「だってこの目で視たんだもん」
「はァ? ユーレイぃ? んなもん、この令和の世の中ある訳ねえだろ、ナメてんのか、テメェ」
「や、でも、見たって言ってるやつらが何人もいるんすよ。で、聞いたらウチに定期で入ってるメンテナンスのおっちゃんも何度か見た、って……」
「っ、ざけんな。そんなんで納得できるか。おおかた気のせいか目の錯覚だろ」
「ええ、そんなこと言われてもぉ……」
カタカタと軽快にノートパソコンのキーを打ちながら、なんとはなしに聞き耳をたてていた。俺は所詮、派遣に過ぎないので込み入った話題にはなかなか混ぜてもらえない。社内で共有しなければならない情報の伝達漏れに遭うこともしばしばだ。先の話題は、確か先月から社内をザワつかせている「騒ぎ」についてだろう。
前提についてまず説明しよう。弊社が入っているのは何の変哲もない、9階建ての雑居ビルだ。テナントのほとんどは埋まっていて、弊社以外は確か1階に歯医者、2階から最上階にかけて似たようなオフィスがテナントとして入っていたはずである。
このうち、ある階を除いて1階から最上階は特に何も問題は起きていないが、ウチがまるまるワンフロア借りている5階の非常階段で度々「何か」が目撃されるのである。踊り場からの見晴らしはそれなりによく、全館禁煙なのもあって以前は喫煙者が昼休憩に一服するのにも使われていた。
……その時折目撃される「何か」について、俺は誰からも詳細を知らされていない。非喫煙者で日頃階段を利用しないのもあるが、結局は俺がしがない派遣社員で外様だからだろう。それなりに会社規模は大きいといえど地元密着型の企業ならよくある話だ。業務に差し支えない程度の雑談なら振られるが、もう少し踏み込んだプライベートな話となるとほとんど俺の元には降りてこない。まあ、それは別にどうでもいい。知りたいとも思わないし。
ただ、あの社員の言う通り令和にもなって幽霊だのお化けだのバカバカしいな、とは内心でつい吐き捨ててしまっても仕方なくないか? さすがにSNS上で吐露するほどではないが、やるべき仕事もほったらかして怪談とはいいご身分だなと毒づきたくなるくらいは許してほしい。
あいつらは社則に守られて残業しなくてもいいが、タスクが山積みの俺は滅多なことでは定時で帰れないのだ。たとえ忙しくなくても周りの目があるから仕方なく仕事をしているフリをして時間を潰すこともあるが──まぁ、それもどうだっていいか。
来週の始めにある会議に向けて資料を作成するため書類作成に取り掛かりながら、客先から届いたメールをチェックしては返信し、時々かかってくる内線電話を捌いているとトントン、と突然肩を指でつつかれた。集中していたところだったので、なんだよいきなり、と文句を言おうとしてつい口ごもる。相手が同じ派遣でここに来ている瀬戸さんだったから。
「いますよ。オバケとかユーレイって言われてるようなやつら」
「は? なんの話……ああ、三島さん達の言ってたアレか。気にしなくていいと思うよ。俺らにまで情報が降りてこないってことは無視していい事柄なんだろ。ていうか何、瀬戸さんってそういうの信じてるの? 意外だね」
「うーん……信じてるっていうかあ。わたしの友達の娘さんが、なんか『そういうの』見えるひと? らしくってえ。で、なんていうんです? 怪奇事件的な? そういうのにカチ会ったことあるんですよお。いやー、アレは怖かったなー、まじで」
「……ああそう。まあいいや、俺、タバコ吸わないし踊り場に行くことも無いでしょ」
「んん……でも、たぶんアレ、ほっとくのは良くないんじゃないかなあ、って気がするんだよね」
踊り場のある方向へ目線を向けて瀬戸さんは呟いた。俺に対して話しかけているというよりは、独り言のような言い方である。敬語も飛んでるし。どこか遠くを眺めているかのような目つきは、ぼんやりとしていてるようでいて、しかし「何か」を注視しているようでもある。
俺達が位置するのはオフィスの1番手前にある列だ。ピッタリ並べられたデスクの島には同じ派遣社員達が自分の持ち場で忙しなくキーを叩いている。隣の島にいる正社員達はゆったりとした面持ちで缶コーヒー片手に世間話をしているというのに。彼らはこちらに目を向けたりはしない。多少の私語をしたところで気づく様子はなさそうだった。
