#6
「やっぱり君は“変”な人だな」
アハハハ。
「……」
そうだ。わたしは変だ。変だから優秀だ。変だから優秀なはずなのに……。今の自分は非力極まりない。変で非力はただの無力だ。何も出来ず、社会にもなじめず、最低限の仕事をこなせるかどうかも怪しい規格に不似合いの不良品の歯車。いや、そこまでではない。
そこまでではない……。
恩田の命令を受けたクリエーターの演出、脚本があるから自分はここまで追い込まれているのであって、『燃えよ剣』の感想文も野球のカウントも、“変”と言われた時は優越感すらあった。その優越感の過去と感情まで、劣等感としての“変”に侵食されてしまったら、今度こそ夏目樒という人間は完全に終わる。シキミはそこまで考え至り、完膚なき敗北を喫する基準を自ら設けてしまったことに気が付いた。恩田がいくらシキミを攻め立てようと、恩田には彼女が折れる瞬間や基準はわからない。シキミは自分で自分の限界を悟ってしまったからこそ、この基準に至ってしまった際にはもう一生治ることのない決定的な破損を以て人間として終わるだろうと理解し、その時が刻一刻というペースより早く、そう遠くない場所まで迫っていると震撼した。
恩田はこの場……『ワラビさん』の食卓のセットにはいない。そもそも彼が現れたのも初日の初回の撮影のみで、彼が何をして過ごしているかはわからないが、彼はあの小さな部屋で黒檀の机に向かって悠々と余暇を過ごしているのだろう。
「あら、お客さん」
今日の撮影では、確かツクシの友達が訪ねてくる予定だった。今日もまた賢いきれいなお姉さんと扱われ、最後には“変”だと子供にすら笑われるのだ。
「……」
「……」
来客を迎えに行ったはずのワラビさんの声がしない。祖母を始め、役者はアドリブが利かないのだ。アドリブは利かないが、セリフを間違えたり噛んだりすることもなく、演技を間違えることもない。全ての模範である『ワラビさん』は決して間違えることはないのだ。その『ワラビさん』がNGを出すということは、イレギュラー……いわば“変”な状況である。
「ごきげんよう。新聞はいかがですか?」
聞き慣れた……。聞き慣れた? 近頃はこの声をちゃんと聞いていなかった気がする。この声がこんなに震えるのは初めて聞いた気がする。よく手入れされた子猫のような、温かく柔らかく、人懐こく可愛らしい、心地の良い声質。紬だ。紬が来てくれたのだ。その事実を間違いなく認識したのに、シキミは茶の間でゼンマイが切れたように硬直する他のキャストと同様に全く声を発さず、身動き一つとれずにうなだれていた。
こんなに情けない姿を紬には見られたくなかったし、こんな危険な場所にも来てほしくなかった。紬は助けてくれるかもしれない。その事実はとても嬉しくて、口を開けばただちにシキミは慟哭したに違いない。それでも恐怖か羞恥か、彼女はやはり氷像のように冷たく硬直し、全く身動き取れずに、体の中からじっとりと滲むさらに激しい恐怖と羞恥の熱によって自我を溶かされていった。既にすべての判断を紬に委ね、紬次第で次の行動を決めるシークエンス……。それすら実行出来るかわからない。それ程、シキミはブチ壊されていた。
「この度、迷える子羊たちを救済し、理想郷を実現するための新たな布教活動のかたちとして、天国新聞ヘヴンタイムズの販売を下界でも行うこととなりまして、購読者を募集中でございまして、ヘヴンタイムズでは天国、下界、地獄の情報をどこよりも早く正確に伝えるどこよりも清く正しい新聞を提供させていただいております」
少女というにも小柄な体格で千両役者がやってきた。右手には、厚手の布を幾重にも重ねてグリップを握った怪殴丸、左手には改造エアガンを握るという実にチグハグな暴力行為行使宣言にして、それでもまだ子供の見た目と体格だと侮るものを威嚇するようにゴミ箱を蹴り上げた。
……それでも、セット内に動じるものはいない。セットの外のカメラマンやスタッフだけが少し慌ただしくなったが、それでも必殺の銃を持った天使の化身の乱入への対応としては実に落ち着いており、まるで校庭にタヌキが紛れ込んだ時のような、どこか距離感に欠ける遠巻きの興奮に留まっていた。
