ヨコハマ・ミステリー・ステーション #2
「よし……。状況を整理しましょう」
「はい」
「ここが、ユニスポ報道の“なぞのばしょ”だと」
「そうみたいですね……」
いつ何が起きたのか全く分からなかった。
だが、気が付けばシキミとキクコの二人は、周囲に誰もいない……。改札や出口を目指す横浜駅の利用者も、頼れる相棒の明智さえもいない真っ黒……そう、真っ暗ではなく真っ黒な場所にいた。光の濃淡も影もなく、だが不思議と距離感は掴め、前方にあるマホガニー材の扉との距離は問題なく測ることが出来た。ここでもシキミの特技である超目測は正確に働いていた。超目測は、目視した対象への距離や大きさを誤差一センチ以内で測るものである。さすがにみなとみらいから大観覧車の大きさまでは測れないが、具体的には二十三メートル以内の距離までなら誤差はほとんどなく、また二十三メートルというのはキクコが怪殴丸を使った際の有効射程距離と一致する。
「明智さんと連絡はとれますか?」
「スマホは繋がりますね」
シキミとキクコは揃って明智とのビデオ通話を開始した。その間際、自分たちがこの“なぞのばしょ”に紛れ込む直前に何をしていたのか把握した。シキミは最寄の喫煙所を探し、キクコは自撮りした写真に加工……と言っても罪のない加工であり、シキミと明智の顔をスタンプで隠すものであったが、実際彼女はSNSを利用しておらず、やっていることはSNSごっこでありこの写真もネットの海に流れることなくキクコのスマホで眠り続ける。今夜無事に帰ることが出来るならベッドの中で見直してしっとりと笑うことだろう。
「明智さん。シキミです。明智さんはどこにいますか?」
ビデオ通話に映る自分の背景は真っ黒。やはり距離感のない真っ黒であり、テレビや映画のトリック撮影じみていた。一方で明智の背後は先程までシキミとキクコもいた雑踏の巷であり、ざわざわとした喧噪を嫌に懐かしくも感じたのだ。今はまだ、懐かしい程度で済んでいる。この水底のように森閑とした奇怪千万の異空間に滞在し続ければ、やがて喧噪を赤子のように欲して直ちに喉が絶叫を発するに違いない。
「私がいるのは先程と同じ横浜駅のようだな」
「どうやらわたしたち二人は、歩きスマホをしていてこの異空間に迷い込んだそうです」
「なんと皮肉な話だ。普段はスマホ中毒の私が無事で、君たちが異空間に落ちてしまうなんて」
「そこは普段の行いじゃないですか? スマホ中毒の自覚があるから明智さんは歩きスマホしないんでしょう」
「かもしれぬな。マナーは守ってくれ」
「はぁん? 異空間越しだと説教は聞こえませんねぇ。残念です」
「まずは情報収集してみよう。私は今から壁を殴る」
「そういえば何年か前に、ベイスターズの選手で冷蔵庫を殴って骨折したピッチャーがいましたね。横浜ってことで、それの再現ですか?」
「軽口を叩く余裕があるのはいいことだ。だが! 君一人がタフぶっていても、隣にいるキクコさんがどれだけ不安か考えたか!? 考える余裕もないのだろうな、今の君には! 今、君は生還する方法も入ってしまった経緯もわからぬ場所に入り込み、打つ手がなければ無縁仏にすらなれずにそこで朽ち果てることになる! 残される家族を考えろ! 確かに今はスマホの電波が繋がっている。だが電池には限りがある! タフぶって緊張を紛らわすのも結構、だが! このような緊急の状況下では、ジョークのラリーにも制限があることを理解してもらわねば困るのだ!!!」
突然の激昂! これが明智の悪癖である。普段は職業ドラマでもエンドロールでは主演よりも幾分小さい文字でクレジットされるようなさして面白みもない男であるが、時折こうして自分を制御出来ずに主役を押しのける程の激昂に達してしまう。
「ゴメンナサイ……」
「すまぬ、私も少々熱くなってしまったな。だが、今の状況は決して楽観視出来るものではない。キクコさんの勘の鋭さ、シキミさんの目測、すべてが揃わねばこの極めてシリアスな場面からは逃れられぬとわかってほしい」
異空間に迷い込んだことよりも明智の激昂に恐怖したキクコは蚊の鳴くような声でわけもわからず謝罪し、明智はすぐに正気に戻った。だが、ここまで怒鳴られる謂れはない。
「壁を殴ってどうするんです?」
「私が殴った際、そちら側の壁にレスポンスがあるかわかるか?」
「試しに殴ってみてください」
「そらっ」
