かしこみもうす、とひとの云う
この世に良い人間がいるように悪い人間もおり、あの世に善き霊がいるのと同じく悪い霊もいる。そして霊魂を操る術を用いて、人に害を成す悪しき霊「カルマ」を還すことを生業とする導く者にもまた敵対すべき者がいる。蠱物する罪を犯したひと、それを秘す者という。
「おかしいな、とは思ってたんだよね。だってさ、ネームドがこんな弱っちいわけねえじゃん。五大家の定める読み名は、名が与えられているという点で他のカルマとは別格の存在だという印であり的だ。ナメてかかっちゃいけないし、最優先で討つべき敵だという証なんだよ、ヤツらにつけてる名前ってのは。じゃあ、あたしみたいなガイドになって半年ちょいしか経ってねえ半人前に討てる相手なのか? ネームドのカルマが? そんなわけねえだろ。だったら年間の殉職者はもっと少なくなきゃおかしい。うちのメグルが毎年毎月バカみてえに葬儀に出る必要だってない。そうだよな? そういうことなんだよ、全部ぜんぶテメーの差し金で、テメーの掌の上ってことなんだよ。クソが、マジでムカつくなあ! ほんっとうに腹立つなあ! ぶっ殺してやろうか! いや殺す。やっぱり殺す。とりあえず殺す。話はそれからだ」
ぐしゃぐしゃと埃で薄汚れた金髪をかき混ぜながら竜胆露水は一息に言い放った。オレの目には死闘とも言うべき激しいバトルが繰り広げられているように見えていたが、彼女にしてみれば物足りない試合だったのかもしれない。
ちょっとばかり人より鼻が利こうが所詮は一般人の域を出ないオレにとって、あんな化け物相手にも臆せず戦う竜胆露水はまさしく無敵の人間だった。けれど今の台詞を聞くに、彼女は自分が強いとは認識していないように思える。腕1本をズタズタにしつつも、恐ろしい怪物に対し勝ちを収めたというのに。
「こちらが手ずから用意したバトルにすっかり夢中になって、わたしに気づいてないように見えたけど。アハハ、そこまでバカでもなかったかー。こりゃ失敬、敵をナメてかかったわたしが悪かったな。いやすまない、もう少しあなたのおつむの出来を上方修正しておくべきだったよ。とはいえ今更反省しても詮ないことだが」
「うるせえよクソババア、息くせえからもう喋んな。それよりお前、あの霊はどうした?」
「あの霊? ああ、痣山峠にいた雑魚のこと? もちろん『使った』に決まってるでしょう。だってもったいないじゃない、資源は有効活用してしかるべき。今どきどこの企業もエコロジーや省エネに気を使ってるんだから、我々術師もまた環境を気にかけなくっちゃ。そうでしょう?」
「へえ。霊的エネルギーの有効活用、ねえ。ほお。それでお前、あの霊を喰ったってわけか。ふーん。……ふざけんなよ」
この女、顔は明らかに老けている。見た目だけなら60、いやもっと上にも見える。なのに、それでいてひどく若々しかった。ペラペラとよく動く舌の動きはもつれたりせず、声にもハリがあって、ボディラインもかなり細っこいし薄っぺらいが、しかし弛みは一切なく引き締まっている。
たぶんだけど歳をとっているのは首から上だけだ。身体はちっとも老けちゃいない。なんだこいつ、人間ってそんな歪な老け方をしないだろ。もしかして、それも霊術のせいなんだろうか。いや待て、そもそも霊の有効活用ってなんなんだ?