「今ご契約いただけると、下界にお住まいの方にはもれなく、東京ドームでのジャイアンツ戦のチケットをプレゼントさせていただいてますよ」
「……」
「ツッコまないんですか? シキミさん。ええ、今はもう新聞売りはしていませんが、天使もお財布事情は楽ではないのです。エンゼルスをごらんなさい。大谷選手とトラウト選手がいてもエンゼルスは借金生活でしょう?」
「……」
「わたしにとってあなたは、大谷選手よりもずっと優秀で大切です。さぁ、逃げましょう」
「……逃げる?」
「シキミさん。諦めるのも勇気でした。……あなたのプライドが傷つくのは承知の上で申し上げます。我々では菊子さんを奪還することは出来なかった。あなたをこれ以上犠牲にするわけにはいきません。これはカマエルの判断ではなく、わたしの判断です」
「何も出来ずに帰れと?」
「その負けん気だけでも戻ってきてよかったです。さぁ、帰りましょう」
その時、ぬめりと、泥の奥から這い出るように禍々しく、空気に直接書き込まれるように自然に、空から落ちてくるような威圧を以て、スタジオの扉を開けて怪人恩田が登場したのだった。やはりキャストは微動だにしない。スタッフは恩田に何かを伝えているが、そこには必死なトーンはなく、動かぬ屍の心電図めいて平坦……いや、冷淡だった。大天使の化身が千古に解きがたき謎と必殺の威力を持った超常の神器を構えようと、無駄。恩田とスタッフが交わす会話には罵倒よりも効く冷たい侮りがしみ込んでいた。キャストと違ってスタッフには自我はあるが、全能の如き恩田に全てをゆだねていることには相違ない。ほんの少しの裁量権が与えられているだけの違いで、ミニカーとラジコン程度の差しかないのだ。
「ごきげんよう、大天使カマエルの化身」
「わたしには名前があります。鎌倉紬」
「ええ、今のお名前はそうでしたね。随分とハイカラ……。これも死語か。時代に合わせて名前を何度も変え、衣服も変え……。低い身長と小さな体だけは変わりませんね」
「当時は十四歳で一四二センチでも普通だったのですよ、坊や」
「おやおや。同じ不老不死でも生まれた時代の違いですね。さて……どうします? 私はどうでもいいですよ。ダメでもどうせやり直すだけだ。あなたが死んでも、誰かがカマエルから化身の任を授かるだけでしょう?」
「化身としてはそうですね。鎌倉紬は長く生きすぎました。命の重みを知っているつもりでも、死なないわたしがその重みを説くのでは価値はない。そして、その重みを説くのは天使の仕事。わたしの仕事ではありません。命の重みを知るべきなのは限りある命。あなたに説いても意味はない」
「それでも、やはり死の恐怖に怯えるのですね」
紬は左手のエアガンを捨てた。怪殴丸からの干渉を極限まで避けるよう幾重にも巻いた厚手の布……。それを捨て、両手でしっかりと怪殴丸を握った。その前から紬は震えていた。そう、震えていたんだ。
……わたしも。
「あなたを撃ちます」
「ご自由にどうぞ」
シキミはきちんと顔を上げ、現状を直視していた。恩田の禍々しく毒々しく、それでいてどこか美しささえ感じるアメジストじみた強固な殺気。一方の紬はずっとわた飴。そのわた飴はじっとりと涙と汗に溶け、小さく硬くなり始めていた。
紬が震える手でトリガーに指をかけた時、特別に強い霊感の持ち主ではないシキミは、人生でまだ見たことがない程の怪現象を目の当たりにした。毛筆で描いたような力強い黒の線に縁取られた純白の炎が紬の頭に燈り、首から上を全て塗りつぶしてしまったのだ。その炎の奥で、紬が苦痛に喘ぐ声がかすかに聞こえた。何故炎のような形のないものに、絵の中のような縁取りがあるのかは全く理解出来なかったが、その冷酷なくらい真っ白な炎の本質が暴威であることは直感的に理解出来た。これは紬の力ではない。怪殴丸の力……福音か、呪詛か。呪詛に違いない。紬が……。こんなに禍々しい力を使うはずがない。
BLAM!
