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Daughters of Guns  作者: 三篠森・N
EP2 ご機嫌な万華鏡
8/15

ご機嫌な万華鏡 #2

「宗さんの左耳のそれが黒子じゃないって知っている人ってどれくらいいるんですか?」


「この町にはいないよ」


「……東磁化学本社には?」


「東京には三人いたが、忘れているだろうな」


「なら今はわたしだけですね」


 スマホの充電ケーブルを跨ぎ、綿貫さんが下着を着た。彼……綿貫さんと一晩を共にした浅沼宗一(28歳)という青年は、服のボタンを締める綿貫さんを一瞥してスマホの画面に目を落とした。夜通し充電しながら観続けた画面はもう人肌より熱い。


「今日も眠れなかったんですか?」


「昨日は眠れてる」


「なら今日はお家に帰って安静にしていてくださいね」


「……無理だな」


「無理?」


「全部やりつつ安静なんて出来ない」


 綿貫さんはなら自分が少しぐらいはお世話しますとは言わない。そういう関係だからだ。

 午前六時。既に夏の太陽はあたりを照らし始めている。

 新潟県糸魚川市。フェーン現象の影響で新潟県内でも非常に暑く、三十五度を超えることもざら、さらに変わりやすい天気で、昼夜の温度の変化も激しい。

 ホテルから綿貫さんの乗る車を見送り、海を臨む堤防沿いの国道を歩いて寝不足と気温で眩々する頭でタバコを吸い、三本程灰にしたところで公園を経由して雁木通りに入る。見上げると、家主のいなくなった燕の巣がかぴかぴに乾き、ぼろぼろと崩れてゴミになっていた。自動販売機でお茶を買いペットボトルをぶら下げながら懐石料理屋の角を曲がって駐車場を抜け、裏口のすりガラスを三度ノックし、返事がないことを確認して鍵を開けた。居間では人魚がテレビゲームをやっている。ヘッドホンからの音漏れでも大音量であることが伺い知れ、浅沼の帰宅にも気づいていない。


「控えろつってんだろ」


 浅沼はリモコンの音量のボタンを目いっぱい押し、ヘッドホンのジャックを引っこ抜いた。


「おかえり」


「声が大きい。イヤホンで大音量するな。あと俺が外出中はオンラインやめろって言ってるだろ」


「今朝の釣果は?」


「今日はない」


「釣れなかったの?」


「釣れなかった」


「朝食は?」


「あるもんで食う」


「さっきメッセージでコンビニ寄ってって言ったのに。読んだ?」


「通知オフにしてた」


「えぇ、コンビニ受け取りの荷物届いてるのに。プリペイドカードも買ってきてほしかったのに」


「お前、コンビニ受け取り今月何度目だ?」


「別にいいじゃん。わたしが配信のスーパーチャットで稼いだお金だよ」


「まぁいい。朝食はなくてもいいか」


「なんで?」


「食欲がわかない。なんで俺が食わないのに俺がお前の食い物をどうにかしないといけないんだ。腹減ってんなら適当に冷蔵庫にあるもの勝手に食え。……なんだ? いつものか?」


「うん」


「ほらよ」


 タバコと頭痛薬の箱を差し出し、人魚に咥えさせ、火をつけようとしてやめた。


「何?」


「タバコの火をつけるのは目上の者が先だ」


 と、自分もタバコを咥え先に火をつけ、そのついで程度に人魚のタバコに火をつける。どうやら人魚にも肺があるようだ。ふかしているだけの可能性もある。煙を尾びれで扇いで散らし、霧吹きで鱗を濡らす。青い鱗に光沢が戻る。

 束の間の喫煙を終え、水を入れたバケツに吸い終えた二本のタバコを投げる。人魚はタバコを吸い終えたばかりの口に頭痛薬の錠剤を吸い込み、桃色で形のいい唇をぎゅっと締めた。そして冷蔵庫で冷やしていた濡れタオルを取りに行く浅沼のズボンのベルトを掴み、キャスター付きの椅子で光もついていった。


「消火、確認」


 人魚がもごもごとバケツを指差し、タバコの消火を確認する。タバコを吸った後は必ずバケツと吸い殻を指差し確認。それが決まりごとだ。そして水もなく喉を鳴らして錠剤を呑みこんだ。

