〈幕間〉深夜、雨だれ、彼女のまこと
喫茶エトワール。
フランス語で「星」と名付けられた今どき珍しい純喫茶風のカフェは、戦中時代からこの地で茶屋を営んできた老舗だ。明り取りの窓はほぼなく、薄暗い店内にはゲームの筐体の代わりに洋書を詰め込んだ本棚が所狭しと並び、革張りのソファとやたらでかいテーブルのセットがいくつか。各席に置かれたオイルランプが幻想的な雰囲気を漂わせている。居心地は決して悪くないが、逆に言うと時間を忘れて寛いでしまうのが難点だった。
エトワールは皇居からほど近いところにある。東京、ひいては関東全体を管轄する、ガイドの中でも特別な5つの家「五大家」の1つ「黄龍院」家の本邸が皇居に寄り添うように置かれているからだ。しがない小さな喫茶店は、大戦の頃より黄龍院と共にあった。現黄龍院当主と店を開いた先代店主の間に、ある約束があったからだという。
そんな癒しとくつろぎの空間を提供する店の今の主は今日も自分用のコーヒーを1杯淹れ、カウンターの奥の定位置でのんびりと時代小説を読み耽っていた。雨のそぼ降る平日の深夜、訪れる客というのはほぼいない。そもそも客としてくるのも黄龍院家の人間くらいなのだが。
と、カラコロとドアベルが軽やかに鳴り、紙の黄ばんだ古書を閉じて店主は顔を上げた。夜のように暗い店内に、外の光が差し込んで逆光をつくる。都会の喧騒を忍び込ませながらやってきたのは、ここの数少ない常連の1人だった。
「いらっしゃい。……なんだ、坊か」
「なんだ、とはなんだ。ウチはここの売上に貢献してやってんだけど?」
「そいつぁ失礼。ところで何用で?」
「うん、まあ、ちょっと。野暮用でね。1日でいいから匿ってほしい奴がいるんだ。店も閉めてくれるとありがたいんだけど。もちろん今日分の売上は補填する」
「きな臭いなあ。何か裏があるんじゃないのかい」
「返事はハイかイエスのどっちかだ。で、受けてくれるよな」
「……仕方ないね。ここを追われちゃ行くところがないからね」
やれやれ、と深いため息をついて、本の続きが読めそうにないことを悟った店主は青年──黄龍院メグルからの依頼に対して了承を示した。普段はポニーテールにしているはずの金髪はそのまま背に流され、傘を持っているのにずぶ濡れのまま、制服でも当主候補としての正装でもなく私服、やんごとなき家柄のお坊ちゃんがそんな異様な風体の時点で面倒事に巻き込まれる予感はあった。
悪意を持って人に害を成す人ならざるもの達、カルマと呼ばれる悪しき霊と対峙し退治する役目を担うガイド、両者の争いは数千年も前からこの国で続いている。終わりの見えない戦いに決着はない。人の魂が巡り続ける限り、この世に人がいるうちは絶えず繰り返されるのだ。
エトワールの店主は霊視もろくにできぬ一般人でありながら、世界の裏の闘争を知る数少ない人間だ。黄龍院という名の家が、一体何をしているのかを知りながらも変わらずにこの地でカフェを営んでいる。だからこの店は黄龍院を始めとした五大家、あるいはそれ以外のガイドの家系の者から重宝されていた。商談をするにはもってこいだからだ。
とはいえ、こんなことになるとは成人してすぐに店主を引き継いでからというもの初めてであり異例である。黄龍院の人間は滅多に外の人間に借りを作らないようにしているし、そもそも一般人を巻き込むのはガイド共通の決め事として御法度らしい。実際、今までにはビジネスの話をするためだけにどの家の人間もここを使っていた。彼ら彼女らが店主へ積極的に関わることはなかったのだ。
「それで、匿ってほしいというのは誰なんだい」
「もう店の外に控えさせている。露水、入ってきていい」
席に着くでもなく立ち話を続けていたメグルが、わざわざ自分でドアを開けてやりながら店の外へ向かって声をかける。この青年がエトワールを利用する時は大抵付き人連れだ、支払いなども全て付き人に任せっきりなので、彼1人だけが入店すること自体そうそうあることではない。
ドアベルが鳴らないようそっと慎重に扉を開けながら入ってきたのはずいぶんと小柄な少女だった。ぐっしょりと濡れた金髪からは雫が滴り、着ているパーカーやスカートも同じように濡れて色がすっかり変わってしまっている。そのせいで骨格の華奢さや肉付きの悪さが際立って見えた。伊達眼鏡をかけた顔はメグルとの血縁を感じさせる美しいものではあったが、目付きの鋭さが一般人ではないことを示している。
「竜胆露水だ。ちょっとワケありでね、長く見積もっても明日の夕方まででいい。ここに置いてやってほしい。この通り濡れ鼠だから着替えなんかも後で届けさせる。詳しいことはこいつに聞け。忙しいんでな、俺はもう行く」