銀の銃は、紬の頭部に燈ったものと同質のマズルフラッシュを噴き出し、コンマ数秒後に恩田の左肩が破損してどす黒い血肉が飛散した。着弾点では、それでもまだ許さないとでもいいたげに白の炎が一秒か二秒残ってそれも霧消した。
「お……? おやおやおや。やはり少しは効きますね」
それでも恩田は立っている。呪詛の白炎に焦がされた傷を触り、左の肩を回してダメージを探った。そして無情にも、天使の化身と呪詛の神器による一撃すらもゾンビの始祖に致命傷を与えるには至らなかったのだ。
一方の紬は蓋を剥がしたように吐血した。一目で激甚な損傷を肉体に負ったとわかる量、そして両手を床について四つん這いになり、またさらに血を吐いた。精いっぱいの気力で顔をどろりと上げれば、もはや天使というより悪霊という言葉がお似合いの血涙、鼻血。悪鬼の表情。やがて彼女は崩れ落ち、痙攣すらも止まって動かなくなった。
「おやめなさい。見世物ではありません」
恩田がどんな感情を持って紬を見ていたかはわからない。だが、彼はどこか意気揚々と紬の姿をカメラに収めようとする撮影スタッフを睨みつけ、制止した。撮影スタッフは芯を抜かれた様に足を震えさせて、恐怖に我を忘れて自ら一時的に自我のヒューズを飛ばして無表情となった。
「敬意を表します。あなたは最後に四〇〇年にわたる天使の使命を捨て、人間の矜持を優先した。あなたはカマエルの化身ではなく、鎌倉紬……。最初の名前はわかりませんが、人として生まれ、天使の化身として四〇〇年生きて、鎌倉紬という人間として死んだ。……私では選べない最期でしょうね。さぁ、あなたはどうします? 夏目樒……。ここにいるのは、死者、天使、命ある人間。つまり私、鎌倉紬、夏目樒。命や生き様、使命について共通する定義がない。共通点があるとすれば、生まれた時は人間だったということくらいです」
「……」
シキミは紬の手から怪殴丸を引き剥がし、左手に握って銃口を恩田に向けていた。どろどろの血に塗れ、銀の素肌は全て隠れた呪詛の銃。神経質を暗喩するメガネに映る怪人恩田。そのメガネに浮かび上がる、白。白い歯。
何を笑っていやがる……。宿敵である天使の化身の死より、一顧の価値もない人間の怒りがそんなに可笑しいのか……。
ならばお前はもう、人間ではない。
今のシキミは自我の手綱すら焼き切らんばかりの殺意の炎に全身を焼かれている。それは自分のもの……夏目樒の感情だ。この数日間で自分に人間らしい感情を取り戻させてくれた紬の死の悲しみより、自らを蹂躙した恩田への憎悪と紬を死に追いやった恩田への怒り、自らの無力を呪うやけっぱちが今の彼女を支えていた。
「殺す……」
「ご自由にどうぞ。撃つならここです。頭。さすがに私も死ぬでしょう。ただし、ごらんなさい。撃てば反動であなたも死ぬのです」
「殺す」
「先に言っておきましょう。撃つのは自由、撃たないのも自由ですが、あなたには撃たないことをお勧めします。五体満足の体のまま鎌倉紬を連れ、ここから去りなさい。あなたに執着はありません」
……殺せ。
「殺す」
殺せ。
「殺す!」
殺す!