 浅沼が濡れタオルで顔を覆い頭と目を冷やし、居間で横になっているとガラガラとキャスターの音。


「浅沼、耳のそれピアスの穴?」


「もう塞がってるがな」


 彼は人魚のことを光と呼んでいる。光がつんつんと耳をつつく。彼にはもうそれを鬱陶しがる体力も気力もない。連日の酷暑と不眠で、今にも気を失ってしまいそうだった。むしろそうなれれば久々に夢でも見られたことだろう。


「もうつけないってこと?」


「ああ」


「なんで?」


「なんでって、それはお前、俺はサラリーマンだったからだよ」


「そうなんだ。わたしもさ、ピアス空けたい」


「なんだと? 許さんぞ。なんでだ。誰にも見せないだろ」


「わたしが見る。おしゃれは自分を誇るためにある。それに小汚いみっともない姿でいるのは嫌。恥じらいを忘れたらいけない」


「家に籠るから身だしなみなんてどうでもいいような姿は、恥じらいがないってことか」


 恥じらい。この人魚は良くそれを口にする。この人魚を拾ったのは数か月前の話だが、まずは素肌にTシャツで浴槽に浸かることに“恥じらい”を感じて下着を要求し、下着では水と相性が悪いからと水着を要求した。綿貫さんとそういう関係になったのは、綿貫さんが服屋で働いてことが理由で、光のための下着や水着を買うために彼女を頼ったからだ。そして綿貫さんは、浅沼には女性用の下着や水着を買う相手がいるというのにそういう関係になった。


「きれいになりたい」


 浅沼は自分がピアスを空けたときのことを思い出した。彼のピアスの穴は五年前に塞がったが、この町には彼がピアスを空けていたことを知ってる人間は綿貫さんしかいない。


「どうやって空けるの? やっぱり何か専用の道具が必要なのかな」


 耳から光の指の感触が消えた。代わりに椅子のキャスターが軋む音が聞こえた。パソコンに行こうとしているのだ。


「安全ピン、ライター、消しゴム、消毒液あれば出来るぞ」


「出来るの?」


「耳たぶ捨てる覚悟はあるか?」


「捨てる覚悟?」


「俺は人間だから普通のやり方で出来るがお前は人魚だ。同じ方法でやってもお前はダメかもしれない。耳が壊死したりするかもしれない。特にお前は一日の大半は浴槽で過ごす。雑菌が湧きやすい。いいか、消毒の徹底、壊死の可能性があると思ったら即やめるという約束で空けてやる」


 確か母の化粧台にピアスがあったはずだった。中古品だが煮沸消毒すればいいだろうと、浅沼は温くなった濡れタオルを顔から剥がし、光の顔を見つめた。耳に文字通り針の穴程度の傷をつけるだけだというのに、その完成された美しい顔を見て少し気が進まなくなったが、期待に顔を輝かせる光の表情を観ていたら今更やめるとは言えなくなったのだ。

 母の化粧台にあったファーストピアスを熱湯に浸し、光を仰向けに寝かせて耳たぶの後ろに消しゴムを置き、目にタオルをかけ、頭痛薬を数錠握らせる。目の前から耳に針が向かっていくのはきっと恐ろしいだろうとの配慮だった。安全ピンの先をライターで炙り消毒し、光に声をかけた。


「刺すぞ」


「うん」


 ぶつりと針が光の耳の肉を貫く。光が一瞬身をよじらせ、喘いだ。


「あ、思ってたより痛くないかも」


 鏡を覗き込み、耳に突き刺さる安全ピンを見た光はどこか嬉しそうで背徳的なスリルに浸っていた。光の親が光を産んだのか、それとも卵から生まれたのかは浅沼の知るところではないが、親からもらった体に痛みを伴う傷をつけ、飾ることに、何かを感じたのかもしれない。


「風呂場に行くたびに消毒しろ」


「うん! いいピアスほしい」


「一個だけな」


 自分が東京にいたときのことばかり思い出してしまう。ピアスを空け、セカンドピアスを選ぶ時の、そのピアスは似合うのだろうか、センスは正しいのかという不安定な高揚感とピアスを空けたことで大人になったという感覚。親との小さな決別。ほつれたマフラーにピアスが引っ掛かり、千切れそうな思いをしたようなこと。後にそのどれもがダサいということに気付き、若いだけの好奇心が尽きた頃には傷だけが残る。だが幸いにも小さな傷でまずバレることもない。