「テメーはさあ、超えてはならねえ領分ってのを知らねえの? なぁレイゼ、いや牧瀬紗理奈って呼んだ方がいいか?」
「……二度とその名でわたしを呼ぶな。次、繰り返したらその首落とす」
「一丁前にあたしを脅すつもりかよ。そんなことより質問に答えな。お前は踏み越えたんだよ、この世とあの世の境をよ。その落とし前、どう付けるつもりなんだよ」
「はぁ? 知るかそんなもん、だからなんだっていうの? わたしは悩める子羊ちゃん達のために呪いでもって少しばかり手を貸してあげてるだけ! それに霊なんざこの世界にゃ掃いて捨てるほどいっぱいいるんだから、ちょっとくらい『使った』って構わないでしょう!? ていうか、ねぇガイドサマ、あなただって『使って』んじゃないの? その霊奴を!」
呵呵大笑する女──レイゼは、竜胆露水の遥か頭上を指し示している。いつの間にか1人の男が寄り添うようにして彼女のすぐ横に佇んでいた。こいつ、見覚えがある。腫海公園で無数のカルマを一撃で消し飛ばしたやつだ。三つ編みにした白銀の髪、緑の双眸、浅黒い肌、チャイナ服。それらがあの夜と記憶と寸分違わず合致する。けれど、あの時は楽しげに笑っていた巨躯の男は今、完全に真顔だった。
「どうする? 殺すか?」
「まだ。もう少し待て」
「おやおや、ずいぶんとまあお偉くなったもんだな露水さんよお! まさかとは思うが、おれを顎で使うつもりか? あのババアの言う通りに!」
「は? んなわけねえだろ、ハクールてめえ、1度でもあたしの言う事まともに聞いたことあんのかよ」
ハクールと呼ばれた男は指先に青龍刀の柄頭を乗せてクルクル回しながらレイゼを睨みつけている。いや睨むなんてものじゃない、視線に物理的な攻撃力があるならば、とっくにあの女は蓮根みたいに穴だらけになっていてもおかしくないほどだ。現に、竜胆露水だけだったときは余裕そうだったレイゼは怖気付いているようにみえる。
「わ、悪かった。わたしが悪かったから、早くそれをしまってよ」
「いやだね。誰が敵の言うことなんか聞くもんか。それより答えを聞いてない。どうするつもりだった? なあ答えろよ、何も知らねえガキに呪物を作らせ、動画で呪詛をばらまき、カルマの力を奪い、そして次は何をやるつもりでいるんだ? 言ってみろよ。それとも、あたしを呪うか? お得意の呪詛で、さ。ほら、やれるものならやってみな!」
「いや、いや、来ないで……やめて、悪くない……わたしは何も悪くない! やめろ! やだ、やだやだやだ、たすけて……降りましませ、──!」
恐慌状態に陥っている人間ってのは何をしでかすか分かったものじゃない。錯乱しているのか、レイゼはライダースーツの胸元から変な書き文字が記されている板切れを取り出した。かなりの年代物に見える。さすがに距離が遠くて書き付けられている文字までは判別できない。板切れを夜空にかざしながら、彼女が何事か、誰かの名前のようなものを早口で唱える。なんだろう、なぜか嫌な予感がした。
「やっべぇ、おい高山、テメー逃げろ! その前にメグル呼んできて! 早く!」
「え? は? 一体何が起きてんの!?」
「知らねえよ! あたしが知りてえわ! いいから早く! さっさと行け!」
降りてくる。天から、空の上から、何かとても大きくて──とびきり厭なものが。
「ハクール! こいつ飛ばせるかッ!?」
「ア? なめんな。1発だ」
ぐわしと突然襟首を掴まれる。何がどうなっているのかちっとも把握できないまま、ぽーんと空中へ向かって放り投げられた。え? 待って今オレ空飛んでねえ!?
「高山ァ! メグルによろしくぅ!」
「待っ、何、よろしくって何を──ッ!?」
人生で砲丸投げの砲丸の気持ちになったのは初めてだ。人って頑張れば空も飛べるんだ、と無駄なことを考えながら、為す術なく空中を凄まじいスピードでぶっ飛ばされていく。ところでこれどうやって着地したらいいんだ!?