怪殴丸から流れ込む憎悪と呪詛は、はじめは感覚を通して命令するだけだった。やがてシキミと怪殴丸は共鳴し、言葉すらも同一のものとした。もうどちらか一方からの命令ではなく、同一の目的を持った一つの魂となっていた。
殺す。
「撃つなだって? ビビってんのか? よくもわたしを“変”だ、“変”だと言ってくれたな。違う。わたしは完璧だ! ほかに並べるものがいないくらいの完璧だ! 頭脳も運動も美貌も! わたしに並べるものなんていないんだ!」
「よかったですね。その意気ならば十分に鎌倉紬の遺言を果たせそうですよ。あなたが生きて帰るつもりなら、ね。死ぬつもりならそれが遺言になるだけです。申し訳ないですが、いつまでもお付き合いすることは出来ません。私にも自分の生活やリズムがあるのです」
「わかった。じゃあ消えろ。即刻ゥ……。そして永遠にな!」
コロンビア大学に入学出来た優秀な頭脳、それを覆う同級生も道行く人も一度は振り向いた美貌にぼうっと燈る純白の殺意。今度は吞まれない。殺すという言葉を自分なりにアレンジし、舌と銃のトリガーを引いた。
「イピカイエ、クソッタレ!」
BLAM!
「……アメリカにいたという割には銃の腕はよくないですね」
白い炎の残滓は恩田の首筋で踊る。頸動脈から夥しい量の血を噴き出し、もはや紬の血か恩田の血か判別がつかぬほどの血だまりと化している。そして無情にも、恩田はまだ立っていた。何者をも拒絶する断崖のように、絶望的に屹立していたのだ。
「何が怪殴丸だファック野郎……」
数拍遅れて今度はシキミが膝をつく。歩くなんて到底不可能な程のひどい眩暈に襲われ、手の末端に激しい痙攣と痺れが生じて怪殴丸を握るのが精一杯となった。止まらぬ咳は徐々に湿って口の中に鉄の味を滲ませた後、ごろりと大きく肉片の付着した奥歯が口から落ちた。射撃と引き換えに死んだ紬よりは軽度ではあるものの、明らかに怪殴丸の代償だった。
「殺す……」
シキミの意識は徐々に遠くなり、言葉を怪殴丸に奪われた。熱病のうわごとめいて何度も同じ言葉を繰り返し、それでもエイムが定まらずに恩田を撃つことが出来ないという判断力だけが明瞭に残っていた。このままでは恩田に殺されるかもしれない。生き延びたとしても挫折によって精神的な死を迎えることだろう。ならば、道連れに恩田を殺す。……その合理すらも、シキミを利用して恩田を殺すという怪殴丸の意思であるのかもしれなかった。
「おやめなさい」
「……」
「おやめなさい! 山中ワラビ!」
立つこともままならなくなり、腹ばいになったこの場唯一の“人間”夏目樒。そこにもう一人、人間がやってきた。あの頃感じた肌触りでも、力の具合でもない。それでも体が覚えている祖母の体温だった。やたらと狼狽する怨敵恩田の声を心地よく感じる程、シキミの精神は元に戻りつつあった。
「わたしに貸して」
山中ワラビ(仮)が怪殴丸を握るシキミの手に触れた。……。シキミは咄嗟に胸の銀の万年筆で山中ワラビ(仮)に触れた。何も反応はなかった。変身能力を持つシェイプシフターやスキンウォーカーならば純銀に触れれば何かしらのリアクションはあると、ナツメ商会就職時にレクチャーを受けている。ならば山中ワラビ(仮)は、“人間”だ。そして夏目樒も惰弱で怯懦な“人間”だった。もしも本当に山中ワラビ(仮)が祖母であるならば、子供のように甘え、不確かな希望に縋るしかなかった。
「お願い、おばあちゃん。あいつをブッ殺して……。あいつが紬さんを殺しやがった」
山中ワラビ(仮)は髪をほどき、さらさらの黒髪をなびかせて銃口を向けた。その構えは全くの不慣れで笑える程の素人だったが、怪殴丸を握っても身体的な異常も起きず、言動に変化も来さなかった。何かがおかしかった。
「やめなさい、山中ワラビ。あなたを殺したくありません」
「どうやら違うみたいです。わたしは未来から過去に来た……何か。アスタ・ラ・ビスタ、ベイビー」
BLAM!