「耳のピアスが上手く行ったらもう一か所開けたいところがあるの」


「舌か?」


「鰭」


「ははっ」


「何よ」


「安全ピンじゃ開かないな。ペンチかなんかがいるぞ。それに鰭は耳と違って乾かせないだろ。雑菌が湧く」


「耳が成功したらって言ってるじゃん。それに人魚は雑菌に強いかもしれないよ!」


「ゲームは俺不在時は無音決定だな」


「なんで?」


「穴が出来てないうちはヘッドホンも出来ない。ゲーム実況の配信も無理だな」


「あ!」


 ガキめ。


「ねぇ、浅沼」


「なんだ」


「東京行ったこと、ある?」


「……あるぞ」


「何しに行ったの?」


 浅沼は言葉に詰まった。光は、浅沼がずっと新潟に住んでいて、観光か何かで東京に行ったことがあると思っているのか、それとも深い意味があるのか。きっとないだろう。そもそも、東京が何かすらもわかっていないのだ。小遣い稼ぎのゲーム実況の動画配信でマッチングする相手の住んでいる場所、程度の認識しかないだろう。


「大学に通っていた」


「学校?」


「そうだ。それで東京の会社に入って……。それですぐにやめて、ちょうど親父もお袋も死んだから新潟に戻ってきた。幸いにも金には困らなかったからな」


「なんでやめちゃったの?」


「悪いやつがいっぱいいたからだよ」


「そんな子供だましみたいな誤魔化し方は嫌」


「なんだと?」


「別に話したくないならいいよ。話したくない、で納得するし、察するから。でも悪いやつがいたから、とか、子供扱いはしないで。わたしはバカかもしれないけど、子供じゃない」


「ははっ」


 意外な反抗に腹が立ったが、何故だか少し嬉しい気持ちがした。


「かまぼこ食うか?」


「食べる。カニカマ」


「カニカマは高いからレタスも食わなきゃダメだ」


「えぇ? じゃあ普通のでいいよ」


「ははっ」


 ガキめ。

 浅沼は、この生活を楽しんでいた。

 ある晩、真っ暗な海岸を歩きながらタバコを吸い、それを不意に投げ捨てたら、海岸に打ち上げられていた人魚に当たったのだ。その人魚は記憶を失っていたがやたらに明瞭に日本語をしゃべり、しかも口はそれなりに達者だった。

 彼女を車で連れ帰った浅沼は、それ以降浴槽に彼女を住まわせていた。彼女は拾った当初からひどい頭痛に悩まされていたが、頭痛薬を与えることでそれは鎮まった。その代わり、彼女は一回二錠の頭痛薬を日に三回摂取する。頭痛がなくともだ。おそらく薬に依存してしまっているのだろう。浅沼の真似をして喫煙も始め、テレビゲームやお笑い番組、パソコンいじりやネットショッピングも始めた。

 そしてこれは、浅沼の不眠とは関係がないことだった。むしろ、光がいなければ不眠のせいで彼はおかしくなっていたことだろう。

 その時、来客を告げるチャイムが鳴った。光が家に来て以降、初めての来客だ。普段から口を酸っぱくして自分の存在を隠すよう、光には説いている。光は口に手を当て、頷いた。外にも自分の声は聞こえていただろうから、さすがに居留守は使えない。追及されれば電話だったとごまかせばいいだけだ。


「どちらさまですか?」


「どうも。東京のナツメ商会から来た夏目樒と申します。こちらは日出菊子」


 引き戸を開けると、二人の女性が立っていた。夏目と名乗った女性は神経質な性格を暗喩する細い銀のアンダーリム、隠しきれない三白眼。日出と紹介された女性は社会人とは思えない、大学生のような派手な格好をして飾りか実用かわからない日傘をさしていた。


「何の用でしょうか?」


「家電でお困りごとはありませんか? なんでも無料でチェックしますよ。古くなった家電、具合の悪い家電、盗聴器が仕掛けられているかもしれない家電。しかもとっても安く直せるし、新品をお売りできますよ」


 判で捺したような口調と言葉。東京特有の猜疑心と冷酷な目。だが、東京ではこの目を持っていないと生きていくことは出来ない。……出来なかった。

 この生活が壊れていく音がした。東京が……。東京の人間が、また自分を壊してしまうような気がした。

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