全くもって暇ではないけど、たまには同僚と何気ない日常会話をしてやってもいいか、と上から目線なことを考えていたそのとき。瀬戸さんは突如として席を立つ。そのまま無言でオフィスを飛び出していった。えっ、と目を丸くしているうちに彼女は迷いのない足取りで、事務所の玄関を抜け──廊下の突き当たりへと進んでいく。そっちは今まさに話のネタにしていた非常階段の踊り場がある。
さすがに放っておけず慌てて後を追いかけると、瀬戸さんは重たい鉄扉を開けた。空調の効いた暖かい館内に、ドッと冷たい風が流れ込む。どうしたんだよ、何があったんだよ、と声をかけてみるが彼女は一切反応を寄越さない。そして止める間もなく瀬戸さんは、
「あ……」
自分の腰ほどもある手すりを飛び越え、まるで「そう」するのがごく普通の当たり前といった様子で、なんということなく空中へと身を踊らせた。2月だというのに珍しく雲ひとつない快晴の、午後4時のことだった。
◆◆◆
「ちわーっす。黄龍院からの依頼で来ましたァ、ええっと露水って言います。朝露に水でろみ、ね。なんか飛び降りがあったんですって? そんでうちらに依頼してきたと。ふーん」
瀬戸さんが意識不明の重体となってから1週間と経たないうちに来社したのは、まだ中学生くらいに見える歳若い少女だった。染めているのか地毛なのかは定かではないが派手な金髪で、肩口までのショートに整えている。ヒョウ柄のフードパーカーにかなり際どい丈のミニスカート、厚底のごついブーツという身なりをした少女はどう見ても会社訪問だの職場体験に来た訳ではなさそうだ。
棒付きキャンディを口に咥え、もごもごと動かしながらオフィスをうろちょろしている彼女は一つ一つの島を見て回ったあと、おもむろに私の隣にやってくる。彼女の性格を表すかのように、片付けられないまま雑然としているデスクは瀬戸さんが使っていたものだ。支給のパソコンには付箋がいっぱい貼り付けられ、書類や資料が机上に積み重なっている。
「ねー、ここ『佳織』ちゃんが使ってたヤツ?」
「佳織って……瀬戸さんのことですか。確かにそうですが」
「そっかー。やっぱりそうなんだ。いっつもここでお仕事してたんだ、って佳織ちゃんが言ってたから。ねえ、座ってもいい? あ、いいの、ありがと。大丈夫、置いてあるものには触らないよ」
と誰に話しているのか、訳の分からないことを言ってやって来るなり名乗った少女、露水ちゃんは使い古しのチェアに腰を下ろす。そのままデスクに肘をつき、まるで祈りを捧げているかのような姿勢をとる。一体何が起きたんだ、と辺りを見回してみても不思議そうな顔をしているのは自分と同じ派遣社員だけ。どうやら正社員には事の次第が伝えられているらしい。
「うん……うん、伝わってくるよ。苦しかったね。つらかったよね。分かるとは安易には言えないけど。あたし、まだ外で働いたことないからさ。大丈夫だよ。佳織ちゃんは助かる。なんとかしてみせる。そのために来たんだもん」
誰に話しかけているのだろう。独り言とは思えなかった。彼女は祈りのポーズをやめていて、視線を天井の方へと向けていたからだ。まるで、そこに「何か」がいるみたいに。
「ねえ、えっと田代さんっていったっけ? あんた」
「田代は俺ですけど。何か……」
「あなたが最後に見たんでしょ? 案内してくれる、あの踊り場。どうやって佳織ちゃんは落ちたの?」
す、と露水ちゃんが指で示したのはまさにあの日、瀬戸さんがダイブしていった場所だった。あれから社員はもちろん清掃スタッフ、ビル管理人さえ近寄らなくなったところへ行けと言う。
「……見ても何もないと思いますけど」
「それを判断すんのはあたしだよ。あんた視えない側でしょ」
「は? 一体なんのこと、」
「オバケだよ。ユーレイでもいいけど。あたし達は『カルマ』って呼んでる。ま、いいよ、見れば分かるからさ」
ほら来い、とばかりに腕を引かれ観念して席を立つ。島中の同僚達が不安げに見つめる中、オフィスから歩いて10秒もない踊り場へと彼女を連れて行く。あの日の彼女と同じように非常口を開き、コンクリートの床へと踏み出す。……あれ、
「バカ! 飲み込まれんな! しっかりしろ、お前まで死にてえのか!」
「……。ふぇっ? えっ、っえあ、何、」