ミシリ、と画角が歪む……のは明智側の画面だけであり、唐突に壁を殴った中年男性の姿に後方では人が無意識に距離を置くのが見えた。やはり向こうは正常らしい。正常とわかればわかる程、シキミとキクコは自分たちが曙光のさすことがない暗闇の中にいるとより一層気分が暗くなるのだった。
「伝わらないですね。壁はレンガやコンクリでしょうし、こちら側の壁はつやつやしていて真っ黒……。漆器のような感触がある素材で、何で出来ているかは皆目見当もつきません」
「あ、怪殴丸はどうでしょう? 明智さんの壁を叩くという行動には、明智さんの一種高揚が含まれます。明智さんはミカエルの化身ですから、怪殴丸のダウジング対象を明智さんに絞れば、明智さんを常時捕捉することは出来なくても叩く瞬間の高揚はサーチ出来るはずです」
「それでやってみましょうか」
キクコがポーチから黒光りの拳銃を取り出した。落とせばそのまま床の黒に混ざって二度と見つからなくなってしまいそうな暗黒の色だった。キクコが握ることで太い毛筆で描いたような黒の輪郭線に囲まれた超常の白炎が銃口、キクコの手に燈り、ぞわりと何かが遠のいていくような気配がした。この銃は握るだけで、所有者に自らの殺意と暴力衝動をネイキッドに伝え続ける。所有者の正気への挑戦じみた害意の猛火だが、キクコはそれを全く意に介さない。
「では、明智さんどうぞ」
「わかった。そらっ」
「……。はい、わかりました。お互いに一歩も動いていないことが幸いしましたね。すぐ壁……壁? 壁を挟んですぐのところに明智さんがいるのがわかりました」
「それはよかった。では次のテストだ。私の歩幅は大体一歩八十センチメートルだ。私はこれから壁伝いに十歩歩く。それで八メートルだな。シキミさんには超目測があるから、自分の歩幅を八十センチに調整したうえで同じく十歩歩いてくれ。その時点でまた壁を殴る」
「わかりました」
壁に触れている、前方にマホガニー材の扉があるということだけで自分の位置を定義していた二人は、まるで自分が秋の湖面に浮く落ち葉であるかのように頼りなく前進した。壁、扉さえなければ直進することも叶わなかっただろう。それでも壁一枚隔てた場所に明智がいると思えば気持ちを強く保てた。特にキクコは。
「では、ノックする。そらっ」
「……ダメですね。だいぶズレています。わたしの感覚では二メートルか三メートルか……。シキミさん程正確には測れないけれど、先程とは違ってレスポンスの場所を遠く感じます。でもレスポンスの強さ自体は変わらないので、壁の厚みは変わっていないはずです」
「私の歩幅が毎回キッチリ八十センチではないとはいえ、たった十歩でその距離の誤差は辻褄があわぬな。つまりだ。その空間とこちらの空間では」
あちらの世界、異空間、なぞのばしょと表現しない部分に明智の気遣いを感じた。
「距離感に乖離があるということだな。キクコさん、君たちから見て私は君たちより前にいたのか? 後ろにいたのか?」
「わたしたちが後ろです」
「そうか。ではシキミさん。君は先程、マホガニー材の扉が前方にあると証言した。その扉との距離感……。私では想像もつかぬ、影も光もない真っ黒な空間に扉だけがあってそれを認識出来ているということだが、君はこの歩数計算前と比較して、正確に八メートル前進したと思うか?」
シキミは神経質を暗喩する銀のフレームのメガネをかちゃりと直し、扉を凝視した。シキミの超目測は対象の大きさとそこへの距離を根拠に算出するものであるが、床と壁の区別すらつかないこの場所で正確に距離を測ることは難しく、扉の大きさも常識では測れないということを改めて再認識した。巨人用の扉かもしれないし、小人用の扉かもしれない。ただ、現段階で確かなのはシキミが一歩八十センチで十歩歩いた……つまり八メートルの前進と、歩幅と歩数を合わせたはずの明智との距離の乖離、そして自分たちが後ろにいるということだ。
シキミは既に最悪のシナリオを想起しつつあった。
「八メートル分の前進はなかったように見えますね。ええ、わかりました、おっしゃらないで。最悪の事態は自分で言いたい。つまり、わたしとキクコさんの体は小さくなっている可能性がある」
「そういうことだ。君が」
「だからわたしが自分で言うって言ってるでしょう!」
明智の気持ちはわからないでもない。明智はシキミたちよりも怪異に詳しく、経験値以外に仮説や思想を持って生きている。そして実際彼自身も怪異のようなものだ。
だから明智の説明は正しいのだろう。だが、自分がパニックに陥りそうな絶望的な状況では誰かの優しい言葉よりも、自分で自分にとどめを刺す方が格段に楽であるのっぴきならない場面も存在するのだ!