「おおっと。あっぶね、露水のやつ無茶すんなァ。怪我ないか?」
「ふええ……怪我、ないっす……め、メグルさん……」
寒いわ痛いわで頭の中がぐちゃぐちゃになったところへ突然のイケメンのドアップに放心してしまった。え? ていうか、ここどこ? オレ今どうなってんだ?
「心の声漏れてんぞ。ここは花影駅の東口。んで、ハクールの馬鹿力でぶっ飛んできたお前をたった今俺がキャッチしたとこ。アンダスタン?」
「ア、あんだすたん……えっ、マジすか!? すんません! 今すぐ降ります!」
ヒョイと地面に下ろされ、ようやく浮遊感から解放される。……ちびるかと思った、二度とあんな経験はしたくない。なんで片手投げで子供とはいえ人間1人をぶん投げて市役所から駅まで(数百メートルは軽く離れているのに)ぶっ飛ばせるんだよ。おかしいだろ。
「可哀想にな、あいつら手加減ってもんを知らねえから……それよりどうした? あの雲が何か関係してんのか」
「あっそうだ、メグルさんのこと呼んできてくれって竜胆露水、サンに言われてて。オレ、ド素人なんでよく分かんねえんですけど、なんかやべぇことになっちまったみたいで……」
「あはは、無理してあいつに敬称つけなくていいよ。じゃあちょっくら確認しに行くとするか、お前はどうする? ここで待ってる?」
「……着いて行きます!」
「そう言うと思った。とりあえず戦況だけでも確認しとくか」
クルマでの移動中は口も態度も最悪だしなんてガラの悪いやつだと思っていたが、話してみると意外にも普通にいい人だった。それにあの輩ファッションじゃない。全身黒のスーツで(しかも明らかにどれも高価なものと分かる)、どちらかというとマフィアの若頭みたいだ。ジャケットやスラックスはおろか、中のシャツや革靴まで黒に統一する意味ってあるんだろうか。
「マジで状況が全然分かんねえんですけど……何が起こってんですか?」
「露水のやつはほんとに説明下手くそだな。お前、あの雲から何か匂うか?」
「……いえ。なんも。強いて言えば、ちょっと焦げ臭いかなって程度で」
「おお、よくわかるな! さすがは一般人代表の特異体質持ちってところか。ありゃ『神』だ」
「は? 神? 神って……神様? え、マジ?」
「大マジ。誰がやったか知らんが、今まさに降臨の儀が執り行われている。ただし、ひどく不完全だが。しかも正規の手順を踏まえていない。失敗してるのはほぼ確定だな」
メグルとオレの2人だけで、煌々と明かりの灯る誰もいない駅舎を歩く。駅構内をぐるっと回って西口へ出て、ペデストリアンデッキから1階に降り、あとは来る時と同じ道順通りに進んでいく。さすがにハクール方式でさっきの地点まで戻ることはできない。
立ち並ぶビル群によって四角く切り取られた夜の空は、新月でもなければ曇りですらないのに、星も月も何も見えなかった。重たく垂れこめた暗雲を色の濃いサングラスの奥の瞳がじっと見つめている。あの雲の向こうに、本当に神様なんてものがいるんだろうか。仮にいるとしても、とてもそんな神々しい存在だとは思えない。
「記紀──日本書紀や古事記に記載のある、名のある神ばかりが神なんじゃない。むしろあれらは例外と言ってもいい。大抵の神様ってやつは木に石に泉に町に道に、あらゆるところにいらっしゃる。しかし権能を振るう必要もないから力を求められもせず、ただ本当にいるだけの存在だ。だが翻ってみれば、それは必要とされ、求められたその時には権能を振るうということでもある」
メグルの言葉はイマイチ難しくてわからない。首を傾げていると、要はマジにお願いすれば神様が手を貸してくれるってことさ、と彼は付け加えた。それならまだ理解できる。初詣やお参りのときは色々お願いするしな。