「えっ、あの、夕方までって……そのあとはどうすりゃいいんだい」
「後ほど迎えを寄越す。露水、それまではここで大人しくしてろ。それと──ハクールは喚ぶな」
今どきのギャルみたいな外見に反し、彼女は一言も発さなかった。メグルの言いつけに対しこくんと頷くだけである。彼も露水からのリアクションを期待していたわけではなかったのだろう、これは心付けだと言って分厚い札束の入った封筒を渡してからそそくさと去っていく。口止め料だな、というのは長年店をやっているせですぐ察せてしまった。
「……ええと、そのままじゃ寒いだろう。大きいかもしれないけどおじさんの服を持ってくるから着替えるといい。ああ、でも場所がないな……未成年の子をうちに連れて行くわけにもいかないし」
「かまいません。このままで。メグルがあたしの服を持ってくるって言ってたし」
いやでも見ていて寒そうなんだよなあ。と思いつつも、これ以上食い下がって警戒されても困るので、それならとお湯を沸かし、カップに買い置きのココアの粉を入れて沸騰した湯をそっと注ぎ入れる。軽くかき混ぜてから絞ったホイップクリームを乗せれば、特製ココアの完成だった。湯気を立てる温かそうなココアをまじまじと見つめ、露水はきょとんと首を傾げる。
「はい。熱いからやけどに気をつけるんだよ」
「え、これ……私が飲んでもいいの?」
「だって震えている子どもを放置なんてできないだろう。今、暖房を入れるからね」
「……そこまでしてもらうわけには」
「いいのいいの、おじさんもちょっと寒いなって思ってたところだからさ」
昔ながらのだるまストーブと石油のファンヒーターの電源を入れる。エアコンの暖房でも良かったが、部屋全体を暖めるよりも先に少女にあったまってもらうのが先だと判断した。それでやっと冷えが改善されたからか、小刻みに震えていた彼女がようやく落ち着いてきたように映る。
「……あたしさ、失敗、しちゃったんだ。半年、この仕事をやってきて……たぶん、油断とか慢心、してたんだと思う。難しい仕事だって分かってた。分かってたんだけど、きっと『つもり』なだけだったんだろうな」
ぽつぽつ、と雨だれのように少女は語り出した。というより自分に向けて呟いているようにも見える。店主は、なんと声をかけたらよいか分からなかったが、おそらく彼女は誰の慰めも求めていないのだろう。栞を挟んで閉じていた小説のページを開き、聞いてないフリをした。照明を受けて、少女の眼鏡の奥の瞳はぼんやりと鈍く光っている。
「やれると思ってた。自分ならちゃんとやれるって。でも思い込みだったんだ、自分にそうやって言い聞かせなきゃ、あたしはあたしとして立っていられなかった。あたしは強い人間なんだって、誰にも負けない、折れない、曲がらない、だからどんな時だって笑顔で前を向ける──そう、自分を奮い立たせていなければ。いつだって怖かったよ。分かってたんだ本当は、ハクールみたいには強くないんだ、あたしは」
甘ったるい匂いの香るココアをひと口含み、少女は自嘲気味に笑う。彼ら彼女らの言う「仕事」がどれほど危険で死と隣り合わせなのか、店主は全くわからないではなかった。
なぜならこの店には時折、返り血やかすり傷をたくさん付けてやってくる客もいるからだ。敵や自分の血で汚れながらも、コーヒーを楽しむガイド達。こんなところで談笑してないで病院に行きなさいよと思わないでもなかったが、ここで味わう馥郁は戦いの場に生きる者が、日常に回帰するために必要な儀式なのだろうと勝手に思っていた。
それは、まだ年の頃十を少し過ぎたくらいの子供ですら「そう」なのだろう。
「ちゃんと送ってあげたかった。あたし達は、ガイドは導くことが役目なの。っだから、あたし達は『ガイド』と自分で名乗るの。この世で行き場所や寄る辺を亡くして迷子になってる魂をあの世に、行くべきところへ還すのが仕事なの。それができなかった。あたしは、あの子を送ってあげられなかった。還してあげたかったのに……」
匿うというのは優しい嘘だったのだろう、とようやくここにきて店主は悟った。雨に打たれて凍えてはいたが、少女はこれといって怪我もなく病気に罹っている様子はない。何かに命を狙われているのなら、こんな場末の喫茶店ではなく本邸でしっかり警護をつけているはずだ。なぜそうしないのか。答えは今、見せられている。
「この半年、それなりに上手くやれていたつもりだった。初仕事のこともちゃんと覚えてる。実際さ、怪我だってほとんどしたことないんだよ。すごいでしょ。メグルだってヨシカズだって死にかけたことは1度や2度じゃないのに、あたしはかすり傷1つまだ負ったことがない。それはあいつらが簡単にこなせる依頼しか回してこなかっただけなんだって、分かってないだけだったんだ」