「わたしは歩幅八十センチで歩いていると思っていましたが、人体そのもののスケールが小さくなっていたから、わたしがそう思い込んでいるだけだった。わたしたちが明智さんよりきっちり二メートル後ろにいるとしたら、わたしの一歩は実際は六十センチ……。つまりわたしとキクコさんの体は3/4……。七十五パーセントまで小さくなっているということですね」
「そうだ、つまり」
「ええ、ええ、だから……。わたしが自分で言いますよ! 怪異のことならねぇ、明智さんの方が詳しいかもしれないですけど通常の学問ならわたしの方が得意なんですよ! つまり、体が小さくなっているということは扉までの距離は目視での推測以上に遠いということです。わたしは自分で小さくなった自覚がありませんでしたが、もし一歩ごとに小さくなっていたら、一歩ごとに2.7%小さくなる。百歩歩けばわたしは身長十センチ未満ですよ」
「小さくなるトリガーもわからぬな」
「移動距離なのか、移動するという意思に応じたものなのか……。或いは時間経過か。後退すれば体の大きさも戻るのか……。もう少し小さくなればわたしの声帯が物理的に小さくなったことによる声の音域の変化で本当にわたしが縮んだのかもわかるかもしれないですね。あとはわたしの着衣や持ち物は今のところ大きさに変化はないですけど、もし胃の内容物が小さくなっていなかった場合は進むごとに小さくなる胃が耐えきれずにわたしは未消化物で体内から爆散して死にます」
「タフなジョークだ。一旦扉へ進むことは保留とし、状況整理をしてみよう。私の記憶、キクコさんの証言によると、君たちがその空間に迷い込む直前、シキミさんはスマホで喫煙所を探し、キクコさんは自撮りをしていた。つまりスマホがトリガーなのかもしれない。そして、キクコさんの最新の自撮りに何が写っているかで出来る限り考えてみよう」
少し気力にも疲れを感じ、シキミとキクコは縦横も奥行きもない黒い場所に座った。何故かそこに座っても落ちては行かないという確信があった。シキミは、そもそも常識や認識自体が、この空間に迷い込んだことで一部塗り替えられているのかもしれない、と不穏な考えを抱いた。
「“赤い靴の女の子”像ですね」
“赤い靴の女の子”像。それは横浜市内に複数個所存在する観光スポットであり、童謡の『赤い靴』に因むものである。赤い靴を履いていた女の子は、異人さんに連れられて行っちゃった……。今のシキミとキクコも似たようなものだ。世界中のありとあらゆる場所にアクセス出来るようになり、異人と言う言葉も曖昧になった。だが、存在していないはずのこの場所に何者かが存在するのであれば、それは人と定義を異にするものだろう。
「シキミさん、少し落ち着いたか? 私の仮説を聞いてくれるかね?」
「いいでしょう」
シキミは胸ポケットから煙草を一本抜き、指で長さを測ってみた。いつもと同じ長さ……。つまり、自分の体が3/4のサイズになった上で煙草だけは正常なのではなく、煙草も3/4に縮んでいる。そしてこの場所は禁煙とも喫煙とも指定されていないのだから、吸ってやればいいのだ。そしてこの真っ黒な空間に煙が立てば、それを目印にある程度の目測がつくかもしれない……と御大層に合理的理由を考えたが結局は恐怖を和らげるために頼った喫煙と言うルーティンだった。
「私は先程、車の中でささだもんの解説動画を見て横浜の名所や都市伝説スポットを学習した。横浜、実に奥深い町だ。東京はビジネス街と繁華街、観光スポットを内包するが、東京は……。情報量が多すぎるが故にまとまりがない。だが横浜は同じ膨大な情報でも、どこか、おしゃれやハイカラといったコンセプトがあり、情報の方向性が定まっている。例えば心霊スポットである外国人墓地の“青い目の幽霊”と、異人さんに連れられて行っちゃった赤い靴の女の子も、どこか外国人という繋がりがある。そこで、この数年間ミームとなっている横浜の都市伝説があるのだ」