恩田の右目と頭蓋の一部が叫び声と同時に弾け飛んだ。頭部の右側の目から上を失ったゾンビの始祖は仰向けに倒れてごぼ、ごぼと呼吸に応じて喉から血を吐き出した後、バネ仕掛けめいて跳ね上がり、天井の梁を掴んだ後に空中ブランコの要領で飛び出してどこかへ消えていった。血痕の間隔は驚く程遠く、その速度での移動を可能にした膂力を物語っていた。
「立てますか?」
「わたし……シキミだよ」
「ごめんなさい。覚えていません」
……。
山中ワラビ(仮)は射撃の瞬間も白い殺意の炎に包まれることはなかった。怪殴丸の理屈はシキミには全くわからない。この二分かそこらの時間で紬、シキミ、山中ワラビ(仮)が怪殴丸を撃ち、紬は死に、シキミは意識こそを残ったが負傷した。そして山中ワラビ(仮)には一切の影響がなかったのだ。
だが、今はどうでもいい。
「一緒に逃げてくれる?」
「わたしは……。どこに逃げて、どこへ帰るかわからない。でも、あなたを手伝いたいと思う。よくわからないんだけど……。あなたがわたしのために何かしてくれようとしたのは、わかる気がするの」
歯切れの悪い口調はセリフではなく剥き出しの言葉。
「紬さんを背負って。わたしが案内する」
誰も追ってはこなかった。操縦者である恩田が不在の今、不測の事態に装置は自らの意思では動かない。
〇
"1 month later..."
「夏目さん」
「何?」
「傷、塞がりましたか? そろそろ発泡酒飲めるんじゃないですかァ?」
「わたしはビールを飲むよ」
原宿地下霊園。
ここに新たに、鎌倉紬の名が刻まれた。鎌倉紬が生まれた時の名を知る人間はいない。少なくとも生きている人間は。だが彼女は時代に沿って名を変え、東日本の怪奇現象解決のためのナツメ商会、ナツメ商会を率いる夏目家と共に過ごしてきた。
スマホに通知が入った。それを検めたシキミは紬の墓石に一度触れ、地上行きのエレベーターのボタンを押した。
すっかり代々木公園の桜は新緑に生え代わり、青々とした葉がさらさらと鳴いていた。シキミはこの季節が嫌いだった。葉は何も悪くはないが、花の中に葉が混じると桜の終わりを感じてしまう。
「喫煙所、私費で地下に作ろうかな」
幸いにも怪殴丸使用の反動で抜けた歯はいずれ抜かなければならない親知らずであり、特にインプラントの必要はなかった。縫合こそ必要でしばらくはタバコが染みたが、今はもう問題はない。タバコの代わりにクレープの甘味で心の痛みを紛らわしていると、巨大な車が神話に登場する魚めいてゆっくりと、泰然とやってきてナツメ商会の駐車場に停まった。
「夏目樒さん?」
「はい」
「どうも。ご注文通りに修理と改造と施しました」
「ありがとうございます」
1957年式クライスラー・インペリアル。この車をベースに改造した車が、紬の好きだった『ウルトラセブン』で主人公の乗るポインター号になる。これは紬の遺品の一つだった。
紬を荼毘に付したのち、遺品整理のために彼女の住まいを訪れたシキミは、ただ一言「もしもの時」とだけ書かれた封筒に入っていた車のキーを見つけた。
保険や名義の書類も一式が用意され、車の修理と改造の大まかな案は既に紬から業者の方に依頼されており、書類も改造の案も後はシキミが微調整をするのみだった。
……。「もしもの時」とは言いつつ、紬はあの場で死ぬつもりはなかっただろう。だからこそ、自分の非力と失態が紬を死なせてしまったのではないかと考えてしまうこともあった。今は受け入れるしかない。自分は完璧ではなかったと受け入れれば、無力から非力に変わる。完璧な人間は自分で全てを出来なければ無力であるが、完璧ではない人間は初めから誰かの力を借りねばならない一種の非力なのだ、と……。
だが、どちらにせよきっと紬はこの車を自分に譲ってくれるはずだった。奈良に行く前から、彼女はわたしの車好きを知っていたんだから。
シートに座ったシキミは一度メガネを外し、ハンドルにもたれかかった後、スマホとBluetoothを接続し、流れてくる歌詞をなぞった。
「はるかな星が、ふるさとだ……」
前を向き、キーを回す。
「ウルトラアイでスパーク!」
メガネをかけ直したシキミは、そのまま西へ向かうのだった。
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EP2『ご機嫌な万華鏡』