いつの間にか露水の隣には1人の少女が傍にいた。古めかしいデザインのセーラー服に顔面のほとんどを覆うガスマスク。おかっぱにした黒髪は、外はザアザア降りだというのに毛ほどにも湿っておらず、鳴らないドアベルがこの少女は人外の者なのだと伝えている。彼女は紙袋を携えていた。中に入っているのは着替えだろうか。化生の少女はじっと黙って露水の吐露を見つめている。
「思い上がるな。分かっている。あたしはハクールに導かれてここまで来た。さしたる理由や目的を持たずに、己の中の弱さも虞も見ないフリをして。あたしは強い、あたしは負けない、それだけを念仏みたいにずっと唱えて。戦うことは好きだよ、でも死ぬのも殺すのも本当は怖くて仕方なかった。それだけは認めるわけにはいかないから、理想の自分を何重にも塗り重ねて、ここまで来た。……来れてしまったことが、いけなかったんだと思う」
紙袋を受け取り、中身を検分してから露水はすっくと立ち上がる。あいにくこの店に個室はないので御手洗を使うように言い、彼女はわかったと頷いて着替えを手に消えていった。と、かすかな嘆息が聞こえて店主はもう1人の少女を見遣る。
「まったく始めからそう言えってんだ。メグルはああ見えて察しのいい男だから気づいてこうやって気を回してくれているが、ヨシカズは朴念仁だからな。やれやれ、アレではあの子も苦労をする」
「……あなたは、ええと」
「失礼、名乗り遅れた。アリャールカという。メグルに仕えている。我が主が日頃世話になっていると聞いた。ああ、売上の補填は後ほど振り込むとのことだ。確かに伝えたので、これで失礼させていただく」
「そうかい。ありがとう、とこちらからも伝えてくれると助かる。それとこれを」
店主が渡したのはクッキーである。エトワールでは頼む者もいないので軽食やお茶菓子の類はほとんど在庫を置いていない。だからこれは店主が自分用に作り置きしてストックしていたものである。手作りなので実のところ、あまり日持ちはしないのだが。
透明な袋に入ったその焼き菓子をしげしげと見ていたアリャールカは、ふ、と目元を綻ばせた。ガスマスクのせいで顔は分からないが、なんとなく雰囲気で笑ったのだと分かる。
「ありがとう。主人と分け合って食べるよ」
霊奴、というものが食べ物を食せるのかは知らない。だが食を贖う場へ来てくれた者をもてなさずに帰すのは店主としての矜恃が許さない。ただ、それだけの単純な「理由」だった。
霞のように消えていく少女と入れ替わりに着替えを済ませた露水が戻ってくる。タイミングの良さに、自分達のやり取りを邪魔しないよう配慮してくれたのだと察して、店主は穏やかに笑いかける。
「ありがとう。聞いてくれて。少し落ち着いたかもしれない」
「何もしていないよ。何も聞いてない。……それでいいじゃないか」
「そう。……そっか、なら『そういうこと』でいいか」
実際、店主は何もしていない。ココアをいれてやり、そのあとは少女に何も話しかけず黙って読書に戻っていた。その方が話しやすいだろう、と思ったから。なぜなら、ここは喫茶店だから。茶を楽しみ、のんびりとくつろぎ、お客に満足していただくための場所。露水もアリャールカも、彼にとっては等しく「客人」なのだ。
「……おや。もう日付が変わっているね。待っていなさい、毛布を持ってくるから」
「大丈夫。雨、止んだから」
言われてみれば外からはもう雨音がしなかった。しかしこんな時間に子供を外へ出すわけにはいかないし、名目上とはいえメグルから彼女を匿うよう言いつけられている。さすがに自宅に招くのは、それとは別な意味でよろしくないので、店内に泊まってもらうことになるが。
「ハクール」
「あいよ」
3度目の来客は美丈夫だった。1つに編んだ長い白銀の髪に、緑の双眸。鍛え上げられた長身の体躯をチャイナ服に包み、腰に大きな剣を佩いている。彼が、メグルが喚ぶなと言っていたハクールという者か。アリャールカもまた人外特有の異質な雰囲気を持っていたが、この男は段違いである。
「帰ろ、ハクール」
「……いいのか?」
「別に。メグルには適当に伝えておく」
ぶっきらぼうに言って、露水は上着のポケットから封筒を取り出した。その中身が現金であることは、先ほどメグルからも同じものを受け取っていたのではっきりと分かった。
「いいよ、もう料金はもらっているからね」
「あれはただの口止め料でしょ。これはあたしからの個人的な御礼。……これからも、たぶん贔屓にさせてもらうと思うから」
そこで初めて、店主は彼女の笑顔を目にする。一筋すらも涙を流さなかった彼女の笑みは、それでも泣いているかのように見えた。