絶句した。いつの間に自分は身を乗り出していた? 目の前には遥か地上の駐車場が広がり、その周りに同じような造りのビルが立ち並んでいる。俺は手すりに腰から下が引っかかった状態で逆さまになっていた。
「うわ! うわあ! あっぶねえ! どういうことだ!?」
「だから言ったじゃんしっかりしろ! 気ぃ抜くな、現に1人死にかけてんだろうがぁっ!」
「はぁ!? お前そんなこと言わなかったろうが!」
「うるせえ、佳織ちゃんのこと忘れたのかよ!」
「忘れてねえよっ! 忘れるもんかよ! あんな……あんなことが起きたのにっ、」
みっともなく声が震えていた。そうだ、つい最近、瀬戸さんはここから落ちた。今の俺みたいに手すりの向こうへと。そのままアスファルトの上に全身を叩きつけられ、緊急手術を受けた今は集中治療室にいる。このまま意識が戻らないなら覚悟をした方がいい、と。救急車で運ばれていく瀬戸さんに付き添った俺は主治医から聞かされていたのではなかったか。
「そうだ。佳織ちゃんは、このままなら取り殺されて死ぬ。カルマに──あんた達がオバケとか、ユーレイとか、勝手に色々呼んでる奴に。だから来たの。あたしは佳織ちゃんに生きてほしい。元気になってほしいもん」
少女のものとは思えぬ怪力で無理やり上体を引っ張られる。やっと俺はふらつきながらも自分の両足で立ち上がった。足はまだ踊り場の上にある。……生きている。見て、と露水ちゃんに肩をぽんぽん叩かれ、ついと目を遣って思わずぽかんと口を開ける。
「なんだ……こいつ」
「言ったじゃん。今度こそガチで。カルマだよ。こいつが佳織ちゃんを殺そうとしたんだ。たった今、あんたのこともね」
あの日と同じ冬晴れの空にふわりと浮かぶ人影。袖口や襟元がボロボロに擦り切れたスーツ、ぐしゃぐしゃに乱れた髪、昼間なのにも関わらず爛々と光る両の眼。虚ろに開いた口が何事かをブツブツ呟いているが上手く聞き取れない。
「カルマ……これが? なんか、普通の人間みたいな……」
「あは、もっとバケモンみてーなやつと思った? まさか。彼らはね、あたし達と同じだったの。生きて普通に暮らしてた。この世界で。でも、それも死ぬ前までの話」
説明しながら露水ちゃんがフードパーカーのポケットから何かを取り出す。それは非日常めいたこの場においては呆れるほど普通の──カッターナイフだった。霊験あらたかな宝剣や御札などではない。
「うらァ、──死ね!」
「死んでるのに!?」
予備動作もなしにいきなり空中へと脚力だけで舞い上がり、露水ちゃんは片手に握ったカッターナイフを思いっきりカルマの眼球へと突き刺す。いや、もはやそれは頭蓋にまで達しているのではないかと思うほど凄まじい威力に見えた。
ギャアア! と聞くに耐えない金切り声を轟かせたカルマが身を捩ってカッターナイフから逃れようとする。だが深々と刺さる切っ先が、ついにばけものの頭部を貫く。瞬間、陽光に照らされながらユーレイ、ではなくカルマがたちまち溶け去る。まるで幻影のように。
「あっ」
「大丈夫ー! あたしは平気だからー!」
「でも、その下は地上……っ」
あっという間に撃退されて掻き消えていったカルマではあったが、露水ちゃんはそのまま地上へと落下していく。手を差し出して届くような距離じゃない。どうしよう、と手が無意識にポケットのスマートフォンへと伸びた瞬間。
彼女を抱き抱える「何か」がなんの予兆もなしに唐突に現れた。ゆるく編まれた長い白銀の髪、褐色の肌とがっしりした体格をチャイナ服に包み、腰に青龍刀をぶら下げている。ニィと意地悪く笑う顔は野性的な美貌で、緑の双眸が腕の中の少女へと注がれていた。
「ね、言ったっしょ。へーきだって。頼りになる相棒がいっからね。──佳織ちゃんに伝えといて! 元気になったら露水がママと一緒にお茶しようって言ってた、って!」
そのまま謎のイケメンは優雅に地上、というか停まっていた社用車をクッション代わりに着地する。だが車の上に傷やへこみはなかった。……ひとではないのだ。あのカルマとやらと同じように。やがて露水ちゃんと美形はそのままどこかへ去ってしまい、踊り場からは見えなくなってしまった。どうやって顛末を報告すればいいんだろうと考えあぐねているうちに、社用携帯に着信が入る。
「……はい、田代ですが。えっ! 瀬戸さんが!?」