「言ってみてください」
「それは、横浜駅は日本のウィンチェスター・ミステリー・ハウスという揶揄だ」
「ああ、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスですね。あの無限増改築の怪屋敷」
「そうだ。ウィンチェスターライフルで財を成したウィンチェスター夫人は、自宅を無限に増改築し続けた。一六〇以上の部屋、二十本近い煙突、夫人が拘った“蜘蛛の巣”と“13”のモチーフが屋敷内の随所にちりばめられ、天井に直結する階段や次の部屋に繋がらない扉などもあるという。増改築は二十四時間三百六十五日で三十八年間……つまり夫人が死ぬまで続けられた」
「確か夫人はウィンチェスターの銃で命を奪われた人たちの霊に怯えていた」
「真相はわからぬが、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスは確かにアメリカに存在し、そして夫人の死でこれ以上は大きくならない。だが横浜駅は現在の位置に移った一九二八年以降増改築工事が終わったことがない。その横浜駅をウィンチェスター・ミステリー・ハウスとなぞらえたジョークだな」
「今、関係ありますか?」
「私の仮説には関係がある。呪いとは、情報が人間の耳に入り、脳と心で曲解と誇張を経て口から出る。そういった拡散と変質が連なることで情報は呪いへと進化し、さらに起源情報の真偽とは関係なくとも情報量が増えれば増える程呪いは強力になる。だが、この横浜駅ウィンチェスター・ミステリー・ハウス説は比較的新しいネットミームだ。だが赤い靴の女の子の霊、外国人墓地の青い目の幽霊といったものは定番だった。他にも首無しジョッキー、中華街の人語を話す猫など横浜の都市伝説には枚挙に暇がない」
キクコはここまでの横浜旅行の写真を検め直した。確かに外国人墓地は、霊感の強いキクコにとっては周囲とはかなり空気感の違う場所だった。だがさして特別でもない。大きめの墓地特有のもので、悪しき霊魂がたむろしている訳でもなく、そういう場所としか言えないがそういう場所だ。明智が語ったように情報の変質による呪いではなく、ヒトの手が加えられていない理としての怪異だった。
「でもわたしはそういうローカル都市伝説は聞いたり聞かなかったりですけど、横浜駅ウィンチェスター・ミステリー・ハウス説は見た覚えがありますね」
「ネットに疎いキクコさんでも聞いたことがある程だ。そういった横浜の都市伝説を包括するのが、横浜駅ウィンチェスター・ミステリー・ハウス……。#ヨコハマ・ミステリー・ステーションという訳だが、どこか不自然なのだ。こう揶揄するものは昔から少なからずいたが、最近は半ば大喜利じみて面白がり、ヨコハマ・ミステリー・ステーションをハッシュタグ化して拡散する風潮が強い。横浜駅のどこどこでこんな幽霊を見た、横浜駅でこんな変な体験をした、果ては横浜駅の窓から怪獣が暴れるのを見たという荒唐無稽で無関係なものまで存在する。こういった情報が多く上がっているのだ」
「つまり、それで無限増改築の情報が#ヨコハマ・ミステリー・ステーションにより呪い化し、横浜駅そのものが受肉してヨコハマ・ミステリー・ステーションになった……。この間のフックマンとほぼ同じ流れですね」
「キクコさん、理解が早くて助かる。つまり、この呪いはフックマンと同じく、怪殴丸で殺害することは出来ない」