でも本当に叶うと思ってお祈りするわけじゃない。だって叶ってほしいことは自分の手で実現しなくちゃ意味ないだろ。とはいえ地元は神社もお寺も少ないから、お参りなんてちっちゃい頃に1度行ったきりなんだけれども。
「じゃあ、あれも……マジの神様なんですか?」
「マジの神様だよ。でもあれは完全な顕現じゃない。神の持つ負の部分、荒御魂だけが呼び出された、いわば一種の呪いのようなもんかな」
ちょうど説明が終わったタイミングでようやくオレ達は市役所前まで戻ってこれた。オレらが来るまでさして時間はかからなかったはずだが、既にレイゼはコテンパンに伸されていた。顔面が可哀想なくらいボコボコに腫れ上がっている。
しかも全身を麻縄でぐるぐる巻きにされ、ついでとばかりに親指を結束バンドでガッチリ拘束されていた。まさかとは思うが、あいつ拘束具を常に持ち歩いてるのかよ。
「おっそい! メグル、てめえ呼んだらさっさと来いよな!」
「あーもー、ギャーギャーうるっせえな。なんも知らん素人連れてんだから説明しながらになるに決まってんだろ」
「ウワ、なんでまた連れてきたの……逃がしてやれよ。雑魚狩り程度なら連れ回して見学させてやれたけど、もうそれどころじゃねえじゃん。見ろよアレ、どうすんの」
「いやいや、ここまで来てさよならバイバイってわけにもいかねーじゃん。いやまあハクールさんとやらがいるんだからオレじゃ戦力になんねえかもしれないけど、でもほら女の子1人だけ置いてくって無理でしょ、そんなの」
「バカじゃねえの。死んでもしらん、マジで知らん」
「いやそこは知って!? ちょっとは気にして!?」
「ふん、バカ相手にしてられるか。そういやヨシカズは?」
「そろそろ来るでしょ、あいつ、俺以上の過保護マンだし」
「……メグル。てめえ、ちゃんと露水のこと見とけよ、クソが。腕、ボロボロじゃねえか……マジでふざけんなよ」
メグルが「来る」と言った途端、本当にヨシカズは来やがった。というかオレらより先に到着していたみたいだ。片手に麻縄の余りを持っていて、もう片方の拳は返り血で真っ赤に汚れている。レイゼをタコ殴りにしたのはこっちだったのか。
学校での優等生然とした態度をどこかにうっちゃり、ヤンキー漫画の不良もかくやという極悪面で従兄弟を睨めつけているヨシカズは、オレンジ頭に革ジャンと革パンなんて外見なので、メグルと並ぶとインテリヤクザの幹部とその下っ端って組み合わせに見えなくもない。もちろん本人には口が裂けてもそんなこと言えないが。えげつない報復されそうだし。
「あそこで伸びてる雑魚ハイドには後で事情聴取するとして、喫緊の課題はあのカミサマか」
「今はレイゼのやつが呼び出すのに使った呪符を簡易封印して完全顕現を食い止めてる。でももう1分も保たないかな、もうじき破れるよ」
「そうなったらウチの神様に助けてもらうしかねえな。いやー、本当に俺が居てよかったな! な、お前らもそう思うだろ?」
「へーへー、いいから黙ってちゃっちゃとやれよクソ野郎。それとも今度はオレにあの世に送られてえか?」
「ァ? ナメてんのかクソガキ、霊奴もろくに完全屈服できねえ半人前がいきがってんじゃねーぞ。露水ィ、これ終わったらエトワールで奢れよ」
「は!? なんであたしが!?」
「うるせーお前がきっちりカタをつけねえからこうなったんだろうが! まったく、少しは次のご当主サマを敬愛しろってんだアホどもめ」
竜胆露水とヨシカズ、それぞれに喧嘩を売りつつ売られつつ、メグルはそこで初めてサングラスを外してジャケットの胸ポケットに引っ掛けた。顕になった瞳は、夜空よりもずっと深い、稲光をたくわえた雲のような鉛色。雷雲のごとき瞳にチカチカと紫雷が瞬く。
「降りましませ、──黄龍」




