、言われた通りに名刺と封筒を鞄に忍ばせて慌てて店を出る。2月ももうすぐ終わるので、まだ西の空はほんのりと夕陽の残照に染まっていた。だいぶ日が伸びたなあと思いつつ、店舗から駅までの道のりを全速力で走っていく。夕焼け色の街並みは綺麗だったが、のんびり鑑賞する暇などない。

 ちょうど到着した帰宅ラッシュでごった返す電車に揺られること数十分。普段はあまり立ち寄らない官公庁の連なるビル街は、いかにもエリートですって顔をしたサラリーマンやOLっぽい人達で埋め尽くされていた。これだから都会ってやつはいやなんだ。

 同じスーツ姿でも、いやでも格差というものを思い知らされる。別に今の仕事に不満があるわけじゃない。くそムカつく店長の野郎を除けば、それ以外のメンバーともうまくやれているし、仕事内容も問題なくこなせている。あくまで好きでやっていることだ、望んで今の職に就いた、でも。

 思わず気持ちが沈みかけ、軽く頭を振って切り替える。まともに眠れてないのが良くない。だから、あれこれ益体のないことをついつい考えてしまうのだ。とりあえず今は指定された場所へ行かなければ。人混みを縫って進み、皇居にほど近いところにある喫茶店へとようやく到着する。ちょうどメモに書いてあった時間だった。

 夕闇に沈む街の中、レンガ調の外壁が美しいビルディングの1階部分に古めかしい造りのカフェがある。おそるおそる入口スイングドアを開くと、からんからんとドアベルが鳴った。薄暗い店内には革張りのソファと木目の美しいテーブルのセットがいくつか窓際に並べられ、壁一面に洋書がぎっしり詰め込まれた天井近くまである大きな本棚が作り付けられている。喫茶店と図書室の合の子のような、不思議な内装の店構えだった。

 カウンターの奥では壮年と思しき店主が分厚いハードカバーの本を広げており、民謡風のよく分からない音楽がかかっている。他には誰もいない。メモに書いてあった名前はなんとなく女性名のようだったから、指定の人物はこのおじいさんではないような気がする。では誰に会えと店長は指示したのだろう。


「おっ。珍しいじゃん、『エトワール』にパンピーが来るなんて」


 突如、聞こえてきた声は、どこかおもしろがるような、妙に浮ついた色をしていた。我知らず音源の方向へと目線を向ける。他に客らしき人は誰もいなかったはずなのに、いつの間にか客席には1人の少女がくつろいでいた。

 肩口で揺れるふわふわした金髪に、伊達眼鏡。冬場だというのに薄手のパーカーにミニスカートという軽装で、アーミーブーツが照明を受けて鈍く光を跳ね返している。整った顔立ちとは裏腹な、鋭い視線が私を射抜いた。


「うーん。実に見事にマーキングされてんねえ! いやあ良かったよ、あたしんトコに来るのがあと少し遅かったら、死んでたのはあんただったろうね」


 喫茶店だというのに明り取りのない店の外。ドア1枚を隔てた向こうから聞こえてきたのは、鈍いブレーキ音と、何が激しくぶつかり合うような音だった。

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